第83話 君の知らない物語

 湊鍵太郎みなとけんたろうが教室に戻ってきたのを見て、千渡光莉せんどひかりは小さく息をついた。

 先輩が大丈夫と言うので先に教室に戻ってきたものの、彼がひょっとしたらあのまま屋上から飛び降りでもしてるんじゃないかというけったいな妄想は、頭から離れなかったからだ。

 別に心配していたわけではない。しかしそんなことを想像させるくらい、さきほどの鍵太郎の顔は暗かったのだ。

 しかし戻ってきた彼の顔は、先ほどとはだいぶ違っている。歩き方もしっかりしているし、目もさっきみたいに死んでない。

 むしろ逆に、前より鋭さを増した印象すらある。

 これなら心配ないだろう。

 そう思って、光莉はもう一度小さく息をついた。いや別に、心配していたわけではないけれど。

 先輩に告白して振られたんだか相手にもされなかったんだか知らないが、それしきで楽器を吹くのをやめるなんて、許さないのだ。

 だってそれじゃ、あいつはあの先輩のために楽器を吹いてたってことじゃないか。

 他の誰のためでもなくて、あの人のためだけに行動してたってことじゃないか。

 そんなの、駄目だ。音楽への愛が足りない。

 そう、そういうこと。同い年の部員だから。辞められたら困るのだ。辞めたらチューバいなくなるし。それは部活として大いに困る。

 うん。そう。それだ。

 なにがそれだなのか自分でも説明できないまま、光莉が頬杖をつきながら彼を眺めていると、同じく彼を見ていたらしい黒羽祐太くろばねゆうたが話しかけてくる。


「なんかあいつ、復活したみたいだな」

「……そうね」


 復活した――と言っていいものかは少し疑問だったが、少なくともさっきまでの女々しく落ち込んだ様子よりはだいぶいい。

 彼の小さなころからの友人である祐太は、「昔から、あいつさ」とつぶやいた。


「ひとつのことに集中するとすごいんだけど、それがダメになると一気におかしくなっちまうときがあって――野球辞めたときもそうだったんだけど」

「……多少、聞いてはいるわ」


 足を折って心も折った、そんな話を彼自身から聞いている。

 先ほどの状態は、きっとそのときに近かったのだろう。

 彼の言っていた、やる意味を見失った、という言葉を思い出す。

 やる意味。

 戦う意味。

 楽器を吹く意味があるとするなら、その中に――あの人以外の意味があるのだと、あいつは気づいてくれたのだろうか。

 そう、例えば。

 ここにもいるよ、って。


「……違う違う。そこは純粋に音楽への愛よ。さっき言ったじゃない私」

「なにしてんの千渡さん?」


 唐突に首を振って独り言をつぶやいた光莉を見て、祐太が首をかしげた。

 なんでもいいではないか。そう言うと、祐太は苦笑した。こいつもこいつで、彼とは別の意味でムカつくときがある。なんでもかんでも見透かしたような態度を取るんじゃない。


「いや、千渡さんがわかりやすすぎるだけで……」

「それ以上言ったら耳元でラッパ吹くわよ」

「やめて」


 降参、と手をあげる祐太。野球応援でトランペットの威力は思い知っているだろう。吹奏楽部の本気を耳に刻まれたくなかったら、野球部はおとなしくグラウンドを走り回っていればいいのだ。

 ふん、とふんぞり返る光莉に、まあとにかく、と祐太が仕切り直す。


「今回は立ち直りがだいぶ早くてよかったよ。楽器のおかげなのかな。それとも、誰かのおかげなのかな。どっちでもいいけど、おれの知らないなにかが、あいつの支えになってくれたのかな」

「……さあね」


 支え、という単語に反応する。それは彼との約束。自分が楽器を吹く意味のひとつ。

 楽器のおかげもあるだろう。誰かのおかげでもあるだろう。

 自分がそうだったから、わかるのだ。

 悔しいけれど、あいつのおかげで自分はもう一度楽器を吹くことができているというのはある。そしてその点に関しては、感謝していると言ってもいい。

 だから、その――まあ、落ち込んでたら慰める程度のことは、してやってもいい。

 いや、だって辞められたら困るし。ねえ?

 そう思っていると、彼の友人は言ってきた。


「千渡さん。これからあいつのこと、よろしく頼む」

「え?」


 それこそ唐突な言葉に、今度は光莉が首をかしげた。なんだ、こいつはなんでいきなりこんなことを言いだした?


