第75話 祭りは終わらない
コンクールでも演奏した『シンフォニア・ノビリッシマ』が終わり、
正直、コンクールのときより上手くできた気がする。あのときより上達しているんだなあと嬉しくなると同時に、なんであの本番でこれができなかったのかという後悔の念も湧き上がる。
本番が終わった後の方が、肩の力が抜けていい演奏ができるということなのだろうか。
力の入れ加減が難しい。というか、それが制御できたらこんな苦労しない。
暴れまわるやる気は、肝心な時に空回りする。あのときのように。
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学校祭一日目。吹奏楽部コンサート。
全十曲という長丁場。本番ではりきっているテンションで吹き続けていると、みんな息も絶え絶えだ。
ホルンが吠えまくった『アフリカン・シンフォニー』を終えて、次がプログラム上最後の曲になる。
『吹奏楽のための第二組曲』。鍵太郎のソロがある曲だ。
「……湊くん、大丈夫ですか?」
曲と曲の間の、司会進行の部分。そのわずかな時間に、同じ楽器の先輩、
それに「大丈夫です」と鍵太郎も小声で返す。
練習と本番は違う。他の部員がこの本番に来てアホみたいに吹いているので、つられて音を出してしまって最初からもうペースが狂っている。
限界は近い。まったくもって大丈夫ではない状況なのだが、ここで「ダメです」と言ってしまっては立つ瀬がない。
これは自分との戦いでもある。負けるわけにはいかないのだ。
ましてや好きな人の前で。
その大好きな先輩は、鍵太郎の返事に表情を曇らせて沈黙した。ややあって、諭すように口を開く。
「……つらかったら、ソロの前の主旋律は吹かなくてもいいですよ。そこはわたしがやりますから、湊くんは息を整える時間に使ってください」
「大丈夫ですから……!」
魅力的な妥協案を、しかし鍵太郎は振り切った。ソロの直前には低音の主旋律がある。細かく速く、音の高低差が激しくて難しい部分だ。
けれど先輩だけに負担をかけるのは嫌だった。そしてそれ以上に、あと少ししかない一緒に吹ける機会をみすみす逃すのが嫌だった。
最後まで一緒だ。その後は、自分だけの戦い。
もっともらしい理由をつけて、先輩を納得させる。
「……主旋律吹いて、そのままのスピードでソロに飛び込みたいんですよ。その前休んでたら、ソロで出遅れちゃいそうで」
「まあ、それはありますが……」
渋々、先輩は引き下がった。もう司会の口上は終わりそうだ。話している時間はない。
「……無理は、しないでくださいね」
美里は最後に、それだけを言った。
鍵太郎は苦笑した。まったく、相変わらずこの人は優しすぎる。自分以外の者を重んじ、尽くしすぎる。
だから好きになったのだが。
心配されるのは悔しい。でも気にかけてくれるのは嬉しい。
楽器を吹きすぎて朦朧としつつ覚醒した頭で、相反したことを考える。
疲れ切っているのに本番のおかげで、テンションだけは高かった。追い詰められているこの状況が楽しい。ここからどこまでできるか。どこまで無茶できるか。先輩とどこまで行けるか――
ああ、だめだ。だんだんおかしくなってきた。この状況が楽しすぎて、いっそのこと、このまま本番が終わらなければいいのにと思う。
そう、ずっとこのままで。
それが叶わないことなのは知っている。司会をやっていた顧問の先生が引っ込んで、交代で指揮者の先生が舞台上に上がってきた。
『吹奏楽のための第二組曲』。コンクールの曲並みに難しいこの曲は、あのときのリベンジでもある。
今度こそは。楽器を構え指揮棒を見つめ、鍵太郎は思った。
始まる。
最初の細かい音符は、単純なようで難しい。ましてや口と身体が限界を迎えている今の状況で、半秒程度のこの動きを、小回りの利かない自分の楽器でちゃんとできるとは思っていなかった。
そこはもう、ノリと勢い任せだ。雰囲気が出ればいい。問題はその先だ。
