第81話 見たくない鏡
答えは全部、目をそらしている鏡の中にあると思うんだ、と学校祭あの日、先生は言っていた。
鏡? と首をかしげる自分に、先生はうなずいた。
うん。周りの人たち、あるいは、今まで歩いてきた道のりの景色。
その中に答えは必ずあると、僕は思う――。
先生の言うことはいつもよくわからなくて、そのとき自分は、その言葉の意味の半分もわかっていなかった。
今だって、そうで。
だからこそ、こうして暗闇をさまよい続けている。
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学校祭の次の日。
きのうで三年生は引退している。だから並べられたイスの数は、その分少なかった。
なんだかイスが足りないなあ、と思ってしまうくらい、それは受け入れがたい光景だった。
そのうち誰かが、やっほーと軽い調子で、ここに入ってきそうな気がする。
けれど、そんなことはなかった。
もう十一月になるというこの時期に、受験生のはずのあの人たちがここにいたということが、そもそもおかしなことではあったのだ。
イスとイスの間が広くてスカスカしていて、隙間風が吹いてきそうだった。
残された後輩たちが音出しを始めても、音楽室いっぱいに音は広がらない。
いつもドラムを叩いてた、
とても静かだった。
火が消えたようだった。
なにかに誘われるようにふらふらと楽器を出してきて、いつものように音出しを始める。
出てきた音は、自分でも顔をしかめるくらい、汚いものだった。
知らず知らずのうちに、甘えてきた。
自分でも気づかないうちに、守られてきた――それは、他のみなもそうなのだろう。
自分たちが今までいかに三年生に頼ってきたか、それを思い知らされているようで、後輩たちの顔は冴えない。
気分が悪くなった。口を押える。きのうの本番の疲れがまったく取れていない。
無意識に隣を見て、そこにイスがないことが一瞬、理解できなかった。
当たり前のことだ。きのうちゃんと挨拶をして、彼女は引退したのだから。
けれども、その穴の開いた空間への理解を、拒絶する自分がいた。
あの人がいないことが普通に受け入れられている、この世界が嫌だった。
気分が、悪い。
鍵太郎は二年生の
「……気分が悪いので、帰ります」
「大丈夫? 顔色悪いけど」
そう訊く智恵の顔色も、決していいとは言えなかった。
しかし彼女以上に、自分の顔色は悪いのだろうと思う。鏡がなくてもそのくらいはわかる。
そう、『鏡』だ。
周りが自分を映す鏡だというなら、それは――
と、鍵太郎はそこで気づいて、ひとつうなずいた。
「……先輩は、偉いですよね。音の出し方を根本から否定されても、ちゃんと受け止めて、本番であれだけ吹いたんですから」
「うん? ううん? まあ、そうなのかな?」
智恵は首をかしげる。先生に今までの考え方を否定されても、そこから自分の音を組み直し、本番では見事にソロを吹いた先輩。
すごいな、と思う。自分だったら、そんな風にできただろうか。
きっとできなかった。
だから今、こんなことになっているのだ。
鍵太郎は「そうですよ」と言って、智恵の下を去った。
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楽器を片づけて音楽室から出ようとすると、同い年のトロンボーン吹き、浅沼涼子とすれ違った。
「あれ? 湊、帰るの?」
不思議そうに訊いてくる。彼女はいつもと変わりないように見えた。きっと相変わらず、なにも考えていないからだろう。自分とは正反対だ。
鍵太郎は立ち止まって、涼子を見た。元気で好奇心旺盛で、自分にはない輝きを持った、ある意味天才のアホの子。
彼女に振り回されて苦労したことは数知れない。しかしそれでも世話を焼いてしまうのは、彼女が目指した先にはいつも、自分の予想もつかないものがあったからだ。
それを一緒に見つけるのが、とても楽しかった。迷惑をかけられながらもしょうがねえなあと許してしまうのは、それを目指して一直線に走っていける彼女が、素直にすごいなと思えたからだ。
ただ、今は疲れていた。
彼女を追いかけて走れないくらい、とてもとても、疲れていた。