「あ、えーっと、い、いいけど、なんで?」

「あいつまたどっかで、同じようなことになるから。そんときはそんときで、あいつのことを支えてやってほしいんだ」

「……なんで私に?」


 他にもっと、適切な人材がいそうな気はするのに。なぜ、自分なのか。そう訊くと、祐太は光莉の予想外のことを言ってくる。


「吹奏楽部に入る前の千渡さんが、さっきの湊と同じ顔をしてたから」

「……なに、私、あんなしみったれた顔してたの?」

「してたしてた」

「えー……」


 ショックだわー、と思う。いくらなんでもあそこまで暗くはなかったと思うのだが、他人から見れば大した差ではなかったのだろうか。

 しかしこれがよかったらしい。祐太は「だから、あいつの気持ちわかってくれるかなと思って」と言う。


「おれはもう、観客としてしかあいつを知らない。だから千渡さんに頼みたい。同じ側からあいつのことを見ててやってくれないかなって」


 祐太は学校祭のときも、吹奏楽部のコンサートを聞きに来てくれていた。すげーなーとしか言っていなかったはずだったが、それ以外のなにかを感じていたのだろうか。

 やっぱり、こいつもこいつでなかなかクセ者だ。そう思って警戒しながらも、光莉はうなずく。


「べ、別に。いいわよ」

「うん。ありがとう」

「どういたしましてっ」


 視線をそらすと、祐太は「じゃあお礼に、いいこと教えちゃおうかなー」などと言い始めた。

 なんだそれは。ちらりと祐太の方を見ると、彼は学校祭のときと同じように、ニヤニヤ笑っている。


「千渡さんの知らないあいつの小さいころの話とか、教えてあげようかなー」

「ぬ……っ!?」


 魅惑のささやきにぐらりと心が傾く。自分が知っているのは、吹奏楽部で楽器を始めたばかりの初心者の彼だ。

 その前、野球部にいたころの彼、そしてもっと前の彼は、いったいどんなやつだったのか。

 それは、吹奏楽部の誰も知らない。春日美里も知らない。

 自分だけが知っている、彼の物語――

 しばらく固まった末に首をギギギと動かして、光莉は祐太を見る。


「は、は……話したいなら、き、聞いてあげても……いいわよ?」

「素直じゃないなあ。だからこそ応援したくなるんだけどさ」


 でも、こないだも言ったけどさー、と言って、祐太は繰り返した。先日の学校祭で言ったのと、同じセリフを。


「そんな風にあんまりツンツンしてるとさ、そのうちあいつ、誰かに取られちゃうよ?」



###



 別に、誰に取られるとか、そういうのどうでもいいし。

 そう言ってしまったことを少しだけ後悔しながら、光莉は放課後の音楽室に向かっていた。

「いつでも話してあげるから、気が向いたら言ってね」とニヤニヤ笑いながら言っていた黒羽祐太の声が、耳から離れない。

 なんなんだあいつは。他人事だと思って。

 別に、誰かに取られるとか、そういうのどうでもいいし。

 この悔やむ気持ちは、あれだ。あいつの昔の恥ずかしい話を聞いて、あいつをからかえないことからきているのだ。

 断じて、あいつのことをもっと知りたいからとか、そういうことではない。

 過去はそれほど重要ではない。大事なのは、これからどうするかだ。それを教えてくれたのはあいつでもあるのに。

 まったく、もう、あいつときたら。


「……って、なによ私。あいつあいつって」


 気がついたら湊鍵太郎のことしか考えてないではないか。そんな自分にちょっとイライラしながら音楽室に入ると、ひとつ上の先輩に手招きされた。


「千ちゃーん。ちょっとちょっと」


 音楽準備室から光莉を呼んでいるのは、バスクラリネットの二年生、高久広美だ。なにを考えているのかよくわからない先輩で、光莉としてはちょっと苦手意識がある。

 しかし、先輩は先輩だ。光莉は呼ばれるがまま、広美のもとへ向かった。吹奏楽部は上下関係に厳しいのが一般的だ。この部活はあまりそういうことには頓着しないらしいが、中学時代の癖でどうしてもそう考えてしまう。

 音楽準備室には先客がいた。同じく一年生のクラリネット、宝木咲耶たからぎさくやと、トロンボーンの浅沼涼子だ。

 これは今日、屋上にいた鍵太郎を揃って見ていた面子ではないか。それにしてはあの双子の姿が見当たらないが、それについて広美は「優の監視の目が厳しくて、あの二人だけは別に話すことにした」と説明してきた。

