第80話 陽のひかり
学校祭二日目の、本番直前で。
それは、お化けの白いケープだ。ハロウィン時期の学校祭では、生徒の多くがなんらかの仮装をしている。
吹奏楽部のコンサートも部員はみな、なにかを身に着けていた。
トリック・オア・トリート。
お菓子をくれないとイタズラする幽霊が、きみにとりツイテでもいるんでしょうかネ――
今朝、先輩に言われたことが頭をよぎる。別にこれを着たからといってきのう失敗したわけではないけれども、うまくいかない原因が自分にとりついていることは確かだ。
それがなんなのか、この時点ではわかっていなかった。
けれどもなにか不吉なものは感じて、鍵太郎はかぶっていたフードをおろした。きのうは最初かぶっていたが、本番が始まったら暑くてしょうがなかったのもある。
もうすぐ本番を迎える。
三年生最後のステージ。最後のチャンス。
いつだってそう、そう思って――
###
――怖かったんだ。
どこか遠くでみなの演奏を聞きながら、鍵太郎はそんなことを思っていた。
ただでさえ遠くから聞こえる音が、曲の構成上どんどん小さくなっていく。それはそうだと、大きな舞台の片隅で思う。
さんざん先輩のことが好きだと言っておきながら、結局は自分を一番大切にしてたんだから。
お菓子をくれないといたずらするぞ。
こっちを向いてくれないと演奏で失敗するぞ――なんて。
シャレにもなってない。本当に、仮装するガキのやることじゃないか。
無意識にやっていたとしても、こんな甘ったれで最低な自分は、見捨てられて当然だ。みんな離れていけばいい。消えていけばいい。
動く気力は残っていなかった。ただ、練習で叩きこんできた動作だけは身体が覚えていた。指揮棒に反応するがままに口を振るわせる。
だから楽器から出てくるのは機械のような、なにもない空っぽの音だった。今の自分をそのまま出す、これも『鏡』だ。
こんなものを、こんなにたくさんのお客さんに聞かせてしまっていいのだろうか。弱気になって音が揺らぐ。
それはきのうと同じで、きのうと同じならば――
「あ……」
『その可能性』に至ったときは、もうその場面に差し掛かっていた。
隣にいる先輩の音が、びっくりするくらい大きくなる。
彼女と吹ける最後の旋律。それが瞬く間に過ぎていく。こんな自分を、最後の最後まで守ってくれる心優しい人。
そんなんだから、俺は――
そう思った瞬間から、自分に出せる最大の音量で吹いていた。空っぽの心に、瞬間的に高熱が吹き荒れる。
辿り着いた結論からくるショックは尾を引いていて、未だそれから抜け出せていないが、まだ。
もう少しだけ。
この人と一緒に合わせていく。
混ぜ合わせないで、自分だけの音で、この人の隣で吹いていく。
がむしゃらにやったので、合うものも合っていなかったように感じた。結局いつだってそんなもので、でも、確かに一緒には吹いていた。
この半年、ずっとそうだった。
あっという間の時間だった。そのままの勢いで、ソロに飛び込む。
音量は落としていない。このまま最後まで突っ走る。フルートとの音量バランスなんて知らない。とにかく最後まで貫き通せればそれでいい。
不思議と、フルートの先輩からきのうのような視線は感じなかった。
感情に任せるがままの、お世辞にもきれいとはいえない音だったのに、関掘まやかはそれでよいといった調子で自分のメロディーを吹いていた。
「守られてるキミじゃなくて、本気の『あなた』で来なさい」――あのセリフを思い出す。あれは、こういうことだったのだろうか。
これで、よかったのだろうか。
彼女が望んでいたのは、これだったのだろうか。
フルートが上昇し、チューバが下がった。二つの楽器がそれぞれのフレーズを吹き終わったところで、全員が一斉に入ってくる。
ジャン! という全員の一音が、曲の最後を締めくくった。
余韻を楽しむように少し間をおいて、指揮者の先生が棒を下した。観客から拍手が起こる。
経って礼をして座って、急いで口を拭く。
アンコールでもう一曲ある。『宝島』。早く。早くしてほしい。この熱が冷めないうちに、早くやりきってしまいたい。
アゴゴベルが、陽気なサンバのリズムを叩き始めた。
メロディーの多い楽器の連中は、みんなそうだ。本当に好き勝手にやりやがって。慶のソロを聞くと、本当にのびのび自由にやっているのがわかる。そしてその伴奏で吹いている自分もなぜか、不自由はない。
どうしてなんだろう。そんなに勝手にやっていて、なんでこの人に合わせられるんだろう。
最後までやっぱりよくわからない人だった。けれどこの人はこの人なりに、歩いてきた三年間があったはずだ。
それを、この最後にぶつけているのだろう。
自分と同じだ。貫きたいだけ。
最後まで。
ホルンの吠える音が隙間に入ってきて、
楽器でストレス解消できるくらいになりたまえよ――笑ってそう言っていた彼女のようには、なれていない。
厳しい先輩だった。最後まで、彼女はそうだった。
トランペットとトロンボーンの全員が前に出てくる。両楽器とも先頭を行くのは、三年生の
散々吹いてきた後だというのに、二人とも疲れなど微塵も見せていない。こちらに背を向けているのに笑っているのが音で明確に察せられて、心から楽しんでいるのがありありとわかる。
彼女たちが前に出て吹くと言ったあの日、自分はこの楽器は重いから立って吹くのは嫌だ、と言った。あんなことを言ってしまって、申し訳ないと思った。
そうだ。そしてあのとき、春日美里は言ったのだ。
「もっと楽しそうに吹くといいのですよ!」と。
楽しい。そうなのだろうか。
自分のどうしようもなさを思い知って、なおも出てきたこの熱は。
果たして楽しいという感情なのだろうか。
三年生たちが眩しすぎて、直視できない。全員が全員、それなりにつらいこともあったはずだ。聡司なんて一回辞めようとしたこともあったと言っていた。
でも、この人たちは最後まで笑ってやりきった。
こんな風に自分はなれるのだろうかという考えが鎌首をもたげる。「春日美里の後継者なら、その意味と価値を知れ」――あの言葉の意味を全く考えてこなかった、自分の迂闊さを呪いたくなる。
つらいことがあっても、楽しそうに笑って吹くことが、できるのだろうか?
