第65話 タンギングが上手くできる人は

「全員の音が混ざり合ったときって、すごく気持ちいいよね!」


 湊鍵太郎みなとけんたろうにそう言ったのは、二年生の先輩、今泉智恵いまいずみともえだ。

 少しぽっちゃりめで、よく表情の動くかわいい人。鍵太郎にとって、智恵はそんな先輩だ。

 彼女の担当楽器は、ユーフォニアム。

 鍵太郎の担当のチューバと祖先を同じくする、いわば親戚同士の楽器である。大きさは違えど形状は似ていて、ユーフォチューバパートと一括りにされることも多い。

 智恵は今度から、そのユーフォチューバパートの、リーダーとなる。これまで以上にがんばろうと思ったのだろう。積極的に鍵太郎にも声をかけてくれるようになった。

 練習の合間に出た先輩の言葉に、鍵太郎はうなずく。


「そうですね。あれはいいと思います」


 鍵太郎自身、一度だけ我を忘れるほどの没入感を味わったことがある。

 全員と感覚を共有しているのではないかというくらい、そのときは気持ちよかった。

 そこまでではないにしろ、他の楽器と音が揃って響いたときはやはり、気持ちいいと感じるものだ。

 同意を得られて、智恵ははしゃぐ。


「ねー! だから今度のソロも、そんな感じにやろうと思うんだ!」


 今度の学校祭で、吹奏楽部はコンサートを行う。

 そしてそこで演奏する『吹奏楽のための第二組曲』には、智恵の、ユーフォニアムのソロがある。

 みんなと混ざり合ったサウンドを響かせる――それはとても、いいことのように思えた。

 同曲には鍵太郎もソロがある。先輩を見習って、俺もそんな感じで吹こう、と鍵太郎は思っていた。



###



「ああ、それね、嘘だよ」

『は?』


 智恵と鍵太郎の思惑を真っ向から否定したのは、よりにもよって指揮者の城山匠しろやまたくみだった。

 城山は川連第二高校吹奏楽部の外部講師で、本人も演奏活動を行うプロの音楽家だ。

 そんな人物にあっさりとそう言われ、智恵と鍵太郎は揃ってポカーンと口を開ける。


「もっともらしく聞こえるんだけど、『混じりあった』っていうのは違うんだ。よく『ブレンドした音』って言うから、誤解されがちなんだけど」


 教え子たちの呆然とした顔をうけて、城山は説明を始める。


「正確には、『重なり合わせる』って言ったほうがいいのかな。ひとつひとつの楽器の音をはっきり出しながら、色を重ねるように組み合わせていくんだ。そのときに音の束をひとつにまとめないといけないから、『ブレンドする』って言い方になることが多いんだよね」

「ええっと……?」


 首を傾げる鍵太郎に、城山は「例えば……」と言った。


「『重なり合わせる』は、七色の絵の具を使って、虹を書く行為だと思ってほしい。『混じりあった音』っていうのは、七色の絵の具を全部混ぜちゃって、真っ黒にしちゃうことなんだよ」


 だから、どの楽器の音もそれぞれが目立つように、はっきりと聞こえないとだめなんだよ。先生は二人にそう言った。

 城山の言葉を噛み砕いて、確認のために鍵太郎は別の例えを出す。


「つまり……ショートケーキみたいなもんですか。イチゴはイチゴ、クリームはクリーム、スポンジはスポンジで、個別の良さを出しつつ、見た目はケーキで口の中でひとつになればいい、という……」

「うん。そうだね。湊くんらしい解釈ありがとう。そんな感じだ。きみたちだってケーキを頼んで、出てきたのがケーキをミキサーでぐちゃぐちゃにしちゃったものだったら嫌だろう?」