 新部長の貝島優かいじまゆうは厳しい人だ。このぬるま湯の川連二高も、ついにちゃんとした吹奏楽部になるだろう。

 そうだ。だから、こんなところでおしゃべりしている場合ではない。早く練習を始めたい。話を促すため、「なんですか?」と訊いてみる。なんだか嫌な予感がするのだが、これは――。

 先輩は大仰にうなずいて、話し始める。


「三人に集まってもらったのは他でもない。うちの低音パートの彼、湊鍵太郎のことで話があるのさ」

「うわあ」


 思わず口に出してしまって、広美から「どうしたん?」と訊かれる。なんでもありませんと首を振ったものの、頭の中は疑問でいっぱいだ。

 なんでみんな、私にあいつのことを話したがるのだ。

 そんなに私があいつを気にしてるように見えるのだろうか。

 だったらこれからはあいつへの接し方を、ちょっと考えないといけないなと思う。最近あいつも色々悩んでいるようだったから優しめに接していたけれど、これからはもっと、厳しくしないといけない。

 新部長のこともあるし、チューバはあいつひとりになったのだから、これを機にバシバシ、金管楽器の奏法を教えてあげないと――。

 そんな風に考えていると、広美が全員によくわからないことを訊いてくる。


「ぶっちゃけ彼、どうよ?」

「……どうよ、とは?」

「またまたー。女子が集まったら、話すことはひとつでしょー?」

「あの、先輩、なにを」



「みんな、彼のこと、好き?」



 ぶハッ。

 顔を真っ赤にして噴き出した光莉の隣で、涼子が元気よく手をあげた。



「あたし、湊のこと好きだよ!」



「うええぇぇぇぇえぇぇっ!?」


 衝撃の告白に、光莉は思わず叫んだ。好きというかあの、このアホの子意味わかって言ってます!?


「LoveというよりLikeに近い、って感じなのかな?」


 逆隣にいる咲耶がいつものように穏やかに訊いた。涼子は「よくわかんない!」と元気よく返して、続ける。


「でも好きだよ! 湊は一緒にいて楽しい!」

「あ、そ、そう……」


 やっとのことで、それだけ口に出す。なぜか、心に妙な焦りが湧き上がってきていた。

 涼子は確かにアホの子だが、それが故に天性の魅力があるのだ。

 彼とは中低音組として一緒に練習する機会も多く、意外と気が合っているところもある。学校祭では一緒に宣伝に行っていたくらいだし、仲がいいことは確かだ。

 い、いや、でもそんなの、私には関係ないし。誰があいつのことを好きになろうが、別に。

 そう思っているわりに、なぜか冷や汗が止まらない。なんなんだあいつ。殴っていいだろうか。密かに拳を握ると、広美が涼子に言う。


「うんうん。素直なのはいいことだよ。素直な子は楽器を吹くのも上手い」

「ひゃっほう! 褒められた!」

「いいことなんだろうけど、この反応を見てると完全に馬鹿にしか見えない!」


 光莉は握った拳で壁を叩いた。上手くなりたいけどこうはなりたくない。いや別に、素直になりたくないとかそういうことではなくて――って、なに言ってるんだ私。なにも焦ることなどないだろう!

 悶える光莉をよそに、広美と涼子のやり取りは続く。


「きみはそのストレートさを生かして、どんどんあの子にアタックするといいよ。きみのその突撃の前には防御など無駄だということを、あの子に思い知らせてあげればいい」

「なんだかよくわかんないけど、わかりました!」

「うむ、そのトンチンカンなところもあの子はほっとけないだろうから、きみはそのままでよし!」

「わーい!」

「ダメだわ! なんかもう、いろいろダメだわこのアホの子!」

「うん? そう言うきみはどうなのかな? 千ちゃん」

「う……!?」


 広美の目がこちらを向いた。眠そうなくせして鋭い、この人の目はよくわからなくて少し怖い。

「え、あの、私は……」とあたふたしながらそう言うと、広美は「ふむ」とうなずいて、矛先を変える。


「咲ちゃんは? あの子のこと好きかな?」

「えーと。ええ、はい。変な意味でなく」


 咲耶はいつもの柔和な笑みに、ちょっと困ったニュアンスを交えてそう答えた。そう。そうだ。別に、変な意味で好きだと言っているわけではない。これはそう、例えるなら絆というか仲間というか、そういう清く正しい感情で――



