第86話 真剣な遊び心

「せんせー。あたし『恋するフォーチュンクッキー』やりたーい」


 吹奏楽部の顧問の本町瑞枝ほんまちみずえに、トロンボーンの一年生、浅沼涼子がそう言った。

 吹奏楽部は今度のクリスマスイブに学外コンサートを行う。まだ全部の曲が決まったわけではないので、「やりたい曲あったらアタシに言え」と本町は部員たちに言っていたのだ。

 涼子はうろ覚えのダンスを踊りながら、先生に希望を述べる。


「演奏して前で踊るとか、超楽しそうー。お客さんもみんな、喜んでくれると思うんだよねー」

「おまえは踊りながらどうやって楽器を吹く気だ」


 湊鍵太郎みなとけんたろうはそう言って、両腕をわきわきさせる涼子に突っ込んだ。トロンボーンは腕で音程を操作する楽器なのだ。踊っていたら吹けないのである。

 そうすると、楽器を吹かずに踊るということになる。それに気づいているのかいないのか、涼子はふしぎなおどりを踊りつつ鍵太郎に言う。


「湊も踊ろうよー」

「ねえ聞いてた? 俺の話聞いてた?」

「最近の湊はすごい暗いから、踊ればきっと楽しくなるよ」

「誤解があるかもしれないから言っておくが、俺は元から暗い性格なんだ」

「胸を張って言うことじゃねえだろ、それは」


 だんだんどうしようもない方向に行きつつある生徒二人を、顧問の先生は引き戻した。

 涼子の提案に、本町は腕を組んでうなずく。


「そうだな、定番のクリスマスソングだけじゃどうかなと思ってたとこだったから、流行りの曲を一曲入れるのもいいな」

「やったー!」

「でもすまん、踊るのは今回はムリ」


 ありゃ、と涼子がダンスをやめた。「いい提案なんだが、さすがに人数がなあ……」と先生は言う。

 三年生が引退してすぐ。部員数が三分の二となった今の吹奏楽部は、演奏だけで手一杯なのだ。

 正直その演奏人数も足りないくらいであり、楽器を吹かずに踊る人間がいるとなると、演奏が完全に歯抜けの状態になるのである。


「来年になって新一年生がたくさん入ってくれれば、そういうパフォーマンスもできるんだけどな。もし部員が増えたら、そういうのもやってみようとは思ってる」


 だから今回はちょっと我慢してくれと言われ、涼子は「そっかー」と肩を落とした。


「湊と一緒に踊りたかったんだけどなあ」

「おまえそれ、どんな嫌がらせだよ……」


 自分が涼子と並んで踊っているのをうっかり想像してしまって、鍵太郎は顔を引きつらせた。市役所のおじさんやタクシーのおっちゃんとかが画面の向こうで踊っている分にはいいが、さすがに自分が踊るとなると抵抗があるのである。

 人前で踊るのと楽器を吹くのは違うのだ。同じように注目を浴びるとはいっても、鍵太郎は縁の下の力持ちである低音楽器チューバ担当だ。目立つのは好きではない。

 そういう派手なパフォーマンスは、トランペットとかサックスとか花形楽器のみなさんに任せておけばいいのである。自分は地味にベースを刻んでいればいい。そう思っていると、本町が言ってくる。


「でも、あれだぞ湊。目立つ楽器じゃなくても、遊び心っていうのは重要だぞ」

「遊び心?」

「さっき『そりすべり』やったとき感じなかったか? おもしろい曲だろ、あれ」


 『そりすべり』――クリスマスのシーズンになると、必ずどこかで聞く曲のひとつだ。

 トナカイの鈴の音がずっと流れていたり、いななく声をトランペットで出したりと、先ほどの合奏でも様々な表現が使われていた。

 鍵太郎の担当である低音楽器も、単なる四分音符の羅列とは思えないほどの多彩な色に溢れていた。曲全体にちりばめられた遊び心。それを確かに、演奏中に鍵太郎も感じ取っていた。


