第82話 飲みニケーション
間違ったことがつらくても、消えたいぐらい恥ずかしくても、それでも世界は前に進んでいく。
それはこの世界があの人と同じように、残酷なまでに優しいから――
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一つ上の先輩に、学校の屋上に連れてこられた。
急に屋外に出たので、
天気が良かった。秋の空は高くて、空気が澄んでいた。
きのう部活をサボってしまったので、鍵太郎は先輩にここで怒られるのだろうと思っていた。しかし、バスクラリネットの二年生、高久広美にそんな素振りはない。
彼女は怒った様子など微塵もなく、適当な段差に腰を下ろす。
コーヒーが大好きな先輩は学校の自動販売機で買ったのだろう、缶コーヒーを二本持っていて、そのうち一本を自分に差し出してくる。
「あげる。飲みな」
「はあ……」
曖昧に返事して、受け取る。よりにもよってブラックコーヒーだった。甘いものが好きな自分は、ブラックは苦手だった。
先輩の手前断るわけにもいかず、一応もらっておく。広美はさっそく同じものを開けて飲んでいる。
この人はいつもそうだ。カップ酒を飲むみたいに、オヤジくさくコーヒーをあおる。
そんなこちらの考えを読んでいたかのように、広美は笑った。
「うんそう。あたしはオヤジだ。だからここはオヤジらしく、飲みニケーションをしようと思ってさ」
「なんですかそれ……」
そう言ったが、その単語は子どもである自分でも知っていた。上司と部下が酒を飲みながら、ああでもないこうでもないと話し合って結果的に仲良くなるという、よくわからない親睦の深め方だ。
広美が隣を指差す。そこに腰を下ろす。真正面に座れと言われなくてほっとした。目を見ながら話すなんて、そんなことのできる状態じゃなかったからだ。
先輩は屋上のどこかを眺めつつ、訊いてくる。
「で? なにがあったの?」
広美は、自分が同じ楽器の先輩の
だから大体の予想はついていて、この質問はそれの確認だったのだろう。
下手に隠すことはなかった。チューバの目の前の席であるバスクラリネットには、ほとんどの会話が筒抜けだ。今さら取り繕ったところで、もう意味はない。
もう、失うものもないと思った。
だから全部を話した。
先輩のことが好きだと思っていたくせに、結局は自分自身のことが一番好きだったのだと思い知ってしまったということ。
ずっと前からそれに気づくことはできたのに、気づかないふりをしたままでいたということ。
そんなだったから先輩からは最後まで子ども扱いで、告白しても気づいてすらもらえなかったということ。
その全部が受け入れられなくて、今ここにいるということ。
鍵太郎の語りを聞き終えて、広美はもう一口、コーヒーを飲んだ。
「……なるほどね。結局振られてすらいなくて、今の湊っちは中途半端な生殺し状態なわけだ」
「……生殺しっていうか、まあ、うん……のた打ち回ってるわけですね」
ショックが大きすぎて、自分がどんな状態なのかもよくわかっていない。
失恋すらしていない。結局ひとりで勘違いしていただけで、終わりのない自己嫌悪に苛まれるまま、ここにたどりついた。
三階の音楽室よりさらに辺境の、屋上へと。
「……きのうは楽器を吹く気になんて、なれませんでした」
広美に責める様子がなかったので、鍵太郎は先輩に正直なところを口にした。
気持ち悪かったのだ。先輩のいないあの音楽室も、自分の汚い音も、周りが見せてくる自分自身の姿も、なにもかも、全部。
だから、逃げた。
どうしたらいいかわからなくて、逃げるしかなかった。
三年生が引退して、音楽室は寒々しかった。あそこに居られなかった。
「……結局、俺はどうすればよかったんでしょう」
膝を抱えて、鍵太郎は言った。答えは特に期待していなくて、広美も答えてくれなかった。
しばらく黙っていると、先輩は独白するように口を開く。
「まあ、あれなのかな……さすがの湊っちでも、幸せには抵抗できなかったってことなのかな」
「幸せ……」
その単語だけをボソリと繰り返す。
あれは果たして、そんなきれいなものだったのだろうか。
虚ろな目をしているだろう自分に、先輩は続ける。
「誰だって、居心地のいい場所を手放したくはないよ。どんなに一時だってわかっててもさ――それ自体は別に悪いことじゃないと、あたしは思う」
「居心地、は」
それは、よかったかもしれない。
優しくて温かくて、隣にいるだけで癒された。
だからがんばってこられたというのは、あった。
それ自体は確かに悪いことではなくて、気を付けてさえいればこんなことにはならなかったのだろう。
誰が悪いわけでもない。全部自分が悪かった。
だからさっき、自分を心配して来てくれた人たちには申し訳ないことをしたと思っている。あれは、完全に八つ当たりだった。
彼女たちを救うことが、自分への救いになるなんて――そんな風にどこかで思っていた自分が、許せなかった。
彼女たちにかけてきた言葉のひとつひとつが、自分の未熟さの証明のような気がして。
だからもう、全部断ち切ろうとした。
ひどいことをしてしまった。
もう、合わせる顔もないのかもしれない。部活にも行きたくない。
引き留められるかと思ったら、先輩は「別にいいよ」と言ってきた。
「吹きたくなけりゃ吹かなければいい。やりたくなけりゃやらなくてもいい。無理やり出したクソつまんねー音なんて、あたしの後ろで出されたらたまったもんじゃない」
あの人の望んでいた音楽は、そういうんじゃなかったでしょ、と広美は言った。
全員の意思が出てきて、はじめて音楽が作られるんだって。
あの人はそう、言ってたでしょ?
