第67話 静かなるタカ派
「わたしは、キミが嫌い」
フルートの二年生、関掘まやかは、
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「フルートの女子ってのは、見た目に反して結構ストロングな子が多いと思う」
関掘まやかと同学年である高久広美は、鍵太郎にそう言ってきた。
「清楚で、お嬢様。フルートはそんなイメージのある楽器だけど――ソロは多いからトチれないし、実はチューバより息使う楽器でもある。その辺からあの強さは来るんだと思う」
「チューバより息使うんですか!?」
「そうだよ」
耳を疑って鍵太郎が訊き返したのを、広美は軽い調子で肯定した。
鍵太郎の担当楽器でもあるチューバは、かなり大きな楽器だ。使う息の量は半端ではなく、この楽器をやり始めた当初、鍵太郎は毎日酸欠に陥っていた。
それ以上の負担が、あの細い銀色の管からかかるというのか。
驚いている鍵太郎へ、広美はフルートが息を使う理由を、構造面から説明してくれる。
「空のペットボトルに息を入れて、音を出す。それと同じ原理で、フルートは音を出すんだよね。自分の息で管の中の空気柱を振動させる、『エア・リード』ってやつ。
けど、全部の息が入っているわけじゃない。フルートで使う息の三分の一は『捨て息』っていって、必要で捨ててる息なんだ。だから見た目より息を使う」
「へー……」
知らなかった。フルートが、実はそんなに大変な楽器だったなんて。
人は見かけによらないというが――フルートも見かけにはよらない。
関掘まやかと一緒だ。
優雅に見えて、中身は相当な強さを持っている。
見た目に反して彼女は、相当厳しい環境を生きているのだ。
「まやか、腹筋割れてるって話だよ。湊っち、見せてもらえば?」
「突っ込みどころが多すぎて、もはやどこから言ったらいいかわからないですねえ!?」
割れてるのも驚きであるし、見たらもっと驚くだろうし、見せてもらえたらそれ自体が驚きだが。
広美はいつもの逆セクハラおっさんモードになって、鍵太郎に言ってくる。
「うん? オンナノコの身体に興味はない?」
「ありますけど! 女の人の腹筋てどんな感触なのか、ちょっと触ってみたいなーとかは思いますけど!」
「最近いろいろ正直に言うようになってきたね、湊っち……」
誰のせいだ。誰の。抗議の視線を先輩に送ると、口笛を吹いて流された。
「ま、なんだ。まやかのその強さ――タカ派さの由来の話だったね。教えてあげようじゃないか。
あの子だって、最初からそうだったわけじゃない。初心者で入って、フルートを始めて――その頃は普通で、ちょっと舌っ足らずにしゃべる、お姫様みたいな子だったよ」
彼女が変わったのは一年前。コンクールが終わって、学校祭に向けて練習をしだした、今ごろの時期だったという。
それは鍵太郎が、この高校に入学する前の話だ。
自分の知らないところで起こったことが、今の自分に関係してくるというのは、なんだか不思議な気分でもあるのだが。
そんな思いをよそに、広美は語る。
「当時フルートには先輩が二人いてさ。あたしたちの一個上、春日先輩たちの代」
「俺の知らない、フルートの先輩がいたんですね」
「うん。男の人と女の人、一人ずつ」
現在の三年生たちの代だ。そこに、
あの代は、最初から男一人だったわけではなかったのだ。
自分の知らない先輩がいたことに、鍵太郎はまず驚いた。そしてその見知らぬ男の先輩が、フルートをやっていたことにも驚いた。
「いるんですね、男でもフルートやってる人」
「さっきも言った通り、結構負担がかかる楽器だからね。男性奏者もわりといるよ」
「でもその二人、今はいないんですよね……?」
先輩たちは、誰もそんな二人がいたなんて言わなかった。
だから鍵太郎もこうして広美から話を聞くまで、その存在を知らなかったのだ。
つまりそれは、その二人があまり歓迎されない理由でこの部を去っている、ということでもある。
そしてその予想を裏付けるように、広美は苦笑いした。
「その二人ね、両方、部活に来なくなっちゃったんだ。同時に」
「同時に……?」
鍵太郎は首をかしげた。
