第87話 弾むきもち
テスト期間中に同い年の女子部員の家に行って練習するのは、もはや恒例行事になっていた。
「と、いうわけで先生、今度の土曜日は学校にいますか?」
「なんかもう、あてにされてんなあ」
鍵太郎の担当は、重さ十キロある低音楽器のチューバだ。学校の音楽室にあるそれを、いったん家に持って帰ってさらに練習場まで運ぶというのは一苦労である。
なので前回は本町に学校を開けてもらって楽器を持ちだし、直接この近くの練習場まで運んだのだ。ひょっとしたらもう一人分の電車賃がかかりそうなあの楽器を、手間をかけて持ち帰らずに済むというのはかなりありがたい話だった。できれば今回も、そのような形でお願いしたい。
本町は口ではそう言いつつも生徒が練習熱心なのは嬉しいのか、「いいぜ、開けてやるよ」と言ってくれる。
「クリスマスコンサートの楽譜のコピーも、職員室に人がいねえときにやっておきたいからな。着いたら職員室に来い。準備室開けてやるから」
「ありがとうございまーす」
鍵太郎は頭を下げた。その様子を見て本町はなにか思うところがあったらしい。訊いてくる。
「なあ、湊。これからも宝木んちで練習することって、しょっちゅうありそうか?」
「はあ、まあ、あると思いますよ」
「そっか。とすると……」
先生がなにやら、あごに手を当てて考え始めた。え、なんだろう、と心配になる。
「えーと……。ひょっとして、こういうのってあんまりやっちゃいけないんですか?」
「いや、そうじゃないんだ。そういう機会が増えるのなら、もっと運びやすいケースのがいいんじゃないかなーって思って」
「はあ」
鍵太郎は自分の楽器のケースを見た。ものすごい大きいスーツケースみたいな、キャスター付きの箱。転がして運べるものの、重心が安定しなくてあっちへ行ったりこっちへ行ったりする。そんなケースだ。
これ以外のケースなんてあるのかと思って、鍵太郎は首をかしげた。他のものを知らないので、そんなこと考えもしなかったのだ。
本町には心当たりがあるらしい。「まあ、期待しないで待っててくれよ」と彼女は肩をすくめた。
「だとしても、今回は間に合わないからな。今度の土曜日は、今まで通り普通に持っていけばいい」
「……わかりました」
すっきりしない感じを持ちつつも、うなずく。期待しないでと言われても期待してしまう。
どんなのだろうとワクワクしていると、「余計なこと考えてないでテスト勉強しろ」と言われた。そういうところはこの先生は、実に先生らしかった。
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テスト期間中は部活動が休止になる。
それは進学校である川連第二高校では当然のことで、『一日休めば三日遅れを取る』とまことしやかに囁かれる吹奏楽部でさえ、そのルールからは逃れられなかった。
いくらこっそり練習しようとも、音を出せば一撃でバレる部活である。なのでおとなしく部員の大半はテスト勉強に徹している。
しかし、鍵太郎たちは学外に練習できる場所を確保していた。それがクラリネットの
彼女の家はお寺であり、本堂の裏に離れがある。そこを鍵太郎たちは今回も使わせてもらっていた。
「はーい。マカロンだよー」
練習の休憩時間に、咲耶がお茶とお菓子を用意してくれた。職業柄いろんな付き合いがあるからか、宝木家ではよくお菓子をもらうらしい。行くたびになにかしら出てくる。
今回は色とりどりのマカロンだった。「かわいいー!」と他に練習に来ていた
パステル色でまるっこいマカロンは確かに女性好みなのかもしれないが、鍵太郎としてはとりあえずおいしければかわいかろうがなかろうが、どっちでもいいんじゃないかと思ってしまう。
光莉と涼子がさっそくマカロンに手を付けている中で、鍵太郎は黙ったままお茶を飲んでいた。
「……食べないの?」
珍しい。いつもなら即座に手を出していたはずの鍵太郎に向かって、咲耶は不思議そうに言った。特に公言したわけではないが、鍵太郎が甘いものが好きだということは周囲には知れ渡っていた。
「……マカロン、嫌いだった? 他になんか持ってくる?」
「いや、そういうわけじゃなくて……」
気を遣って他のものを持ってこようとする咲耶を、鍵太郎は制した。確かに今までは遠慮なく手を出していたのだが、最近になって鍵太郎の中である変化が起こっていたからだ。
