第79話 自己愛の証明
「きのうより、たくさん来てくれてますね!」
もうすぐ始まる本番を前に
日曜日で天気がいいということもあって、きのうより客の入りがいい。パイプイスは順調に埋まりつつある。
家族連れ。他校の生徒。職員室で見たことだけはある先生――そんな普段は関わり合いのない人たちが、あれこれしゃべりながら本番を待っている。
その中で、こちらに向かって手を振ってくる女性たちがいて、鍵太郎はきょとんとした。すると、その人たちはどうも奥にいる美里に向かって手を振っているらしい。
手を振り返した美里は、嬉しそうに鍵太郎に教えてくれる。
「あの人たちは、卒業した先輩方々ですよ。見に来てくれたんですね」
「へえ……」
なるほど、自分の後輩たちの本番に来てくれたのだ。
先輩の、さらに先輩。なんだか不思議な感じだ。OBOGとして現役生を見守ってくれている、名前も知らない先輩たち。その人たちを見て、鍵太郎は美里に訊いてみた。
「先輩。先輩は……来年の学校祭、見に来てくれますか?」
「もちろんですよ!」
間髪入れずに即答された。
当たり前だろう。美里は部長だ。
その役職通りに責任感も強く、彼女はみなを愛し、愛されてきた。
そう、みんなが大好きだと――そう言うこの先輩が、後輩たちの本番に来ないなんてありえない。
例え告白した結果振られてもそうでなくても、美里は来年もここに来てくれるだろう。この人はそういう人だ。
全部受け入れ、許してくれるそんな人だから、好きになった。
そんなことはもう、わかりきっていたはずなのに。
疑っていたわけではない。けど、どうしてか確認したくなった。そして予想通りの返事をもらえて、鍵太郎は「ありがとうございます」と言った。
クラスの友人たちが体育館に入ってくるのが見える。きのうも来てくれた連中だ。二日目のほうがいい演奏をすると聞いて、じゃあ明日も行くわーと言ってくれた友人。そう、きのうとは違うのだよ、きのうとは。
客の入りも自分の心持ちも違うのだ。だからきっと、きのうより今日の方が上手くいく。
定時になる。指揮者の先生が舞台へ歩いてきて、観客に向かって礼をした。こちらを向いたその顔は、きのうと同じように茶目っ気のある表情で、今日はそれ以上に楽しそうでもある。
一瞬目が合って、鍵太郎は少し前にこの先生と話をしたことを思い出した。「答えは全部、今まで過ごしてきた時間の中にある」――と。
うまくいかない原因を、今までずっと、考えてきた。
結局答えは見つからないまま本番になってしまって、でも楽器を吹けば、わかりそうな気がするのだ。
酸素を大量に吸って、吐いて。その繰り返しとそれで出る音は、妙に頭を活性化させる。
音はとても、正直な鏡だと。
隣にいる先輩は、だいぶ前にそう言っていた。
この人に楽器を教わり始めた、最初の頃。
その辺りのことから――もう一度、思い出してみよう。
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一曲目が始まる。
雷のように音が鳴り響いて、そこから光だけを残したようにトランペットとサックスの音が輝いた。
続いてドラムの音がスムーズに入ってくるのを聞いて、ああ、二日目の方がうまくいくというのは本当なんだなあと実感する。きのうより緊張がほぐれて力が抜けたのか、全員の音が真っ直ぐに飛んでいる。
やりやすい。ごちゃごちゃしていなくて、ひとりひとりがなにをやっているのかがクリアにわかる。
そういえば先生は言っていた。混ぜるんじゃなくて重なり合わせるように吹けと。
この調子で行ければ、体力のことはあまり心配しなくて済みそうだ。ノリよく進んでいく曲を心地よく感じながら、鍵太郎は記憶を紐解いていった。
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初めての本番は、学校の近くの老人ホームだった。
楽器を初めて間もないときで、それこそ酸欠で倒れそうなくらい練習した覚えがある。
あのときは、本番で大きな失敗はしなかった。最初のうちは緊張して音が出なかったけれども、お客さんのおかげでなんとか立ち直ることができた。
