第84話 先輩(の楽器)

 放課後の音楽室。吹奏楽部の部員たちが練習している中で、湊鍵太郎みなとけんたろうはいつもと同じように楽器を吹いた。

 そして、顔をしかめた。


「……むぅ」


 うなり声が出る。三年生の先輩たちが引退して、自分の音が直に聞こえるようになった。今まで先輩たちの音に包まれて気づかなかった、自分の音。改めて耳にすると、それはお世辞にもきれいなものとは言えなかった。

 こんなんでこれからチューバひとりでやっていけるのだろうか。いや、あの人に誓ったから、やり続けるしかないのだけれど。

 不安だ。そう思ってため息をつくと、ひとつ上の先輩が話しかけてくる。

 バスクラリネットの二年生、高久広美だ。


「ん? ああ、湊っち、その楽器じゃなくていいんだよ、もう」

「え?」


 鍵太郎は首をかしげた。今吹いている楽器は、入部当初から使っている学校の備品だ。

 いつからあるのかわからないが、数年ではつかないであろう傷や錆があちこちについている。

 そんな古いものではあるが、それでも初心者で入部した鍵太郎にとって、これはそれなりに愛着のあるものだった。なので特に意識することもなく、今日もいつものようにこの楽器を出したのだが。

 目をぱちくりさせていると、広美は苦笑してくる。


「いいんだよもう。先輩たちが使ってたきれいな楽器を使っても」

「……ああ、そっか」


 三年生たちは先日の学校祭で引退した。上下関係の厳しくない川連第二高校でも、なんとなく先輩たちは新しい楽器を使う、という暗黙のルールはある。

 その先輩たちがいなくなった以上、繰り上がりでみな新しい楽器を使い始めているのだろう。未だに古いものを使っているのは、ひょっとしたら自分だけかもしれない。


「……先輩の楽器か」


 先日引退した同じ楽器の先輩、春日美里かすがみさとの使っていた楽器。確かにあれは鍵太郎の今使っているものより、だいぶ新しくてきれいだった。今のよりも吹きやすいだろうか。

 そして彼にとって、美里の使っていた楽器を吹くというのはそれ以外の意味もある。それは――


「よかったねえ湊っち。ようやく好きな人と間接キスできるよ」

「その言い方やめてくれませんかねえ!?」


 シニカルに笑う広美に、鍵太郎は反論した。反論はしたが内容は否定しなかった。

 口をつけて音を出す吹奏楽器をやっていると、間接キスへの意識がどんどん薄らいでいく。

 しかしこれが、好きな人の楽器だとそうもいかない。

 このあいだまで美里が吹いていた楽器だ。引退してもなお、鍵太郎の中で彼女の存在は大きすぎる。意識するなという方が無理な話だった。

 広美にからかわれつつも、鍵太郎は楽器庫でもある音楽準備室に向かった。そして、美里の使っていた楽器を取り出す。


「やっぱ、きれいですね」


 ハードケースの蓋を開けて楽器を目にして、まず口から出たのはそんな感想だった。

 使い方がよかったのだろうか。目立つ傷はほとんどなく、管のへこみもない。

 ケースの中には美里が使っていただろうマウスピースも入っている。こちらもきれいなものだ。

 形は今まで鍵太郎が使っていたものとは、少しだけ違う。やはり楽器が違うと音も違うのだろうか。

 ちょっとだけためらった後、鍵太郎は美里の吹いていた楽器をケースから出した。もしこちらの方が吹きやすいのなら、今後こちらを使っていった方がいいだろう。

 いや、それだけではないのは、自分でもわかっているのだが。


「なんか湊っち、好きな子のリコーダーをこっそり舐めるみたいな感じになってるけど」

「だからその言い方やめてくれませんかほんとにもう!?」


 逆セクハラにもほどがある。いや確かに、そういった面もあるのは否定できないのだけれど、もうちょっと言い方があるだろう、言い方が。


「本人が引退してからこっそり興奮してるとか、ヤバいよねー。滝田先輩以上にキモいよねー」

「うわあ、そう言われるとホント俺気持ち悪い。自分で自分が気持ち悪い!」


 これではあの変態紳士以上と言われても仕方がない。気持ちが後ろ向きすぎる。引退してようやくとか、どれだけ未練がましいのだ。

 確かにまだ好きだけどさ! うわあ気持ち悪い俺!