「なんか最近、甘いものに手が出なくなってさ……前はあんなに食べてたのに」
そうなのだ。最近になってなんとなくだが、手を出すことがためらわれるようになった。
いや、食べられないわけではないし、食べたい気持ちはあるのだけれど、どこかで拒否感が働くのだ。
マカロンをほおばる光莉と涼子を見ながら、鍵太郎はぼつりとこぼした。
「……最近、ものすごい警戒するようになってさ。かわいいものとか、甘いものとか、そういう一見きれいなものに」
もう騙されないぞ、と。後先考えずに口に入れていた今までのそれを、猜疑の眼差しで見るようになった。
これ、本当に食べても自分を見失わないもの? と。
お菓子ばかり食べて甘い夢に浸っていたこの間までの自分を、拒絶したいのかもしれない。それこそ子どもじみた理屈なのだが、実際に食べたくなくなっていることは事実だ。
なので鍵太郎はカラフルなマカロンを前にして、淀んだ目でそれを眺めているだけだった。
咲耶は「そっか」と言って、膝を抱えている鍵太郎の隣に座った。
「別にいいんじゃないかな、それで。無理して食べることはないし、食べたくなったら食べればいいよ」
「……うん」
そんな日は本当に来るのだろうか。そう思いつつも、鍵太郎はうなずいた。
そしてふと、咲耶が髪になにかつけていることに気づく。
「宝木さん、それ……」
それは花を模した、大きめのサイズのヘアピンだ。薄いピンクのガラス玉が、光を浴びてきらきらと光っている。
咲耶は今までそういうものをつけていなかったので、少々意外だった。お寺生まれということもあって、彼女は装飾品を嫌っているのではないかというイメージすらあったのだ。
鍵太郎の様子に気づいたらしく、咲耶は「あ、これね」とヘアピンを押さえる。
「高久先輩に言われたんだ。咲ちゃんはもっとかわいくしなきゃだめだよーって」
「あのオヤジ女子高生め……」
なに余計なことを後輩に教えているのか。
「だめだよ宝木さん、あんなエロオヤジみたいになっちゃ」
「うーん、さすがにあそこまではっちゃけようとは思わないけど……」
でもまあ確かに、それもそうかな、って思ったんだ。と咲耶は言った。
「舞台に上がる人は、きれいにしてなくちゃダメなのかなって。演奏をして、楽しいな、きれいだな、って思ってもらうには、やっぱり自分もきれいじゃないといけないのかな、って」
「――」
「あれ?」
ポカンと口を開けた鍵太郎を、咲耶は驚いて見返した。な、なにか変なこと言った? と慌てる彼女に、鍵太郎は首を振る。
「いや、違う違う。そっか、そうかもしれないな、って思っただけ」
う、うわあ、さすが木管女子、言うことが違うわあ、と嫌味でなく本当に鍵太郎はそう思った。
吹奏楽部の大きなくくりとして、クラリネットなどの木管楽器、トランペットなどの金管楽器、小太鼓などの打楽器があるのだが――そのうち金管楽器は特に、ガサツな感じが強い。
それを証明するように、目の前の金管女子二人はひたすらマカロンを食らっている。鍵太郎も金管楽器担当なので、普段はこちらのほうを目にすることが多かった。
なので、咲耶のこの考え方は目からうろこが落ちるようなものだったのだ。あいつらにこの姿勢を見習ってもらいたい。もうちょっとおしとやかになれないのだろうか。
「なに見てんのよ」
「いや別に」
光莉にギヌロっと睨まれた。そうそれ。それ、違うと思うんだ光莉さん。もうちょっとこのマカロンみたいに丸くなれない? そんなに食べてるんだから。
まあそんなこと、口が裂けても言えないけれども。そう思いつつ鍵太郎は咲耶との会話を再開した。
「人にきれいだなって思ってもらうには、自分もそうしなきゃダメってことか」
「ダメってわけでもないと思うけどさ。でも、そうだね。きれいなものとかかわいいものに触ると、やっぱりちょっと心が弾むんだ。演奏を聴く人もきっと、そういうのを求めてるんだろうなって」
「た、確かに……」
「で、これつけてみたの。そしたら楽しくって、ああ、私もやっぱり女の子だったんだなーって思ったんだ。お寺の子なのにそういうことするのは、ちょっと不謹慎かもしれないけどね」
やはり、生まれのせいで引っかかっていた部分があったらしい。そんな咲耶に、鍵太郎は言う。
「いやでも、宝木さんかわいいから、どんどんそうやったほうがいいと思う」
ぶッ!?