美里と打楽器の先輩の音を追いかけて、必死に食らいついて乗り切った。楽器を初めてたった二週間で本番の舞台に上がったのだから、それはそれで大したものだと思う。
あの頃はなにもかもが楽しかった。周りで起きるのは初めてのことばかりで、驚きと期待にあふれていて、教えられたものを吸収してできるようになっていくのが、とてもとても嬉しかった。
けれどそれだけじゃないのを知ったのは、美里の友人が音楽を辞めたときだ。
他校の部員で、「音楽を嫌いになった」と言っていなくなってしまった、先輩の友達。
かつての仲間が大切な『たからもの』を投げ捨てて別れていったのを見て、美里は泣いていた。
だから自分はそうならないように、この人と一緒に楽器を吹いていくんだと、そう決意した。コンクールの練習が始まって、美里と実力の差がありすぎることに気づき、なんとかその差を埋めようと四苦八苦してきた。
年下扱いからどうしても抜け出したくて、わざと反抗をして痛い目をみたときもあった。
かっこつけようとして、余計かっこわるくなっていた。
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プログラムは進む。『シンフォニア・ノビリッシマ』。
コンクールで吹いた曲だ。そのコンクールの県予選の日、ここで初めて大会で結果が出なかったら、美里が引退するのだと自覚した。
実際にはこうして学校祭まで一緒に吹いているわけだけれども、そのときはコンクールで負けたら、それで終わりだと思っていた。
そう、この辺りから段々なにかがおかしくなってきたような気がする。
美里を失うのが怖かった。当たり前のように隣にいた人がいなくなることが恐ろしかった。
そのときの本番は、譜面台が届くのが遅れて散々だった。けれどもちゃんと練習をしてきたおかげで、そこで終わることなく先に進むことができた。
今度こそと思ってやってきた本選の会場で、強豪校の先生に美里の考え方を馬鹿にされた。それが悔しくて頭にきて、その怒りのままに本番を迎えることになった。
一人で突っ走って結局だめで、最後くらいはと思って出した音は、思いっきり外した。
本番の後に泣きそうになりながら謝って、美里はそれでも許してくれた。結果は銀賞だった。でも、次に学校祭があるのだと知って、まだ一緒にいられることは嬉しかった。
この学校祭でソロを任されることになったときは、先輩がやるものだと思っていたのでひどく困惑した。けれど、これができれば先輩に追いつけるんじゃないかと思った。
フルートの先輩に怒られた。そんな稚拙に吹くなと言われた。その程度の気持ちでしか練習してないのかとも言われた。そんなことはないと証明したくて、さらに練習した。
でも、きのうは吹けなかった。
そして今、自分はこうして悩み続けている。
……あれ?
記憶が現在に追いついてしまって、鍵太郎はその手応えのなさに肩透かしを食らった気分になった。
おかしい。先生の予想は外れていたのだろうか。そんなことはないと思うのだが。
しかし思い返してみると、ほとんど全部の出来事に春日美里が関連している。それはそうだ。
自分は彼女のために、彼女と一緒に彼女の信念を貫くために、ここまで動いてきたのだから。
なんの問題もない。
問題ない、はずだ。
――本当に?
なにかゾッとするものを感じて、強制的に思考が打ち切られる。
拒絶反応のようなきつい揺り戻しが、めまいのような感覚を引き起こす。楽器を落としそうになって、鍵太郎は慌てて姿勢を正した。
これだ。ここにある。この猛烈な拒絶感。『見たくない鏡』。
それが、ここにある。上手くやろうと思ってもどこかでそれを拒んでいる、その都合の悪いこと。
無意識に避けていたその理由を、ようやく覗き込むときが来た。
自分の音を録音して後から聞くのが嫌いだった。
いかにできていないかを思い知らされるから。
けど。
傷つくことを恐れるな。
目を背けるな。
覚悟を決めろ。腹を据えろ。
全部、あの人のためだと思えば――怖くないだろう?
