第76話 英気を養う

「よくわかんないけど、すごかったぞ」


 学校祭一日目のコンサートが終わって、湊鍵太郎みなとけんたろうは友人の黒羽祐太くろばねゆうたにそう言われた。

 彼やクラスの何人かは、鍵太郎の所属する吹奏楽部のコンサートに来ていたのだ。

 なので部活の片付けを終わらせてクラスに戻って、鍵太郎は「どうだった?」と祐太に訊いてみたのだが――返ってきた答えが、これである。

 祐太は野球部だ。音楽の授業でしか楽器を触ったことのない、そんな普通の高校生だ。

 ここ半年でどっぷり吹奏楽に浸かってしまった自分とは、まったく違う角度の見方をしてくれたのではないか。そう思って訊いてみたのだが。

 返ってきたのがあまりにざっくりした感想だったので、そ、そうだよな、と鍵太郎は思った。あの楽器がどうだったとかあのメロディーがきれいだったとか、そんな具体的な話ばかりする人に囲まれていたせいで、そんなものの見方をすっかり忘れていた。

 でも、それでいいのだ。

 曲のことなんて知らなくて、楽器の名前も知らなくて、でもそんな人になにか伝わるものがあればいいと思って、あの演奏をしたのだから。

 そう考えるとまず最初にその言葉が出てきたということは、全体の出来はよかったのだろう。

 自分を除いては。そう思っていると祐太は、それだけではさすがにどうかと自分でも思ったらしい。

 首をかしげて、他の感想を言おうとする。


「うーん、なんだろな。すごかったとしか言えねえや。なんだかわかんねえけど、うん。とにかくすごかった。よかった」

「あ、ありがとう……?」


 参考にはならないが、これはこれで彼なりの最高の賛辞なのだろう。

 それについてはありがたく受け取ることにする。そして自分の質問の仕方も悪かった。もっと具体的に訊くことにする。


「どの曲が良かった?」

「あー、あれ。最初の」


『ディープパープル・メドレー』か。あれはかなり派手にやってしまった。やっていた当の鍵太郎ですら、みんなこんなに音を出していいのかと本番中に思ったくらいだ。

 だがそれがかえってよかったらしい。祐太は身振り手振りを交え、言ってくる。


「なんつーの? 最初から、ガツーンって殴られたみたいな。すごい衝撃で。ものすごい身体がビリビリきたっていうか、なんつーか」


 うん。すごかった。そう締めくくる。やはり結局どうあっても、そこに落ち着くらしい。

 よかった。内部的な事故は色々あったコンサートだったが、聞いていた人がそう言うならばそれは成功だったのだろう。

 うん、やっぱり自分を除いては。どうしてもそれが出てきてしまって、鍵太郎はため息をついた。それに祐太が反応する。


「なんだよー。よかったって言ってんじゃねえかよー」

「うん、まあ、そうなんだけどね……」


 全体の出来はよかった。しかし自分のソロはうまくいかなかったのだ。

 あれだけ練習してきただけに、ショックは大きい。本番の疲れもあって、あまり気分は晴れてはいない。

 まあ、いつまでも落ち込んでいてもしょうがないとは確かだ。そのためにもこれから、あるところに行くつもりだ。

 目の保養に行こう。そこでこの疲れを癒すのだ。

 聞きに来てくれた礼もある。鍵太郎は先輩からもらった食券を取り出した。


「祐太、先輩から食券もらったんだ。クラスのお店に来てほしいってさ。一緒に行こう」

「おっ、マジで? 行く行く」


 それは同じ楽器の先輩の、春日美里かすがみさとからもらったものだ。

 彼女はコンサートの後、そこにいるはずだった。

 メイドさんの恰好をして。


 もう一度言おう。

 メイドさんの恰好をして。


 大事なことなので二回言った。聞いた時から楽しみにしていたのだ。食券なんてもらわなくても、メニューの端から端まで頼むつもりだった。

 疲れたので甘いものが食べたい。たくさんサービスしちゃいますよと言われた。生クリーム増量でよろしくお願いします。なにが出てきても全部食べます大丈夫ですはい。

 二人で連れ立って、教室を出る。いざ行かん、そこにある楽園へと。



###



「……どうしてこうなった」


 そして鍵太郎はそのメイドカフェのテーブルで、頭を抱えてうめいていた。

 右隣には変わらず、黒羽祐太がいる。そして左隣には――


「なによ。なんか文句あるの?」


 腕を組んでふんぞり返る、同じ吹奏楽部の千渡光莉せんどひかりがいる。

 教室を出たとき、光莉が二人の後を追ってきたのだ。その手には鍵太郎と同じ食券があった。

 聞けば、彼女も同じ楽器の先輩からそれをもらったらしい。後輩に食券を渡していたのは美里だけではなかったということだ。

 三人とも同じクラスなので、祐太ももちろん光莉のことは知っている。むしろ光莉を吹奏楽部に入れたのは祐太だと言っても過言ではない。そのくらい馴染みのあるメンバーではある。