だから鍵太郎は、「帰る」と涼子に返した。
「そっか。じゃ、また明日ね!」
なんのてらいもなくそう言ってくる彼女を見るのが、つらかった。
光に照らされて、自分の影がとても濃くなったように感じた。それを見ていられなくて、鍵太郎は涼子に言う。
「……ごめん。もう俺、おまえについていけないかもしれない」
そのまま、ふらりと彼女の脇をすり抜ける。そのとき視界の端に映った涼子は、不思議そうな、少し不安そうな顔をしていた。
あまり、彼女らしくなかった。
「湊……?」
そんな彼女の声を背に、音楽室を出た。
鍵太郎はこの日初めて、部活をさぼった。
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「なんだなんだ? 元気ねえなあ」
寝て起きても疲れが取れなくて、野球部の友人にそんなことを言われた。
部外の彼にも『鏡』はある。祐太は意外と周りを見ていて、軽く見えてもさりげなく人に気を遣っていて、背中を押す強さも持っている。
それに何回か助けられていて――今もひょっとしたら、そうなのかもしれない。
そうだ。彼は自分よりよっぽど大人だった。だから背も伸びて、置いていかれた気分になった。
なぜ自分は背が伸びないのかが不思議だった。でも今から考えればそれは当たり前で、成長を拒否し続けてきたからだ。
いつまでも守られる存在であることを望んだ。そして結局、全部を失った。
野球をやっていた中学の時と一緒だ。
なにも成長していなかった。
心配そうな友人に「ごめん、ちょっと外行ってくる」と言って、鍵太郎は教室を出た。
気分が悪くて外の空気を吸いたかったのはある。しかしそれ以上に、彼の前にいたくなかった。
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廊下で双子の姉妹に出会った。打楽器パートの越戸ゆかりと、越戸みのりだ。
「湊ー。なんできのう帰っちゃったんだよー」
「チューバがいないと、わたしたちはさみしいんだよー」
二人でまとわりついてくる。いつもと一緒だ。
この二人は相変わらずどこかべったりしていて、それが気に入らなくて切り離そうとしたときもあった。
結局それはあまり成功していなくて、今もこうして彼女たちはいつも一緒にいる。
最近はもう、それでいいやと思っていた。二人まとめて相手してくれと言われて、わかったよやりゃあいいんだろやりゃあ、とヤケクソ気味に返したのを思い出す。
低音楽器と打楽器は、テンポとリズムにおいて一心同体だ。きのうは二人とも、自分がいなくて苦労したのだろう。
あるべきものがなくなると不安になるのは、自分だって一緒だ。
だから鍵太郎は、二人に謝った。
「……ごめんな。前、おまえらのこと悪く言って」
閉じた世界に引きこもっているな、なんて、言えた義理じゃなかった。
本当に世界を閉じていたのは自分の方で、だからこそこの二人が耳障りだったのだ。
自分の認識と、現実の境界から出る軋んだ音がつらくて、止めさせようとしていただけだった。
この二人にはそれこそ二人分、謝らなくてはならない。だから鍵太郎はもう一度、彼女たちに言った。
「……ごめん。俺もう、おまえらと一緒に歩けないかもしれない」
これは約束を破ることになるのかな、と思った。一緒に行けば怖くないだろうと、あのとき自分は確かにそう言ったのだから。
でも本当なら、約束をする資格なんてなかった。
だからもう、気にする必要なんてないのだ。
「……湊?」
「……なんで?」
呆然としている同じ顔の姉妹を残して、鍵太郎はその場を去った。足は動いているものの、それはどこに向かっているのかわからなかった。
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そんな風にさまよっていたら、
「湊くん。きのうはどうしたの?」
家は寺で、非常にモラルの高い咲耶だ。こんな自分を心配してくれていたらしい。
でも彼女も、出会った頃はそうではなかった。どこか人と一線置き、遠くでにこにこ笑っていただけだった。