『
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『警告』を受けているはずだと、先生は言った。
無意識に目をそらしている鏡を差す、真実への道標。
周りにはそれがあったはずだ。そのときに自分が思ったことの他に、周囲の人々からなにを言われたのか。そこにヒントがあるはずだ。
そう、これまで――
プライドの高いトランペットの同い年からは、「春日美里に気を取られて、練習に身が入ってないんじゃないか」と怒られた。
実家が寺のクラリネットの同い年は「大きな存在に守られているだけじゃ駄目なんだと思う」と言っていた。
図書委員みたいに地味な先輩には「春日美里の後継者なら、その意味と価値を知れ」と言われた。
バスクラリネットのオヤジみたいな先輩は「春日美里の問題点は、優しすぎること」と指摘していた。
優しすぎること。
それは、だめなことなのだろうか?
あのとき、彼女の優しさに救われたと思ったこと。
それは、間違いだったのだろうか?
結論は出ないまま、コンサートは進んでいく。
###
『吹奏楽のための第二組曲』が始まる。
まずい、と焦る。この曲の最後までに、答えを見つけなければならない。きのうより体力に余裕はある。今度は美里の手を借りないでもいけるだろう。
そう、先輩の――
ふっとなにかが浮かびかけて、消えた。やはりここにあるのだ。これを明らかにして自分の思いを証明する。
一楽章、『マーチ』。明るく楽しく、踊るように曲が進んでいく。きのうも思ったが、行進ではなく散歩のような楽しさだ。
三年生の個性的な先輩たちは好き勝手に吹いていて、でもどこかでつながっていた。これで最後の演奏だからだろうか。全員がすべてを出し切るようにしていて、輝いていた。
この人たちはみなどこか吹っ切れていて、明るくて楽しい人たちばかりだった。つられるように後輩たちもついていって、それで美里の言う「やりたいことをやって楽しい」部活ができていたのだと思う。
楽しい時間だった。ずっと続けばいいと思った。この曲は最後まで吹いたら、一番最初に戻ってもう一度同じことを繰り返す。そんな風にして曲が終わらなければいいのにと思う。
ずっと一緒にいられればいいのにと思う。
二楽章、『無言歌』。"I'll love my love"――『私は私の愛を愛す』。陰鬱な始まりと、思い出の中だけを愛す内向的な音楽。
それは美しく、どこかに悲しみを秘めながら優しく響いていく。そしてその思いを沈めるように、低く低く潜っていく。
最後の音は最低音のチューバ。美里の音だけが残る。どんなこと言っても、いつだって笑顔で「みんなが好き」と返してきた彼女。その姿はある意味において、自分の愛を愛しているかのようでもある。
気づいてほしかったのだ。
その『みんな』の中の一人が、特別な思いを持っているということに。言っても言っても気づいてもらえなくて、それをつらいと感じていたことに。
気づいてほしかったのだ。
三楽章、『鍛冶屋の歌』。作業中の鍛冶屋が陽気に歌う。ユーモラスなフレーズの中に、これが終わったら正式に部長になる打楽器の先輩の音が響く。それにあおられるようにして、大きな音が出た。おかげで鍛冶屋の力強さが出せて、それはよかったのだが。
美里と違って厳しい彼女のことは、やはり少し怖かった。
不安だった。
これからどうなるのか。楽しいことばかりじゃなくて、優しいことばかりじゃなくて、知らない世界でどうやって生きていけばいいのかわからなかった。
だから――
四楽章、『ダーガソンによる幻想曲』。時間がない。焦る気持ちが増大する。しかもさっきの鍛冶屋で少し吹きすぎた。冒頭の長い休みで呼吸を整えないといけない。
隣にいる美里のことが気になる。三年生たちはかなり吹いている。先輩は大丈夫だろうか。かといって、そちらをフォローできるような余裕はないのだが。
きのうはソロの直前で、美里が低音楽器の主旋律を鍵太郎の分まで出してくれていた。
今以上に余裕のなかったあの時点では、あれは正直助かった。今回もそれを――
――それを?
そこまで考えて、鍵太郎は息を止めた。
それを、なんだ。おかしいだろ。
俺は今、なにを考えた?
それを、お願いしたい、と。
精神的に追い詰められて、最後に出た本音が「春日美里に頼りたい」?
なにを、そんな、馬鹿な――
そう思いつつも、見たくないものを映し出すように、記憶がよみがえる。
コンクールの予選。譜面台がなかなか来なかった。来るのを待っていたら準備時間切れで、舞台の明かりが点いてしまった。
じゃあ。
なんであのとき、舞台の係の子に催促しなかった?