 しかし問題は、なぜ三人一緒のテーブルにつかねばならないのか、ということだった。

 光莉は別のテーブルに座るかと思いきや、なぜか問答無用で自分の隣に座ってきた。せっかく男二人で先輩の姿を愛でようとやってきたのに、この同い年が隣にいたら、癒されるものも癒されないではないか。

 そう思っていると光莉は顔を赤くして、あさっての方を見ながら言ってくる。


「せ、せっかく同じお店に来たんだし。どうせだからあんたがソロ失敗したのを、なぐさめてあげようかなー、とか考えてたのよ私は?」

「ああうんありがとう……」


 自分でもわかったが、若干の棒読みの返事だった。

 気持ちはありがたい。ただ今はそっとしておいてほしい。男には、放っておいてほしいときがあるのだ。

 ここでいったん休息して、気持ちが切り替わるのはそれからだ。だから今は、黙っていてくれないだろうか。

 鍵太郎の切なる願いも空しく、光莉はいつも通りむっとした表情になる。


「なによその言い方。人がせっかく優しくしてあげようとしたのに」

「優しいかなあ、この態度……」

「優しいでしょ!?」

「どこがだ……」


 いつも通り、顔を真っ赤にして怒鳴ってきているではないか。なんだか失敗したのを怒られているみたいで、逆に落ち込んでくる。

 祐太は祐太で、この会話をニヤニヤしながら聞いていて仲裁してくれる気配はない。というかなんでこいつ、こんなに笑ってるんだ。人の不幸がそんなにおもしろいのか。


「まあまあ光莉ちゃん。一日目なんてみんなそんなもんだよー」


 助け舟は別のところからやってきた。メイドさんの恰好でそう言ったのは、光莉と同じ楽器の先輩、豊浦奏恵とようらかなえだ。

 あれだけ本番で吹いたはずなのに、疲れている様子を全く感じさせない。貫録の三年生である。

 ただ単に、コスプレが楽しいだけなのかもしれないが。フリルの付いた黒のミニスカートに、白のエプロンドレス。そしてニーソックスをはいている。メイド喫茶などでよくあるフレンチメイド型の衣装だが、奏恵が着るといやらしさがないのがとてもよかった。

 むしろミニスカートと奏恵の活発さが相まって、かわいらしさが出ている。先輩もこんなの着てるのかなあ、と鍵太郎は周囲を見渡した。しかし美里の姿は見当たらない。まだ準備中なのだろうか。

 奏恵は三人にメニューを出しながら、言ってくる。


「毎年そうだよ。一日目はみんな緊張してるから、失敗することも多いんだよね。だから二日目! 二日目こそ、みんな真価を発揮するんだよ!」

「へー。じゃあ明日も見に行こうかな」

「ぜひぜひ!」


 祐太の言葉に、奏恵が親指を立てた。相変わらずテンションが高い。こんなメイドさんいたら楽しいかもしれない。

 二日目、か。今日の演奏を思い出して、鍵太郎はメニュー表を見る。そう、みんなそれぞれできなかったところはあった。

 明日だ。明日こそは自分の真価を見せられるだろう。たぶん。

 まだちょっと弱気だ。だからこそここに来たのもある。

 そうやってなにを頼むかを選びかねていたら、「チーズケーキにします」と光莉が言った。早い。女子ってもっとあれこれ悩むイキモノではないのか。

「サイダーください」と祐太も言う。おまえ相変わらず炭酸好きだな。自分の甘いもの好きも似たようなものだが。

 二人が頼んでしまったので、少し焦る。最初に全部頼むと言ったな。あれは嘘だ。さすがの自分も、このメニューの品を全部頼む気にはならない。

 チョコレートケーキにミルフィーユ。他にもスタンダードな種類が、一通りそろっている。

 まあここはやっぱり、王道のイチゴショート――


「お待たせしましたー」

「ぬっ……!?」


 そこで聞こえてきた声に、鍵太郎は過敏に反応した。

 この声は春日美里。

 長身でかわいくて出るとこ出てる、さぞかしメイド服が似合うであろう先輩である。

 話を聞いたときから、どんな感じになるのかと予想してきた。

 もし奏恵のようなミニスカートだったら、絶対領域がまぶしすぎることになるだろう。

 果たして直視できるのだろうかと思いながら、鍵太郎は声のした方を向いた。

 美里はもちろん、メイド服を着ていた。ただし奏恵のようなミニスカートではない。

 足首まである黒のロングスカート。清潔な白のエプロンドレス。頭に載ったホワイトブリム。

 ヴィクトリアンメイド。本格的なメイドさんだった。

 接客業の域を超えて、本職の人のように見えた。美里の長身と相まって、ロングスカートがとても映える。

 企画者を呼べ! と言いたくなる。

 誰だ、先輩にこれを着せようと言い出したのは。春日美里という女性のキャラクターを考え、ミニではなくあえてのロングスカート。ここにこだわりを感じる。何時間でもこれについて話し合えそうな気がする。


「あ、湊くん。来てくれたんですね!」


 彼女は後輩たちの姿に気づき、こちらに駆け寄ってくる。

 鍵太郎は戦慄した。これは、まさか――


「――へぶっ!」

「やっぱり転んだっ!?」


 予想通りすぎて思わず叫んだ。ロングスカートの裾を踏んづけて、美里がいつものようにずっこけた。人と萌が合わさり最強に見える。まさか、企画者はここまで読んでいたというのか……!?