どこから話そうかな、と広美は言って、まず今はいないその二人の話を始める。
「この二人のうちの片方、男の先輩は中島さんって人なんだけどね。中島先輩はもう一人のフルートの女の先輩とつきあってたの」
「……読めてきました」
鍵太郎は頭を押さえた。
それは、つまり。
「うん。よくある話だよ。一年前のこの時期に、二人は別れた。で、気まずくなって部活に来なくなっちゃったんだ」
「うわー……」
確かに、傍から聞けばよくある話かもしれない。
しかしそれはやられた当のまやかにしてみれば、たまったものではなかっただろう。
――もし部員に好きな子ができても、別れて部活辞めるとかはやめろよ。
まわりにえらい迷惑がかかるんだ――。かつて鍵太郎がこの部に入った初日、聡司がそう言っていたのを思い出す。
あれは、実際にそんな事件があったからこその忠告だったのだ。
自分の代の仲間が後輩に迷惑をかけているのを目の当たりにして、聡司はなにを思っただろう。
思い返してみれば、確かに三年生の先輩たちは、まやかに気を遣っている感じはあった。
てっきり、まやかが二年生唯一のパートリーダーだからだと思っていたのだが――実際は、それだけではなかったということか。
広美が、その当時の全員の意見を述べる。
「学校祭に向けて練習してる時期に、初心者で半年しか吹いたことのない一年生が、ぽつんと一人だけ残されちゃったんだ。どうしようかと思ったね、あのときは」
「確かにそれは、きついですね……」
当時のまやかのレベルは、今の鍵太郎と大差ないぐらいだろうか。
なんの前触れもなく、同じ楽器の先輩が二人ともいなくなってしまった。
一人になってしまった。
鍵太郎にしてみれば、同じ楽器の三年生、
まやかは演奏レベル的にも精神的にも、かなり厳しいことになったはずだ。
けれど。
「まやかはすごかった。それに甘えなかった。練習して練習して、フルート一人で学校祭を乗り切った」
そこから、彼女は変わった。彼女自身の力で、逆境を乗り越えたのだ。
大した努力だと鍵太郎は思う。自分だったら、そこまでできるかわからない。
しかし、まやかの『練習』は、音楽室だけにとどまらなかった。
「まやかは、しゃべり方からして変えてきた。それまでの舌足らずな言い方から、今のきれいな滑舌に。きれいな音を出すのには、普段からきれいなしゃべり方をするといいんだって言って」
舌の筋肉を鍛えるといい、とは聞いていた。だから鍵太郎も先輩に教わったように、舌の筋肉を動かす体操をやっている。
けれど、それを日常の一挙手一投足にまで拡大しようとは思わなかった。
なんだろう。
そこまでしようとは思わない。
むしろそうまでする関掘まやかに、うすら寒い違和感を覚える。
なにが彼女をそこまでさせたのか、わからない。
「腹筋をし出したのもそれからじゃないかな。もう、改造だったね。肉体改造。精神改造。フルート吹くのに、まやかは自分を最適化しだしたんだよ。ちょっと怖かったね、あのときは」
必要なものを捨て、美しい音を出すあの楽器のように。
彼女は自分の持っていたものを捨てて、己の魂を改造するように最適化していった。
できなくても大丈夫だと周りは思ってくれているのに、それを拒絶して彼女は一人で自分を救ってしまった。
他人を頼らなかった。
頼るべきものは突然いなくなる――そんなことを、痛感させられたからなのか。
改めて、疑問に思う。
なにが彼女をそこまで駆り立てたのか。
初心者だったとしても、旋律の美しさを損ないたくはない、そんなプライドからだったのか。
あるいはもっと単純に、先輩たちに対するあてつけだったのか。
もしくは逆に、助けてほしいという悲鳴だったのか。
それとも、その全部を、ごちゃまぜにしたものだったのか――。
いずれにしても、努力の仕方が凄烈すぎだ。その裏にある感情の大きさを思うと、すごいというより、もはや得体のしれないものを見るような恐怖を感じる。
タカ派、と高久広美は関掘まやかのことを称した。
それはこんな、努力を通り越した痛烈な姿勢を、当たり前のように実行してくるところから来ているのだ。
しかもそれを周囲に見せて、無言の圧力をかけてくる。