いつも平常心の咲耶が、珍しくお茶を噴き出した。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫……」
顔を真っ赤にしてむせる咲耶は胸を叩いて、「うう、まさかの不意打ちが……」とつぶやいた。
「ま、まあ、よく考えてみれば、お寺を継ぐのはお兄ちゃんだから、私は別にそんなこと気にせずに、おしゃれしてもいいんだなとは思ったよ」
「そうだよ。もったいない」
「ううう。なんだかこの天然っぷり、春日先輩を連想させるなあ……」
楽器と一緒に変なとこも継承したの? と咲耶はいつものようによくわからないことを言った。そんなことはない。自分はまだ、あの人には遠く及ばないのだ。
「けどまあ……そうか。心が弾む、か」
うまいものをうまい顔して食べてなにが悪い、と自分自身が言ったのは、いつだったか。
食べたいと思えば素直に手を出していい。おしゃれをしたいと思えば素直にしてもいい。
それは別に我慢するべきものじゃなくて、自然な気持ちだ。警戒して手を出すのをためらっても、最終的にはそこにたどりつく。
むしろ思い切って手を出さねば、なにも変わらない。
心が欲するものを否定したままでは、きっと、楽しいものはできないのだろう。だったらまあ否定しないで……一個くらいは食べてみようか。
そう思って、鍵太郎は今まで見ているだけだったマカロンに手を伸ばした。二人がだいぶ食べてしまったので、あと少ししか残っていないけれど――
「あ! 湊あたしそれ食べたい!」
「こっちは私の!」
「おまえら食いすぎだろ!? ちょっとは残しといてくれないの!?」
食べようと思った横から、涼子と光莉が手を伸ばして全部かっさらっていってしまった。「あー……」と空になった菓子盆を、鍵太郎は悲しい目で見つめた。
「食べたかったのに……食べたかったのにいぃぃぃ」
「早い者勝ちよ」
「珍しく全然食べようとしないから、いらないのかと思った」
「ちくしょう! おまえらもうちょっと、木管女子を見習えよ!? あまえら金管女子はガサツなんだよ!?」
「はぁ!? 食べようとしないやつが悪いんでしょ!?」
「あたしの口の中にあるやつ食べる?」
「いらねえよ馬鹿!?」
「ていうか、ガサツってなによ!? あんたも金管奏者でしょ!?」
「俺はおまえらよりはだいぶ繊細なつもりだよおぉぉっ!?」
うわあああんと泣く鍵太郎と、ぎゃあぎゃあと騒ぐ金管女子二人。それ横目に、咲耶はヘアピンをそっと押さえた。
「うん、まあ……気づいてくれるくらいは、繊細だよね」
まさか気づいてもらえるとは思っていなかった。心の中に弾む気持ちが湧き上がる。
そして咲耶は、先ほどの彼のセリフを思い出した。えーと、あれだ――「かわいいから、どんどんやったほうがいいと思う」っていう――
「えへへ」
思わず、笑みがこぼれた。気持ちが加速していく。
「なんで二人で全部平らげるわけ!? 残しておくとか、そういう優しさないの!?」
「マカロンごときで泣くんじゃないわよ」
「ごくん。ああ、おいしかった」
「ばかー!? おまえらなんてもう嫌いだー!?」
「あ、マカロンまだあるから。持ってくるね」
菓子盆を取り、追加のお菓子を取りに行く。その足取りは、気持ちと同じで弾んでいた。
思い切ってやってみてよかった。こんな気持ちになれるなら、おしゃれをするのも悪くない。
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