第一楽章。行進曲と副題にあるこれは、軍隊の行進のようながっちりした感じではない。イギリス民謡をベースにしているだけあって、素朴で明るく、散歩するような調子で進んでいく。
全員で吹くときに、この半年で楽しかったことを思い出す。初めての老人ホームの本番。みんなでかき氷を食べに行ったこと。歩んできた道を再び散歩するように振り返りながら、曲を進めていく。
ユーフォニアムの二年生、
もっとはっきり吹くように。きみのことを見てもらえるように、他とは違うきみの音を、聞いてもらえるように。
そう言った指揮者の先生は、彼女の音を聞いて、笑顔で小さくうなずいた。とても楽しそうで、嬉しそうだった。
ソロ部分が終わって、また全員での合奏に戻る。楽しかった思い出を繰り返し、散歩が終わる。
二楽章、無言歌。暗く内向きな曲調に、コンクールでのきつい出来事がよみがえる。特に、リハーサル待ちのあの時間のことを。
『私は私の愛を愛す』――この楽章の副題は、そのとき自分の前に立ちふさがった、案内係の女の子のことを連想させた。鍵太郎からすれば明らかにおかしな主張でも、それが正しいと言い切ってみせた彼女。
あの子は自分の中にある『神様』を信じていた。そのために、自分を失っていた。
そのためかどうかは知らないが、結果として彼女の学校はその先の大会には出られなかった。自分の中にあるものだけを信じて破滅したその姿は、この副題と曲調に重なる。
ここの最後の極低音は、美里が締めくくった。重い本を閉じるように曲を収める先輩に、こんな低い音よく出るよなあと、やはり尊敬の念が湧く。
三楽章、鍛冶屋の歌。打って変わって力強く、鍛冶屋が槌を振るう様を表していく。打楽器の二年生である
ギンギン鳴らしてくるその音で出来上がる作品は、いったいどんなものになるのだろうか。本音を言うとちょっと怖い。
さて、と鍵太郎は襟を正した。四楽章、ダーガソンによる幻想曲。この曲の最後の最後が、ソロだ。
最初に結構な長さの休みがある。この間に口と楽器を拭いて、コンディションを整える。最初に楽譜が配られたときは、あとどのくらい休みなのか数え間違えないように必死だった。いつも吹きっぱなしの楽器は、こういうときに指折り数えて自分の出番を待つ。
アルトサックスのメロディーが、小鹿が跳ねるように進んでいく。楽しげな雰囲気に興奮を抑えきれなくて、少し暴走気味だ。先生が指揮を強調して振って、進む方向を指してくれる。
最初に流れたメロディーは他の楽器に受け継がれて、各楽器の響きを出している。『シンフォニア・ノビリッシマ』と一緒だ。同じ旋律を執拗に繰り返しながら、なにかを表している。
その裏で対旋律として流れているのは、イギリス民謡『グリーンスリーヴス』。傍にいられるだけで幸せでした、というこの歌詞は、やはり自分と重ねてしまう。
一楽章と同じように楽しげで明るい曲なだけに、やはり少し吹きすぎる。最大に盛り上がったところからだんだんと楽器数が減少していき、それで遠ざかるように終わる、というのがこの曲の作りになっているのだが――ばたばたと人が減っていっていくのは、やはり吹いていて恐ろしい。
特に今までみなで調子よく吹いていただけに、余計に取り残されるような気がしてくる。すごく盛り上がっていたはずなのに、結局自分だけがひとりで楽しかっただけだと、静けさに告げられたような。
怖い。萎縮して音がしぼむ。だめだ、呑まれるな。智恵と一緒に言われたではないか。
はっきりしろ。人に自分の音を混ぜちゃだめだ。
頼るな。自分を出せ。望む結果はその先にある――
そのとき、隣から聞いたこともない大きな音が聞こえた。
最後の低音の旋律。美里と最後に吹く部分。
隣の楽器の先輩は鍵太郎の分までカバーしようと、二人分の音を出していた。
疲れ切って音もはっきり出せず、それでもやろうとした後輩を守るための、最後の力。
それが優しさなのか甘さなのかは、わからない。
ただそうしてくれたことが、ありがたくて、悲しくて――嬉しかった。