「やめてください……」
そう言われた瞬間、そう言っていた美里の姿が強烈によみがえってきて、鍵太郎は耳を押さえて膝に顔を埋めた。
そうしたところでその姿が消えるわけではなかったけれど、そうせずにはいられなかった。
そんなきれいな笑顔を向けないでほしかった。あの人が好きなわけではなかったのに、またそれで勘違いしてしまいそうだった。
そんな自分を見て、先輩は言う。
「……きみがそんなに傷ついてること自体が、きみがあの人を本当に好きだった、なによりの証拠だと思うんだけどねえ」
「違います……」
『好き』なんてきれいなものじゃなかった。
自分を受け入れてくれるんじゃないかって、そんな身勝手な思いがつのっていっただけで。
思い返せば、それは周りの『鏡』に映っていた。
一見きれいな楽器からは緑色のヘドロみたいなものが出てきて、私は私の愛を愛し、子どもみたいにふるまって好きな人の気を引こうとして、成長を拒んだ。
終わりが見えてもそれを拒絶しようとして、わざと間違えて同情を引こうとした。一緒にいられるのはこれで最後だと思ったコンクールの後だって、学校祭という先があって、だから学校祭で同じことをしたらまだ一緒にいられるんじゃないかって、馬鹿みたいな勘違いをして。
ああそうだ、コンクールのとき――。
『あの子の姿』が暗闇の中に浮かんだのが見えて、全身から力が抜けていくのがわかった。
こんなになってまで避けていた、触れてはいけない部分に、ついに触れてしまったのを感じた。
懸命に逃げようとしたけれど、逃げ場なんてとっくになくなっていて。
鍵太郎は力なく、その子を見るしかなかった。
その子は他校の女子生徒で、吹奏楽の強豪校で自分の先生の教えだけを信じて、自分の前に立ちふさがった誘導係の子だった。
自分の中にいる『神様』だけを信じて、知らないうちに世界を閉ざしてしまった、あの女の子。
ひとつの価値観だけを盲信して、結局うまくいかなかった彼女の姿。
ああ、と納得する。今ならわかる。
それは、春日美里が好きなんだと思い込んで、そして破滅した自分と一緒で――
あの子、俺だ。
唐突にはっきりと理解して、最後の防衛線にヒビが入ったのがわかった。
ぼんやりした頭が意思を離れて、勝手に思考が進んでいく。それ以上考えてはいけないのはわかっているのに、打ちのめされすぎて制御が利かない。
そう、あれはもう、最大級の警告と言ってもよかった。
あの子を見て、俺、なんて思ったっけ。
そうだ。
気持ち悪い、って、思ったんだ。
おかしな理屈をまるごと飲み込んで、正しいと信じきっているあの子が、気持ち悪かった。
行動を支配されていることに気づきもしない、その姿は春日美里の考えと真っ向から対立するものの象徴だ。
全員の意思が出てきて、はじめて音楽が作られるんだって。
最初の最初に、あの人にそう教えられたんだった。
ああ――と思う。最後まで小ずるくも無意識に守っていた部分が、音を立てて壊れていくのがわかる。
そうだ。あれが俺だとしたら。
先輩のことを本当に否定していたのは俺の方で。
先輩のことを本当にわかっていなかったのは俺の方で。
先輩のことを本当に見ていなかったのは俺の方で。
先輩のことを本当に好きじゃなかったのは、やっぱり俺の方だったんだ――。
これで、全部の否定が証明された。
完璧すぎて最低で、救いようがなかった。
「俺、は、ほんと、もう、だめで――……」
うわごとのように声をしぼりだす。
ずっと隣にいたのに、なにひとつ理解しようとしていなかった。
それで好きだなんて言っていた。
気持ち悪いのは、自分の方だった。
こんなんであの人の後継者なんて、なれるわけがない。
隣にいる価値もない。
楽器を吹く資格すらない。
動けないのに、震えが止まらなかった。
なんであの人は、こんな俺に音楽を教えてくれたんだろう。
なんであの人は、こんな馬鹿な俺に、優しくしてくれたんだろう――
「ねえ、湊っち。よく思い出して。春日先輩の言ってたこと」
どこか遠くを見るように、広美は言った。
「答えが全部きみの歩いてきた中にあるっていうのなら――『それ』だってたぶん、あの人からもらってるはずだよ」
「……」
それ、とは。
一体、なんだったっけ。
砕け散った破片の中でへたりこんでいると、小さな小さな、光が見えた。
そうだ。
壊れて壊れて、壊れきった先に、『それ』が最後に残っていると――あの人に教えられた。
本当にもう、失うものなんてなにもなくて――さえぎるものも、なにもなかった。
だからはっきりと、春日美里の声が、頭の中に響く。