「い、いたい……」と涙目で起き上がる先輩。なんてことだ。なにもかも計算のうちか。普段の何割増しでかわいいんだこの人。もう明日のコンサートもこの恰好で出てくれないだろうか。そしたら全てがうまくいきそうな気がする。

 美里はなんとか立ち上がり、後輩たちの下へとやってきた。鍵太郎だけが注文していないと知り、「なににしますか?」と首をかしげて訊いてくる。

 やばい。かわいい。そんな先輩の仕草になにも言えないでいると、奏恵がヒラヒラと手を振りながら言う。


「美里美里。違う違う。美里は背が高いから、立って注文取ると目線が高くて、お客さんに失礼だって言われたじゃん」

「あ、そうでした」


 練習通りやらないといけませんね、と先輩は言う。なんだ練習って。期待と不安で胸がよじれる。

 企画者はこれ以上、先輩になにをやらせようというのか。

 そう思っていると、美里はふわり、と優雅にその場にひざまずいた。

 ロングスカートがきれいに床に広がる。その光景に見とれていると、美里がすっとこちらを見上げ、言ってくる。



「――なんになさいましょうか、ご主人様」



「全部ください」


 鍵太郎は即答した。

 先ほどまでは全部はさすがにと思っていたが、もうそんなものはどうでもよかった。

 だってこれ、もうだめだろ。どこまでやらせるんだこの人に。反則だよ反則。こんなんされたら全部頼むに決まってるだろ。

 美里は予想外の注文に目をぱちくりさせたものの、やがて冗談ではないとわかったようで、「全部ですね! ありがとうございます!」と嬉しそうに言う。


「まいどー!」


 奏恵がそう言って、注文票をカウンターへと持っていく。結局すべて、企画者の掌の上だった。

 でも、これでいいのだ。ここまでやってくれたんだから、こちらもそれ相応の礼をしなければならない。

 ありがとう。あなたのおかげで俺は幸せだった。これでもう思い残すことはない。

 光莉がドン引きしてこちらを見ている。おまえにはわからないかもしれないが、もう俺は大丈夫だ。これで明日も戦える。


「千渡さんも着る? メイド服」


 祐太が自分と光莉を見ながら、ニヤニヤと笑ってそう言った。光莉は顔を赤くして「だ……誰がっ!?」と言い、そっぽを向く。

 まあ彼女は確かに、恥ずかしがってこういうのはやらないだろう。もし着たとしても「見るんじゃないわよーッ!?」とか言って、いつものようにぶん殴ってくるのがオチだ。

 さすがにそんな暴力メイドは遠慮したい。光莉は怒ったようにあさっての方を向いている。こんなメイドさん嫌だ。

 そんな彼女に、祐太が言う。


「そうやってツンツンしてるのもいいけどさ。早くしないと、誰かに取られちゃうよ?」

「な……っ!?」


 おい祐太。なんだかわからないが千渡を刺激するな。せっかく争いのない平和な世界が築かれようとしているのに、そんなことをしたらまた戦乱の嵐が吹き荒れるではないか。

 光莉は顔を真っ赤にして固まって、しばらくの後「やっぱり無理!」とテーブルに倒れ伏した。うむ、やはりここは楽園。争いの芽は早々に摘まれる定めにある。

 料理が運ばれてきた。テーブルに乗るのかどうかも怪しい量だが、そこは心配ない。全部食べきってしんぜよう。

 鍵太郎は食器に手を付けた。同席の二人に鷹揚とした調子で声をかける。


「さあさあ皆の衆。明日のコンサートに向けて、英気を養おうではないか」


 至極まっとうなことを言ったつもりだったのだが、光莉は顔を引きつらせ、祐太は相変わらずニヤニヤ笑いっ放しだ。


「あ、あれでここまで元気になるのこいつ……で、でもやっぱり恥ずかしい……」

「うーん。こんなのが日常会話なのかよ。吹奏楽部やばいわー。まじパないわー」


 明日も聞きに行くわー、と言って、祐太は自分の頼んだサイダーに口をつける。明日も来てくれる。ありがたいことだ。

 そう、たくさん食べて、明日もがんばろう。鍵太郎はそう思って、まずはショートケーキにフォークを突き刺した。

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