そして最後は、自分とフルートの先輩だけが取り残される。
関掘まやか。外見とは裏腹に強さを抱えた、フルートそのものの人。
あれから、一度も二人だけで合わせられたことはない。全員そろった合奏では吹いてくれるものの、二人だけで合わせようという申し出は断られ続けている。
彼女は去年から、ひとりで恐ろしいくらいストイックに努力し続けてきた。
だから周りに助けられてばかりの自分が気に入らないのだろう。「春日先輩に甘えきってるキミが嫌い」――そう言われた。先ほどまさに、その先輩の優しさに甘えてしまった。
けれども、だからこそ自分は今ここにいて。
美里がいなければこうなっていなかった。だから別に、それだって悪いことではないんじゃないかと思うのだ。
まやかは厳しすぎだ。ソロが多いというフルートの性質上、自分に厳しくなることはしょうがないかもしれないが――それをこちらにまで向けなくていいのではないかと思う。
この先輩には、そんなに自分を追い込まなくても大丈夫ですよと言いたい。
一緒に吹けばいい。頼ったっていいじゃないか。
だって自分は、そうしなければ歩いてこられなかった。
去年、周囲の状況がまやかを追い込んでしまったとしても、今はそうじゃない。
だから、この本番は一緒に――
そう思って吹いた音は、あっさりとまやかに拒絶された。
え、と思う。
「キミが嫌い」と言われたときのように、一瞬頭が真っ白になる。
まやかの音は相変わらず美しかった。散々吹き続けたこの状況にあっても、それは損なわれていない。
スピードが速い。置いて行かれる。質がよい。一緒に吹くのが嫌になるほどに。
それは彼女の努力の賜物で――いつもと変わらない。
変わらない。立場を変えない。主張を曲げず、こちらを否定してきた。
怖い。
彼女の前でひとりで吹かされたときの、あの覗き込まれるような眼差しを感じる。自分を守るもの全部を引きはがして、引きずり出そうとしてくるあの目が、怖かった。
今だってそうだ。こちらを見てはいないものの、そのプレッシャーだけはひしひしと伝わってくる。
萎縮する。
低い音の息が入らない。高い音が潰れて出る。まやかのきれいな音に釣り合わない。それを全員に聞かれていることが、まったくもって耐えられない。
疲れていた。それもある。緊張した。確かにそうだ。
だがそんな理由は意味をなさなくて――ただ、『失敗した』という事実だけが、衝撃となって鍵太郎の心を揺るがした。
それでもなんとか、全部の音は出した。曲に穴が開くことは最低限回避した。
しかしこんなもの、成功したうちに入らない。曲が終わって呆然としながら、鍵太郎はそこに座り込んでいた。
「湊くん、立って。立って」
隣から美里が声をかけてくる。そうだ。これはプログラム上最後の曲。終わったら立って、客席に顔を向けるのだ。他の部員から遅れて、鍵太郎はその場に立った。
拍手が起こっている。あんな演奏で、こんなことになって、拍手をされているのがいたたまれなかった。
アンコールでもう一曲あるため、またその場に座る。震える手で楽譜をめくっていると、美里が言ってくる。
「大丈夫ですよ湊くん。明日もありますから」
「明日……」
そうだ。今日は学校祭の一日目だ。チャンスはもう一度ある。
「そうです。だからそんな顔しないでください。まだ本番中ですよ。笑顔笑顔」
「……はい」
先輩はその返事を聞いて、にっこりと笑った。
彼女は失敗したことを許してくれた。そしてその上で、次があると言ってくれた。
そう、明日。明日がラストチャンスだ。
学校祭は明日もまだ続く。アンコールはサンバの『宝島』。そう、今日はまだこれが残っている。せめてこれだけやりきらなければ。
祭りで使われるサンバホイッスルの音が、体育館に鳴り響いた。まだ二日目に続く、それを伝えるように。
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