それがいつの間にか、こんな風に自分の傍に来てくれるようになった。根本的に他人と始点が違っていて、そのズレと孤独感に耐えるだけだった咲耶が、少しだけ変わったのは――そう、初めて彼女の家に行ったときだと思う。
「好きになれば、そんなものは全部飛び越えて、人はつながることができるのかな」と訊いてきた咲耶の顔があまりにつらそうで、手を差し伸べた。自分も先輩に気持ちが届かなくてつらかったから、彼女のつらさがわかってしまった。
でも今から考えれば、ああするべきではなかったのかもしれない。
「好きなら、つながれる」なんて、そんな無責任なこと、言うべきではなかったのかもしれない。
「……宝木さん、ごめんね。俺、変なこと言って」
実際に自分は春日美里とつながれず、こうしてひとりで残されているのだから。
ああ、でもそうか。自分は先輩のことが、ほんとに好きじゃ、なかったのだろうしな――
ぼんやりとそう思う。あれは勘違いした自分が口にした、ただの戯言だのだ。
「……好きなんかじゃ、なかった。伝わらないのも当然だった。結局ひとりで――つながることなんて、できなかった」
自分でも、なにを言っているのかが分からなくなってきた。
心の中でなにかが膨れ上がるのを見られたくなくて、咲耶の傍を足早に離れた。後ろから「……嘘だよ」という声が聞こえたが、振り返らなかった。
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廊下のどん詰まりで、
「あんた、さっきから黙って見てりゃ、なにやってんのよ!?」
彼女は怒っていた。いつも顔を真っ赤にして怒鳴ってくる光莉は、今はそれ以上に鋭い眼差しでこちらをにらみつけている。
「部活は途中で帰って。みんなに迷惑かけて。ふらふらふらふらと――あんたそれでも低音吹き!? 私との約束、忘れたなんて言わせないわよ!?」
「約束……」
胸倉を掴まれて、苦しいながらも繰り返す。忘れてはいない。それは低音楽器の役割。「おまえを支える」というあの言葉。
自分の失敗に傷ついて、うつむいていた彼女に向けた言葉。あのときは本当に楽器を始めたばかりで、やれるかどうかもわからなかったけれど――それでも言わずにはいられなかった、音楽の法則。
それを教えてくれたのは、春日美里だった。
どんなにつらくても苦しくても、全部を受け入れてあの場を支え続けた、あの人から――
「……ごめん、千渡」
その温かい光に耐えきれなくて、声が出た。
「支えるなんてできなかった。もうできる気がしないんだ。……だって俺は、もう自分のことも支えられてないんだから」
なにがバンド全体を支える、だ。
こんな小さくて弱い自分が、そんなことできるわけないじゃないか。
『春日美里の後継者』なんて、そんなものになれるわけがなかった。
最初から、そんなことは無理だったのに――
「……――ッ!!」
光莉が泣きそうな顔で、さらに胸を締め上げてきた。苦しい。でもそれでいい。あの楽器で鍛えた肺活量を削り取るように、もっと締め上げてくれていい。
結局全部、あの人から与えられたものだった。
全部返したい。だから戻ってきてほしい。もう一度やり直せるなら、そうしたって構わない。
けれど、そうはならない。
わかっている。
わかっているから、どうにもならなくて、自分は今、こうして――
「はい、湊っち。千ちゃん。そこまで」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこにいたのはバスクラリネットの二年生、高久広美だった。
三年生が引退した今、低音楽器は自分と広美の二人だけになる。先輩はきのう帰ったことを、怒りに来たのだろうか。
そう思うと、少し身体がこわばる。すると広美は二人の様子に苦笑いして、手招きをしてきた。
「よしよし。たまにはあたしも、先輩らしいことをしてみようじゃないか――ついておいで、湊っち」
やっぱり、お説教だ。光莉が手を離し、広美に自分を突き出す。
連れて行かれるがままに階段を上っていくと、着いたのは学校の最果て――屋上だった。
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