「煩悩は嫌いなので雑念はないです。ただ純粋に精神的に好きです」



「こっちのがもっとタチが悪かったよこんちくしょう!?」


 咲耶のさらなる衝撃発言に、光莉は力いっぱい叫んだ。清く正しすぎて仏様のようだった。こういうところはやはり咲耶だ、家が寺なのは伊達ではない。

 しかし広美としてはその答えは不十分だったらしい。「ううん、それじゃ足りないなあ」と人の悪い笑みを浮かべてくる。いや、これ以上彼女になにを要求しようというのか。


「咲ちゃんはせっかくかわいいんだから、もっと女の子っぽく迫ってもいいんだよ?」

「後輩になに指導してるのよこの先輩!?」


 もう、先輩後輩関係なかった。我慢しきれなくなって広美にも突っ込む。

 確かに、咲耶は実は結構かわいい。大きくてきれいな目に、整った容姿。生まれが生まれだけに本人は全く望んでいないだろうに、天は彼女に一物も二物も与えた。それを生かさずにいるのは、正直宝の持ち腐れだと言ってもいいくらいだ。

 性格もいい。穏やかで、光莉と彼の言い争いの仲裁に入ることも多い。たまにわけのわからない発言をして周りを混乱に陥れることはあるが、それ以外は自分と違って非常に女の子らしく、あの先輩に似て優しいところは、きっとあいつも好きだろうなと――

 ――って、おい。

 なんでこんなに焦ってるんだ。別にいいじゃないか。あいつと誰が付き合おうが、そんなものはあいつの勝手だ。自分には関係ない。自分には――


「咲ちゃんはもっとお色気攻撃を覚えた方がいいよ。お釈迦様が許さなくてもあたしが許す!」

「やめんかそこおぉぉぉっ!」


 即座に突っ込んだ。これはあれだ、目の前でそんなふしだらなことをされたらこっちが困るからで、あいつが咲耶に迫られてるのを見たくないからとか、そういうことでは決してない。ないったらない。

 光莉の心の内を察したわけではないだろうが、咲耶は眉をしかめて言う。


「煩悩はダメですよー」

「そう、そうよ、煩悩はダメ! おさわり禁止! ダメ、ゼッタイ!」

「わかってないなあ」


 理性なんて飾りです、仏様にはそれがわからんのですよ。どこかで聞いたような言い回しでもって、先輩は後輩に独自の理論を展開する。


「所詮人間なんて、幸せには抵抗できないもんなのよ。それは今回のあの子自身が証明してる。なにも苦しいことのない極楽浄土を望んで、結果的にそれは崩壊した。なんの抵抗力もなかったあの子は、そこで大いに傷ついた。そうよね?」

「はあ、まあ」

「だったら、艱難辛苦を乗り越えて天竺に行った三蔵法師みたいに、あの子には試練が必要なの。苦難や誘惑を乗り越えて強くなる、それはブッダも辿った悟りへの道でしょう。つまり真の悟りに至るためには、煩悩は必須。そしてそのそれを与えるその役目は咲ちゃん、あなたが負えばいいのよ。あなた自身が煩悩の化身となって、彼を強くしてあげればいいの!」