次のコンクールの本選。先輩の考え方を馬鹿にされて怒りが収まらなくて、今までの吹き方を崩してしまった。ひとりで飛び出して、迷惑をかけた。
どうしてあのとき、ひとりで行ってしまった?
学校祭一日目であるきのう。全員で吹いていたところから、段々吹く楽器が減って音が小さくなって、怖くなった。美里のサポートで一時復活したものの、フルートの先輩の自分を覗き込んでくるような視線が怖くて、またおかしくなった。
なんで怖くなった?
考えてこなかった失敗の理由。
目をそらしていた、都合の悪い鏡。
例えそこに写っているものがどんなに醜かろうとも、先輩のためなら俺は――
「春日先輩に甘えきっているキミが嫌い」
強烈に、フルートの先輩に言われたこのセリフがよみがえる。
春日美里。自分にとっての師匠であり、この世界での母親のような人であり。
そして自分の過去を許してくれた、かけがえのない人。
全部受け入れ、許してくれるそんな人だから、好きになった。
好きに――なった?
その理屈はなんだか――おかしくないか?
それ果たして、愛なのか?
ここに来て、初めて疑問に思う。
自分の中にあるのはそんな大層なものではなくて、もっと、濁ったものなのではないか――?
そこを疑ってしまうと、今まで信じてきたものが全部ひっくり返る。
愛だと思っていたものが、全く別のものに置き換わる。
譜面台を自分で取りにいかなかったのはなぜ?
本番の演奏でひとりで行ってしまったのはなぜ?
その理由を暴かれるのが怖かったのは――なぜ?
そうだ。
休憩が終わってしまって、鍵太郎は慌てて曲に復帰した。ここからはもう休みはない。ひたすらに吹き続け、曲の終わりまで一直線――
賑やかに周りが吹く中で、ひとり震えながら思う。
いつからだ。いつから――
心のどこかで、庇護を求めるようになった?
できないことを先輩に許されて、それで満足するようになった?
いつから――
先輩の気を引くように、間違えを繰り返すようになった?
気づいてほしくて、焦がれるように苦しくて。
追いつけないならこちらに振り向いてもらおうと――気を引くため子どものようにわざと間違えるようになったのは、いつからだ……?
コンクール県予選会。リハーサル室の前。
それは「美里といられるのがこれで最後かもしれない」と初めて知った、その始まりの場所――
失いたくない。
ずっとこのままでいたい。
ずっとあなたの隣にいたい。
それは一見きれいで、愛のように見えるかもしれないけれど――その裏にある理由は、きっとそうではないだろう。
自分の間違いを、ただひたすらに許し続けてもらいたかっただけ。
都合のいい、優しい夢をみていたかっただけ――
そうだ。指摘されていた。
春日美里の欠点は、「優しすぎること」。必要以上に他人に気を遣って、全部を受け入れて、許してしまえる――この人の、最大の武器にして、致命的な弱点。
そこに頼ってきた。
知らず知らずのうちに、甘えきってきた。
ずっとこのままでいたかった。このままではいられないと知りつつも、そうしていたかった。
それは見たくもないどころではなくて――そのまま壊してしまいたくなるような、鏡。
そこにあるのは、愛なんかじゃない。
単なる自己愛だ。
ああ、そうだ、と思う。納得してしまう。
それこそ拒否したいのに、心の中でぴったりと、なにかがはまってしまったのがわかった。
悲鳴を上げたいのに、どこかにいる冷静な自分が、「やっぱり」と言っているのが聞こえた。
段々と進んでいく曲の中で、楽器の数が減り、世界が小さくなっていく。
繰り返していた楽しげな音が遠ざかり、お祭り騒ぎが終わるようにさみしくなっていく。
その感覚に、結局楽しかったのは自分だけだったのだと思い知らされるようで――その中に取り残されて、それも当然だと思った。
ああ、そりゃそうだ。
これは、嫌いになるわ。
これは、気づいてもらえないわ。
そうだよ、だってそんな自分、俺だって嫌いだもの――。
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