「楽しい曲でした。リア充爆発しろって思いを一時忘れられました」

「うん。確かにおまえ最近ちょっとひねくれたな」

「つらいことがあったんです」


 好きな人に告白しても、それが告白だと気づいてもらえなかったんです。

 さすがに正直にそう言いはしなかったが、先生は「そうかぁ、つらいことかぁ」と鍵太郎の肩を叩いてくれた。


「つらいことがあると音に深みが増すぞー。傷つけ青少年。それがおまえらの糧になるんだ」

「うう。慰めてくれるのかと思ったら、そうでもないという」


 ひどい先生だった。えぐえぐと鍵太郎が泣いていると、本町はもう一度肩を叩いてくる。


「まああれだ。そういうのは楽器吹いて発散するのが一番だ。実際、さっき吹いてたときは楽しかったんだろ?」

「ああ、はい」


 シンプルだと思いきや、奥行きがどこまであるのかわからない譜面でもあった。でもなんとなくしっくりきて、曲に入り込むことができる。

 ザ・低音楽器の譜面と言ってもいい気がするのはなぜだろう。鍵太郎が首をかしげると、本町はその答えを言ってくる。


「そりゃそうだ。だって『そりすべり』の作曲者は、低音楽器出身の人間なんだからな」



###



「……なにをあんた、血迷ったの」


 鍵太郎が担当のチューバでない楽器を出すのを見て、千渡光莉せんどひかりは呆れと驚きの混じった表情でそう言った。

 鍵太郎が楽器庫の奥から出してきたのは、コントラバスだ。

 ダブルベース、弦バス、ストリングベース――様々な呼び方をされている、低音属の弦楽器である。

 ニメートル近い大きなその楽器を、鍵太郎は苦労して引っ張り出した。今の川連第二高校に、これを弾ける部員はいない。だから忘れ去られたように楽器庫の片隅にしまってあったのだ。

 布製のケースを叩いてホコリを落としながら、鍵太郎は答える。


「遊んでみたくなったんだ」

「ふざけてないで真面目にやりなさいよ」

「俺はいたって真面目だ」


 真面目に遊ぶ気になったんだ。その物言いに、光莉は困惑したようだった。


「本町先生の許可は取ってある。弦バス弾いてみたくなったんだ。『そりすべり』を作曲した人が、弦バスをやってた人だっていうから」


 リロイ・アンダーソン。

 アメリカの作曲家である。他にも運動会などでよく使われる『トランペット吹きの休日』を作曲した人でもある。

 本町からそれを聞いて、鍵太郎はこの部にもコントラバスがあることを思い出した。そして許可を取り、こうして持ち出したのだ。


「そりゃ楽しい低音になるよな。リズムで遊んでるのもそうだし、コードの移り変わりが自然でやりやすいのもうなずける」

「……なんかあんた、本格的に低音楽器の人間になってきたわね」

「なんだよ。おまえもその方がいいだろ」

「まあ、そうだけど」


 春日美里かすがみさとが引退して一人になった今、早急に一人前としてレベルを上げなければいけない。それは、光莉も望むところのはずだ。

 それに、と先輩の言っていたことを思い出す。


「前、春日先輩が言ってたからさ。これを遊びでやるのもいい勉強になる、って」

「……ふーん」


 信用していないのかなんなのか、光莉はうろんげな眼差しを向けてきた。いつもこんな感じではあるので、特に気にせず鍵太郎はコントラバスを出す。

 超巨大なバイオリン、というところだろうか。音楽準備室にあった教則本で構え方と弾き方を確認しつつ、弓を持って弦にこすり付ける。

 ギイイイイイ、というかすれた音がした。


「い、意外と力がいるなこれ」


 もう少しちゃんと持って、強めに弦に押し付ける。今度は弦を押さえている左手がつらくなってきた。握力が鍛えられそうだ。

 吹奏楽における数少ない弦楽器。チューバの隣で、次元の違う響きを出す心強い友人。

 確か先輩はそんなことを言っていた。息継ぎの必要がない分、管楽器のチューバより音は長く保っていられる。これが隣にいたら確かに、だいぶ助かるだろう。

 教則本はあるにしても、ちゃんと弾ける人間がいないので、どうやっていいか細かくはわからない。とりあえず弓の根本で弦をこすったほうが、手が近いからやりやすくはあるのだということは気づいた。

 ギイギイといっていた弦が、段々まともな音になってきた気がする。こするたびに弦がゴオオと震えて、管楽器とは違う柔らかくてふくよかな響きが生まれる。

 これに似た音を、自分の楽器で出せと言われることがあるらしい。そんなの本当にできるのだろうか。

 手が疲れてきたので弓で弾くのをいったん止め、今度は指で弾いてみる。教則本とにらめっこしながらいろいろ試すうちに、一回だけぽん、と小気味いい音がした。


「……なるほど。こりゃ確かにやったほうが勉強になるわ」


 再び弓を持って往復を繰り返す。この話をしたとき、行列の隣で先輩は微笑んでいた。あのときは彼女が教えてくれると言っていたのに、結局教わらないまま先輩は引退してしまった。