眩しい輝きを持つことができるのだろうか?
少なくとも、現時点ではできていない。心の中にあるのはただの未発達な感情だけで、この人たちのようにそれを笑って見せられるようになんてなっていない。
自信なんてなくて、でもこれが最後のステージで――いつだって、そう思って。
怖かった。
この人たちがこれでいなくなるのが、信じられなかった。明日も普通に音楽室に来そうな気がする。笑って手を振って、こっちに走り寄ってきて、すっ転ぶ。
そんな日常をずっと送ってきたのに。
これから、どうしたらいいんだろう。
最後のトランペットの音が体育館中の空気を震わせて、光が尾を引いて走っていった。
その軌跡は花火のようにきらめいて、火の粉のように散っていく。
そして、熱が消えた。
###
「湊くん、おつかれさまでした」
本番が終わって、音楽室へ楽器を片づけて。
全部が終わった後で、鍵太郎は美里に話しかけられた。
学校祭ももう終わる。日が落ちてきて、音楽室も薄暗くなってきた。
憔悴して音楽室の床に座り込んでいる鍵太郎を見て、美里は笑う。
「相変わらず、がんばりやさんですねえ」
「……違います」
力なく、それだけ返した。
がんばったわけではない。むしろがんばってこなかったからこその、この体たらくなのに。
動けないでいると、美里が隣に腰を下ろした。
「今日は、ありがとうございました。いえ――今日まで、ありがとうございました」
「……先輩」
のろのろと首を動かして、美里を見る。引退の挨拶なら、先ほどみなの前でやっている。
だからこれは、同じ楽器の後輩である、自分だけに向けられた言葉だった。
この半年、彼女の隣にいた自分だけに送られる、別れの言葉。
そしてこれがおそらく最後の、音楽室での一緒の時間――
「がんばってきました。つらいことも楽しいことも、たくさんありました。今日はそれを出し切れて、とても楽しく吹くことができました」
完全燃焼を終えて。それでもなお、春日美里は眩しかった。
直視できないほどに。
「最後のコンクールも銀賞でしたけど、みんながんばりました。嬉しかった。私の家族は、やっぱりすごかったんです」
「先輩、俺……」
やめてほしかった。
がんばってなんか、いなかった。
すごいなんて、そんなこと言わないでほしかった。美里の眩しさと相まって、罪悪感で灼かれそうだった。
でも。
これで本当に、終わりだった。
それを告げるために、別れの挨拶をするために、彼女はここにやってきたのだ。
美里は頭を下げる。
「ありがとうございました。湊くん。わたしがここまで来られたのは、あなたのおかげです」
「先輩……」
特別な存在であったことは間違いない。
初めてできた同じ楽器の後輩だと、とてもかわいがってもらったことは、間違いない。
なら――
「俺……は」
ソロはあれでよかったのだろうか。結局未だに、よくわからない。
うまくいくいかないなんて、本当はどうでもよかった。
自分が勝手に決めたことで、そんなことしないでも、言えばよかったのだ。
最後の最後に、せめて、これだけは――
「俺は……先輩のこと、好きですよ」
目を見て言うことができなかった。
疲れ切った身体から出る声は弱弱しくて、それこそまるで庇護を求めるかのような声だった。
温かい熱に手を伸ばすかのように、見えなくても触れられるように、それだけを求めて――
そんな鍵太郎の言葉に、美里はにっこりと笑って、言う。
「はい。わたしも湊くんが大好きですよ!」
いつものように。
いつもと同じ――誰にでも優しい、陽の光のような笑顔で美里は言った。
「優しさが欠点」とまで言われる彼女の、無慈悲にさえ感じる、きれいな笑顔だった。
「楽しかった。みんな大好きでした。でも、わたしはここまでです。湊くん、これからみんなのこと、よろしくお願いします」
「みんな」大好きでした――
それを聞いて、鍵太郎は薄く笑った。
ああ、そうだ、と思う。
わかっていたのだ。
あなたはそう言うだろうって――心の底では、わかってたんだ、俺は。
わかってて、「ソロがうまくいったら」なんて、自分で予防線を張って。
絶対に届かない太陽に、背伸びして手を伸ばしてたような、そんな子どもで。
そんなことは、わかってた。
わかってた。だから怖かったんだ――
暗くなっていく音楽室で、鍵太郎はひとつ、うなずいた。
「……はい。がんばって……みます」
「ありがとう」
さようなら。
そう言い残して、温かい光が、どこかに行ってしまったのがわかった。
薄暗い音楽室の中で座り込んで、なにもない空中を焦点の合わない目で見つめる。
その姿勢のまま、鍵太郎はぼんやりと思った。
誰か、電気つけてくれないかな。
俺、今、ちょっと動けそうにないんだ――。
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