「パンチとロン毛もびっくりの詭弁だよ!? 解釈が斬新すぎてバチがあたりそうなんだけど!? ねえ、宝木さんもそう思うでしょ――」

「なるほど。確かにそれは一理ありますね」

「騙されてるよ宝木さぁぁぁんっ!?」


 あっさりとうなずいた咲耶の肩を、光莉はがくがく揺さぶった。なんだこれ。なんだこれ。この展開はまずいだろう。

 自分よりずっとかわいらしい咲耶までもが『そっち側』に回ってしまったら、自分はどうすればいいのだ。これじゃ、このままじゃ――



「さぁて、きみはどうするのかな? 千ちゃん」



 光莉の動揺に刃を差し込むように、広美はぐるりと顔を向けてきた。


「このまま黙ってやり過ごすのかなー? それとも、ちょっとだけ素直になってみるのかなー?」

「う、あ、う……」


 広美から感じる圧迫感に、うまく言葉を発することができない。

 いや、違う。

 自分の中にあるなにかの感情と、それを押さえつけようとするなにかが、二つ同時にせめぎ合っているのだ。

 今までにないほどそれは膨れ上がっていて、目がぐるぐる回るくらい混乱している。

 アホすぎて真っ直ぐで、だからこそ予想外に一番彼に近いかもしれない、浅沼涼子。

 自分より外見も心もずっときれいで女の子らしい、宝木咲耶。

 彼女たちは同性の自分から見ても魅力的で、彼にとってもきっとそうで――四人で一緒にいた記憶が、頭の中で渦を巻く。

 みんなと仲がよさそうだった。吹奏楽部の男子部員はそうじゃないと生き残れなくて、みんなにいい顔をしなければならないのはこっちだって知ってる。

 けれどそれがどうしても嫌で、イライラして八つ当たりして、でも振り向いてくれなかった。それはそうだ。だってあいつ、他に好きな人いたんだもん。

 だから。

 これからもきっと。

 そう思ったとき、光莉の脳裏にクラスメイトのセリフがこだました。

 そんな風にあんまりツンツンしてるとさ。

 そのうちあいつ、誰かに取られちゃうよ……?

 それは。それは。それは。



「だ、だ、だ――だめえぇぇぇぇっ!?」



 顔を真っ赤にして叫んだ光莉を見て、高久広美は「あっはっはー」とよりいっそう笑いを深くした。


「いいねえいいねえ。やればできるじゃないか」

「あ、あう……」

「さあ、言ってみようか? いったい、なにが、ダメなんだい? おじさんに教えてくれないかなー」

「うあ、あ……」


 言葉にできずにうめいていると、広美の背後に違う先輩の姿が見えた。

 その先輩は光莉と同じ楽器の先輩で、図書委員のように地味な――


「うちのパートの子をいじめるな」


 ごッス。と音を立てて、広美の頭に音楽用語辞典の角が炸裂した。

 うずくまる広美の後ろにいたのは、トランペットの二年生、平ヶ崎弓枝ひらがさきゆみえだ。

 黒縁メガネに目立たない顔立ち。色白の顔に彼女はこれ以上ないくらい冷ややかな雰囲気をたたえて、同い年の仲間を見下ろしている。


「広美。悪趣味がすぎる。それ以上やるのはいくらわたしでも見過ごせない」

「……だ、だからって角で縦に思いっきり殴ることはないでしょうに」

「まだ言うか」


 これは、光莉ちゃんの分。これも、光莉ちゃんの分。そしてこれも、光莉ちゃんの分よ。

 淡々と振り下ろされる辞典に、「みぎゃーッ!?」という悲鳴が上がった。そして、やがてそれも静かになる。

 その光景に戦慄していると、弓枝は辞典を下ろしてふうと息をついた。


「まったく。低音楽器には変態しかいないのか」

「あ、あの、平ヶ崎先輩、ありがとうございます……」


 なんだか色々、危ないところだった。そう言うと、弓枝はじっと光莉を見る。


「な、なんですか?」

「……素直になったほうがいいのは、ほんと」

「う……」

「三年生がいなくなって、色々状況が動いてる。変わらなくちゃいけないのは、わたしたちの学年だって一緒」


 弓枝はそう言って棚に辞典を戻し、そして自分の楽器を取り出した。


「これから先は、彼から与えてもらったものだけじゃ越えられない。それ以外のものを見つけて、投げ返してあげないと――きっと、いい音楽にはならない」


 いつまでも、セカンド吹きではいられないもの。三年生が抜けてこれからトランペットの首席奏者になる先輩は、これから先を見通してそう言った。


「いい音楽を作るためだよ、光莉ちゃん。そう思えばちょっとだけ、積極的になれない?」

「え、ええと」


 弓枝は絶妙のアシストをしてくれた。さすが半年以上一緒に同じパートで吹いていた先輩だ。自分の言いたいことを、わかってくれている。

 そう、いい音楽を作るためなら――ちょっとだけ、積極的になってもいい。

 そう。ちょっとだけ。その先輩の言葉を胸に、光莉は口を開いた。



「そ、そうですよねー。いい音楽作るためには、部員同士の積極的な交流は、必要ですよねー。あははははは」



「……うん。まあ、今はそれでいいかな」

「ほんとに、ちょっとだけなんだねえ……」


 わざとらしい笑いを浮かべる光莉を見て、先輩二人は苦笑してうなずき合う。

 彼女たちの変化。それは、彼の知らない物語。

 ほんのちょっとの積極性を得て、これから物語は大きく変わっていく。

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