 思い返せば、そんなことばかりだったような気がする。

 もっといろんなことを訊いておけばよかった。もっと教わっておけばよかったのに。

 隣で甘えてるだけじゃなくて、言わなきゃいけないことは、もっとたくさんあったはずなのに。

 自分より圧倒的に温かい響きが、どうしてもあの人を連想させた。先輩は今、どうしてるんだろうと思う。

 受験勉強中だろうか。ドジっ娘だが成績は優秀だったようなので、推薦とかもあるかもしれない。

 その場合、面接ですっ転びやしないかが心配だ。面接官によってはそれで合格にする人もいるかもしれないけれど。

 大学に行っても楽器は続けるのだろうか。部活のみんなを家族と言ったあの人は、新しい場所で、新しい家族を得て、ずっと優しいままでいてくれるのだろうか。

 先輩は隣の席を、まだ空けておいてくれるだろうか。

 治りきっていない心の傷から、涙が出そうだった。つらいことがあって上手くなるのなら、このままどんどん弾き続ければいい。傷つけ。もっとだ。えぐるくらい深く――



「待ちなさいよ」



 震える弓を押さえたのは、光莉だった。


「なにしてんのよあんた。ちっとも遊びに見えないんだけど」

「……あ」


 かろうじて泣いてはいなかったことに感謝した。なにに、と訊かればそれはなにかよくわからなかったが。

 力を抜いて、弓を持った手をだらりとぶら下げる。自然と、光莉の手は離れた。


「……ごめん。もっと楽しそうにやらないとな」


 遊びなんだし。本来の目的からだいぶ離れたところに来てしまったことに気づいて、鍵太郎はひとつ深呼吸をした。軌道修正しないといけない。


「そうだよ。先輩にも言われたんだ。『もっと楽しそうにやったらいい』って――」

「春日先輩春日先輩うるさいのよあんたはぁぁぁぁ」


 光莉に肩を掴まれてがくがく揺さぶられた。楽器と弓で両手がふさがっているのでなにもできない。

 されるがままに揺さぶられながら、鍵太郎は光莉の言葉を聞いていた。


「もっと他のことにも目を向けなさいよぉぉ。他の人の意見も聞きなさいよぉぉぉ。ひとりで音出してるんじゃないわよむかつくのよぉぉぉぉっ!?」

「ひ、人のこと言えないくせに……」

「あんたに言われたくないのよこの朴念仁がああああっ!!」

「ぎゃああああっ!?」


 投げ飛ばされた。楽器だけは死守して、自分は床に叩きつけられる。

 巨大楽器に押しつぶされそうになりながら、やっとのことで起き上がる。見れば光莉は、いつものように顔を真っ赤にして自分を見下ろしていた。

「いいこと!?」と指を突きつけられる。


「あんたはもっと、他の人と交流しなさい! 春日先輩以外にも目を向けなさい!」

「む、向けてるだろ、だから」


 コントラバスをやったのだって、ようやく他のことに目が向けられるようになってきたからだ。

 それまでは楽器をやることすらできなかったのだから、これでも順調に回復してきてる方で――


「向いてないでしょーが!? 行動のほとんどすべてが春日先輩がらみでしょーが!? あんたそれで本当に楽しいの!? 楽器やってて楽しいの!?」

「く、苦し……」


 ギブギブギブ、と胸を締め上げる光莉の手を叩く。なんだか最近、光莉が前にも増して暴力的だ。こちらもこちらでなにかあったのだろうか。

 ようやく光莉が手を離してくれて、再び床に転がる。せき込んでいると再び光莉が文字通り、上からものを言ってくる。


「命令よ! 他の部員ともっと積極的に交流すること! いいわね!!」

「この暴力は、その積極的な交流なのか……」

「つべこべ言わすにハイかイエスかダーで答えなさいよ!?」

「選択肢があるようでないじゃねえかよ!?」


 反論すると、上から光莉の蹴りが降ってきた。

 その蹴りは鍵太郎が「わかった!? わかりましたから光莉さんもうやめて!?」と懇願するまで続いたという。

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