「そう。まやかは、優みたいに人にあれこれ指導してくるような、うるさ型ではない。けど、努力しろって背中で圧力をかけてくるやっかいなタイプ」
言うなれば、静かなるタカ派だ。
口うるさく言ってくるわけではない。ただ、その姿勢でもってプレッシャーをかけてくる、そんな存在なのだ。
広美はそこまで語った後に、鍵太郎に忠告してくる。
「『第二組曲』で、フルートとチューバだけでやるところがあるよね。気をつけな湊っち。まやかは、中途半端な姿勢で一緒にやることを、よしとしないよ」
いつもシニカルな笑みを浮かべている彼女にしては珍しく、そのときの顔は真面目なものだった。
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――そうだ。だからこうして練習して、自分が納得するくらいはできるようにしてきた。
それでまやかと合わせようと思って、今日はここにやって来たのだ。
あんな境遇を聞いて、鍵太郎は、まやかに同情していた。
だからそんな彼女から、こんなにはっきり敵意を向けられるのはさすがに予想外だった。
「キミが嫌い」――そう言い放った関掘まやかは、さらに畳み掛けるように鍵太郎に言う。
「キミが嫌い。春日先輩に甘えきってるキミが嫌い。なにも考えずに与えられたものを、当たり前だって顔して貪ってるキミが嫌い。なにも変わろうとせずに周りに助けられてばかりのキミが嫌い」
「な、ん……」
反論する暇もなかった。
鍵太郎は口をぱくぱくさせて、まやかの磨き上げてきたきれいな発音での否定の言葉を、聞いていることしかできなかった。
確かに彼女にしてみれば、自分の立場は温いものに見えるのだろう。
隣に、同じ楽器の先輩がいる。
あの人は絶対にいなくなったりしない。自分を見捨てたりしない。
その優しさの限り、一緒にいてくれる。
恵まれている。
だからこそ――まやかは、ここまで激しく敵意を向けてくるのだろうか。
自分が理不尽に奪われたその立場を、当たり前のように享受している――まやかは自分のことを、そんな風に思っているのだろうか。
けれど、自分だってそんな環境を、よしと思ってきたわけではない。
守られていることを情けなく思うときもあった。
つらいことだってあったし、悔しい思いもしてきた。
うまくできなくて、歯がゆい思いをしたことは数知れない。その度に、自分なりに努力は重ねている。
それで確実にレベルは上がっている。まやかのように猛烈なものでないにしても、人の成長のペースなどそれぞれだ。
だから、そんな嫉妬まがいの意見はお門違いのはずだ。
それをわかってもらおうと、鍵太郎はまやかに言った。
「……先輩が去年、大変だったっていうのは聞きました。ものすごいがんばって、今みたいにうまくなったっていうのも」
まやかからの反応はない。
ただ黙って、鍵太郎の言葉を聞いている。それがプレッシャーになって、自分に襲い掛かってくる。
静かなるタカ派。
広美が言ったことを、鍵太郎は背中に汗をかきながら実感していた。
「……だから先輩からしてみれば、俺のやってることはまだまだ足りないかもしれません。先輩たちに守られて、のんきにやってるように見えるかもしれません。けど、俺だってがんばってます。先輩と一緒に吹く部分、練習してきました。今日は先輩と合わせて、お互いの感じを掴もうと思って――」
「わたしの昔の話は、今はどうでもいいの」
「どうでもって……」
昔の自分を思い出させるから、八つ当たりしてきたんじゃないのか。まやか自身にその前提を否定されてしまって、鍵太郎は戸惑った。
じゃあ彼女は、自分のなにがそんなに嫌なのか。
「昔の話じゃない。今の話。大事なのは、『今度の本番でいい演奏ができるか』どうかだけ。キミはがんばっているというけど、本当にそれは本番で通用するようにしている努力?」
「あの、先輩」
「わたしから見たら、とてもそうは思えない」
あなたみたいに、恐ろしいほどストイックにがんばれる人間なんて、そうそういないですよ――。
鍵太郎はそう思ったが、言うことはできなかった。それを言ったら、まやかは完全に自分との対話を閉ざしてしまう。そんな気がしたからだ。