『けどね、それでもわたしは続けてしまった。楽しかったんです、楽器を吹くのが。どんなに怒られても、わたしの音だけは――わたしを裏切らなかったから』
「う、あ、」
優しくて温かいその声に、嗚咽のような声が出る。
溢れる感情の奔流に、全部が洗い流されて――最後に残ったのは、その光だけだった。
『湊くん。わたしはあなたに教えるときに、少しひどい言葉を使ってしまうかもしれません。わたしが卒業してからも、とてもつらいことがあるかもしれません』
そう、ずっと、与えられ続けてきた。
今自分が持っているものは、全部あの人からもらったものだ。
いくら捨てようとしてもそんなことはできなかった――あの人は、それを、俺にくれた。
それは――
『『たからもの』を投げ捨てないでください。くだらないものだって、ないがしろにしないでください』
「う、あ、あぁ、あ……」
逃げ場なんてとっくになくなっていて、自分はもうこの人と一緒にいるしかなかった。
ボロボロ出てくる涙の先に、あの人の笑顔がよみがえる。
いつものように温かい太陽みたく笑って、自分に言ったのを覚えている。
『大切にしてください――その『たからもの』は、あなただけの、あなたにしか出せない、世界でたった一つのものなんですから』
「う、あ、あぁ、あぁぁ……っ!」
悲鳴に近かったように思う。
眩しすぎるその笑顔に向かって、子どものように泣いてすがるしかなかった。
好きだったのかどうだったのかもわからないけれど、自分の中の強い感情があの人に向いていたことは――きっと、確かだったのだ。
壊れたように泣きながら、鍵太郎は先輩にひとつ、謝った。
先輩、ごめんなさい。
もう一度、あなたの手を借りなければ立ち上がれなかった、情けなくて甘ったれの俺を。
どうか、許してください。
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声をあげて泣き続ける鍵太郎を残して、高久広美は屋上を後にした。
そして、扉の陰から様子を伺っていた、同じ部活の後輩たちに声をかける。
「なにを覗いているのかなー?」
『ぎゃー!?』
悲鳴が上がった。そこには浅沼涼子に、越戸ゆかり、越戸みのり、
鈴なりに並んだ不安そうな顔たちを見て、広美は笑った。
「大丈夫だよ。湊っちは今日は、部活に来るよ」
それに対する反応はまちまちだ。素直に喜ぶ者、まだ不安そうな者、静かに彼を見つめる者――そして不満そうに彼をにらむ者。
さて、誰がいいかなあ、と思う。
仕方がなかったとはいえ、あの人の力を借りるしかなかった。
彼の心には、より強く美化された形であの人の影が刻まれてしまった。それがよくもあり、悪くもあって――オヤジを自称する先輩としては、ちょっと心配でもある。
もう少し時間が経って彼が自分の力で歩けるようになったとき、本当に傍にいてくれるのは、いったい誰なのか。
全員にとって一番いいエンディングは、いったいどこにあるのか――
そこまで考えて、広美はいつものようにシニカルに笑った。
「……まったく。きみたちは、めんどくさい男を好きになっちゃったよねえ、ほんと」
これからのことを考えると、めんどくささで笑えてくる。
先輩たちがいなくなって、新しい世代が動き出していた。その流れは未知数で、選択肢は無限にある。
「ほんとにさ。選択肢が多すぎるよ。まるでハーレムじゃないか――楽しいけどね」
その中心に、彼の姿がある。
ひょっとしたら部長になっていたかもしれない先輩は、それを見つめてもう一度、笑った。
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「……」
鍵太郎は空を見上げた。
泣き疲れて座り込んでいたら、身体がひどく乾いていることに気づいた。
涙は出尽くして、力任せに叫んだせいで喉はガラガラだ。
なにか飲みたいと思っても、あるのは広美が置いていったコーヒーしかない。ブラックは苦手だったけれど、動ける範囲にはそれしかなかったので開けて一口飲んだ。
「
今まで飲んだ、どんなものより苦かった。
けれどそれが欲しくて、求めるがままに全部飲み干した。
缶を離して、震える肺に一気に酸素を入れる。
あの楽器を毎日吹いていたおかげで、痙攣していた呼吸はすぐに収まった。
まだ少し震えているけれど、それは今日の部活で本当に治められるだろう。
「……よし」
口と目をぬぐう。動けるだけの力は戻ってきた。
天気が良かった。秋の空は高くて、空気が澄んでいた。
それを見上げて、鍵太郎は屋上を後にした。
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