 自覚があるのに止められてないあたりに、自分自身でもよりいっそうのヤバさを感じる。このドロっと濁った感情はどうすれば解消するのだろうかと考えて、やはり楽器にぶつけることにした。結局、どうあってもここに行きつくのだ。

 マウスピースをはめて、ためらうことなく口をつける。ここで迷っていると、広美からさらなる追い打ちをかけられることになる。自分の痛々しさは今日もう十分に見た。これ以上気持ち悪いのはもうたくさんだった。

 いつものように息を吸って、吹き込む。


「――!」


 一音吹いただけで、感覚がまるで違うのに驚いた。

 今までの楽器と比べて音の伸びがいい。息もすんなり入って楽に吹ける。新しいからというか、こちらの方が純粋にいい楽器なのかもしれない。

 ならば、といろんな音を試してみた。どれも今までより素直に出てやわらかい響きがした。高い音も低い音も息を入れれば入れるだけ鳴ってくれる。許容量の桁が違う。

 今までより力を抜いて吹ける。そうするとまた響きが変わる。できることの幅が、ぐんと広げられそうな気がしてきた。

 空気を震わす振動が余韻を残してすっと消える。最後までそれを聞いてから、鍵太郎は口を開いた。


「うん。今日からこっち吹きます」

「先輩の使ってた楽器だから……ってわけじゃ、なさそうだね」

「ですね。こっちのが、なんていうかその――いい感じです」


 うまく言えなかったが、鍵太郎の目の輝きを見た広美はそれで納得したようだ。彼女は後輩の様子に微笑んで、「湊っちはさあ」と言う。


「春日先輩も好きだったんだろうよ。けど、楽器を吹くことも好きになってくれてたんだね」

「その辺はなんていうか、ごちゃ混ぜになってて俺自身にもよくわかりません」


 きっと両方なのだろう。それは切り離せないほど密接に絡みついてしまっていて、もう解ける気はしない。

 それに、解く気もなかった。それでいいのだろうし、そうするより他に方法も見つからなかった。

 この先どうなるかわからないけど、少なくともこの楽器があれば今までより多少はマシなはずだ。鍵太郎のその言葉を聞いて、広美はうなずく。


「うん。今はそれでいいんじゃない。せいぜい春日先輩(の楽器)と愛し合って、いい声鳴らしてよ」

「言い方がいちいちいやらしいんだよな、この人……」

「あたしはオヤジだからねー」


 セクハラは挨拶みたいなもんなのだー、と言って、先輩はニヤニヤ笑った。


「これからしばらく、低音楽器はあたしと湊っちの二人だけになるからね。面倒みてあげるよ」


 池に突き落として自力でルーラ覚えさせるくらいまでは、やってあげるからさ。先輩はそんな、軽く生死に関わりそうなことをさらりと言ってきた。

 美里と同じく、広美も意外とスパルタな先輩らしい。

 今まではそれに引いていたが、これからはそうではない。鍵太郎は苦笑して「お願いします」と頭を下げた。


「ん? 嫌がるかと思ってたんだけど」


 意外そうに目を開く広美に、鍵太郎は学校祭で三年生の先輩に言われたことを口にする。


「俺、いじめられて伸びるタイプなんです。美原先輩に言われました」


 これからは、誰も守ってくれる人はいない。自分で自分を育てないといけない。

 失敗から学ぶタイプ。現状に不満があるとがんばるタイプ。

 だというなら――無理やりにでも自分を追い込んで、ひたすらに上達していくしかない。

 そうしないとこの楽器に、そして春日美里に申し訳が立たない。

 そう思って言ったセリフに、広美は眉をひそめた。


「……それはさ、自罰意識も入ってる?」

「かも、しれません」

「あんまり好きじゃないなあ、そういうの」


 じゃあ、師匠としてまず、言っておこうか、と先輩は言った。


「周りのみんなはさあ、きみのことを春日先輩の後継者だのなんだの言ってるけど――そんなもんいつでも投げ出していいと、あたしは思ってる」

「……」

「届かない影をいつまでも追う必要はない。きみはきみの音を出せばいい。何時間か前も言ったけど、そんな無理やり出したクソつまんねー音、あたしの後ろで出してほしくない」

「……それでも」


 どこかに向かわないとそのまま倒れそうだった。

 追いかけてはいけないのかもしれないけど、少なくとも目標は必要で――それは今、あの人以外にありえなかった。

 その何時間か前に広美も見ていたはずだ。どん詰まりのくせに空だけはやたら高いあの屋上で、自分がそう決めてしまったことを。

 立ち直っているようで、まだ完全には立ち直っていないことを。

 しばらく黙っていると、根負けしたのか広美はため息をついた。


「……うん、わかった。さっきも言ったね。今はいいよ、それで」

「ありがとうございます」

「でも、つらかったら追いかけるのやめていいからね。そのための布石は打ってあるから」

「……?」


 意味がわからなかった。自分が立ち止まることが想像できなかったし、そこで助けてくれる人がいるとも思えない。

 首をかしげていると、広美は「まあ、いいさ」と言って、いつものシニカルな笑みを浮かべる。


「しっかしねえ。いじめてくださいときたか。湊っち、きみはほんと滝田先輩以上の逸材かもしれないよ」

「あー。なんかもう、否定できない自分が嫌ですねえ……」


 ほんと気持ち悪い。なにやってるんだろう俺。思考が間違っているのはわかっているのだけど。

 でも、進む方向はこれで間違ってないはずだ。

 かすかな声に導かれるまま、一歩を踏み出した。その先になにがあるのか、まだ自分自身にもわかっていない。


第6幕 祭りの果てに〜了

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