困惑してなにも言えなくなっている鍵太郎に、まやかはさらに言う。
「『第二組曲』のあの場面は、わたしとキミだけしか吹かない。あそこは二つの楽器が同等に、曲を運んでいく部分なの。だったらキミも、わたしと同等に来て。そんな稚拙な旋律で、わたしに応対しないで。守られてるキミじゃなくて、本気の『あなた』で来なさい」
「先輩、なにを……」
「そうじゃなくちゃ、キミはわたしと同じ思いをすることになる」
かつて一人で置き去りにされた、彼女と同じ思いをすることになる。
やっぱり、昔の自分のことを気にしてるんじゃないか。怯みながらも、鍵太郎は心の中でそう思った。
一学年上の先輩は、後輩に向かって厳しい言葉を投げかける。
「早く気付いて。頼りにできる人なんて、一瞬後にはもういないんだよ――音楽と一緒」
どんなきれいな音だって、一瞬後にはもうその響きは残っていない。
かつて『お姫様みたい』と言われた関掘まやかは、守られることを捨て、戦い続けることを選んだ。
そんな彼女に、鍵太郎は言う。
「――俺だって、戦ってますよ」
美里の後についていくだけで、追いつけない。そんな自分を、何度情けなく思ったことか。
だから今回は、絶対このソロを成功させてやるのだ。そう思って、練習してきた。
そう言うと――まやかは首をかしげて、鍵太郎を見つめる。
「じゃあ、吹いてみて」
「え?」
「わたし聞いてるから、一人で吹いて」
「ちょっと……」
二人で合わせようと思って来たのに、それはないのではないか。
そう思ったが、まやかは楽器を構える様子がない。仕方なく鍵太郎は、自分のソロを一人で吹くことにした。
元々ここは鍵太郎が吹いていない部分をまやかが、まやかが吹いていない部分を鍵太郎が吹く、掛け合いで進んでいく場面だ。
それを一人で吹くと、自分の音がない時間のなんと気まずく、長く感じることか。
そんな中、まやかがじーっとこちらを見て、耳をそばだてている。
誰かに聞かれていると、大体の人間は高確率で失敗するものだ。緊張で身体が固くなる。音が震える。
鍵太郎もその例に漏れず、低い音から一気に高い音に跳躍するところでしくじった。
やってしまった、いう思いがよぎる。まやかを見れば、それみたことかと笑って――
いなかった。
先輩は嘲笑していなかった。
ただじっと、覗き込むようにしてこちらを見ていた。
怖い、と思う。
失敗したことよりも、まやかのこの視線のほうが怖かった。
彼女は口を開く。
「……なんで止めたの」
「え?」
「失敗して、なんで止めたの。これが本番だったら、どうするつもりだったの」
「どう、って」
どうもこうも、これは本番ではない。そんな言い方はないだろう。
そう思っていると、まやかは首を振った。
「キミはさ。その程度の気持ちでしか、練習してないんでしょ」
「なぁ……っ!?」
そんな風に言われて、さすがの鍵太郎も抗議の声をあげた。
美里に任されたソロである以上、成功させたいという気持ちは本物だ。それをこんな風に言われるのは、彼女への思いを侮辱されたようなものだ。
黙っていられるはずがない。
そんな後輩を見つめ、まやかはつぶやく。
「もう一回。今度はちゃんとやって」
「わかりましたよ」
やればいいんだろう。やれば。そう思って鍵太郎は、もう一度同じところを吹き始めた。
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部活の時間じゅうそれを繰り返して――しかし結局鍵太郎は、まやかから及第点をもらうことはできなかった。
ああしろこうしろと指示はもらった。完全に納得できたわけではないが、そこはありがたく参考にさせてもらうとする。
しかし、なにが足りないのか。どこがおかしいのか。
肝心なそこだけは、まやかは教えてくれなかった。
「なんなんだよ、ほんとに……」
静かなるタカ派。
「キミが嫌い」と言った彼女のその厳しすぎる姿勢は――今の鍵太郎にはまだ、理解できなかった。
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