「た、確かに……」

「だから、混ぜる、っていうのはちょっと違うかな。特にユーフォなんて他の音に埋没してしまったら害にしかならないものだから、もっと音を立てて吹いたほうがいい」

「え、ええ……?」


 自分の楽器に矛先が向いて、智恵はうろたえた。


「第二組曲一楽章のソロは、きみが主役だ。他に混じってしまったら、どこを聞くべきなのか、お客さんもわからなくて首を傾げてしまうよ」

「えーと、はあ……」


 今までとは方針が百八十度変わってしまった。まだ智恵は思考が切り替えられていないらしい。

 そんな彼女をまっすぐ見つめて、城山は言う。


「あそこの場面で一番聞こえてほしいのは、きみの音なんだ。他のどの楽器にも代えられない、きみの音なんだよ」



###



「……湊くん、わたし、嘘教えてたね。ごめんね……」

「いや、俺も誤解してたんで……今わかってよかったです」


 城山に指導されて、智恵が落ち込んでいた。

 先輩として正しいことを言ったつもりが、実はまるで間違っていたことを教えていたのだ。ショックなのも無理はない。

 鍵太郎としても衝撃の発言だった。まさか、あの感覚の正体がこういうことだったとは。

 あの時は完全に呑まれていたので、全容がわかっていなかった。

 確かに言われてみれば、あのときは他の楽器の音がとてもよく聞こえていた気がする。自分の音も相当イケイケだったかもしれない。

 『混ざった』ではなく『重なり合った』ことでのあの一体感か。

 だからこそ、パーツとなる音は明確に出しなさい、ということのようだ。

 うーむ、と今までの自分の音を振り返る。お世辞にも、はっきり吹けていたとは言いがたい。

 あれから一回もあの感覚が来なかったのは、そういうことなのだろうか?

 ともかく、間違いが分かったのはいいことだ。鍵太郎は方針を転換して、ソロをはっきり吹くことに決めた。


「でもなあ。どうすればいいんだろ?」


 はっきり吹けというのは、コンクールの練習のときにも散々言われたことだ。

 しかしそもそも低音楽器自体が、こもって聞こえるという特性を持っている。今までは、気合いでなんとなくそれを補ってきたが――今回ソロをやるにあたっては、それだけでは足りない気がする。

 鍵太郎が困っていると、ようやく立ち直ってきたのか智恵がイスから腰を上げて、拳を握り締めた。


「うん。春日先輩に訊いてみよう」

「そうしましょう」


 鍵太郎も即答した。

 引退が間近に迫ってもまだまだ三年生に頼らざるを得ない、後輩二人である。



###



「それはたぶん、タンギングがもっとできるようになればいいんですよ」


 二人が訊くと、先輩の春日美里かすがみさとはそう答えた。

 タンギング。聞いたことあるなと鍵太郎は記憶を探った。

 そうだ。タンギングとは、舌を使って楽器に入れる息を制御する奏法のことだ。


「舌の先を上の前歯の裏に当てて、『トォー』と発音するように下に下ろしてください。力は入れないで、自然に」


 そういえば、そんなことを言われた記憶もある。

 とにかく息を楽器に入れることを最優先にしていたため、こちらはかなりおろそかになっていた。今さらだが大会前に気づいておくべきだった、と己の失態を悔やむ。

 なぜ大会前に、美里にこれを訊かなかったのだろう。

 もしかしたら、これができていれば金賞を取れていたのかもしれないのに。

 やっているときは気づかないのに、後になってみて「ああ、こうすればよかったんだ」と思うことはある。

 これがまさに、そんなことだ。鍵太郎は複雑な気持ちで、教わったようにタンギングをやってみた。

 舌の先を上の前歯の下に当てて。

 ゆっくり下ろす。


「……ひふぁいほ、ふふはひいふぇす」


 意外と、難しいです。言葉になっていなかったが、表情で鍵太郎の言いたいことを察したらしい。美里がうなずいた。


「それは何回もやって、慣れてもらうほうがいいかと思います。訓練ですね」

「むー」


 隣で智恵も、同じことをしていた。目をつぶって眉を寄せ、口をむぐむぐさせている様は、なにか酸っぱいものでも食べているようである。


「……舌って意識して動かそうとすると、ぎこちなくなるもんなんですね」


 神経があまり通っていない感じで、うまく動かない。

 美里の言うとおり、何回も練習して身につけていくものなのだろう。


「舌の筋肉をつける体操とかもありますよー。アナウンサーさんとかが、滑舌をよくするためにやったりするみたいです」

「へー」

「二重あごとかにもいいらしいです。顔やせ効果があるとか」

「ほんとですか!?」


 ぽっちゃりさんが食いついた。そんなに気にすることないのになあ、と鍵太郎は思う。女性は自分の体型のことを気にしすぎだ。

 智恵が美里に教わりながら、舌を動かしていた。どうも下唇と下の歯茎の間に、舌を入れて動かすというものらしい。顔の膨れた部分が左右に動いている。

 うん……それはちょっと、人のいないところでやったほうがいいんじゃないですかね、先輩……。

 変顔体操をしている智恵を見ながら、鍵太郎はそう思った。自分は帰って、家でやってみよう。そう思う。

 慣れてないとそれなりにつらいらしい。智恵は変顔体操を止めて、はーと息を吐いた。


「これを続ければ、楽器も上手くなって顔やせもできるんですね。先輩、わたし、がんばります!」

「はい。がんばってください」


 俄然やる気になった後輩を温かく見守りながら、美里が言った。

 この体操を知っているということは、美里もかつてはこれで舌の筋肉を鍛えたのだろう。

 腹筋背筋に始まり、顔の筋肉、今度は舌の筋肉ときた。体育会系文化部と言われもするはずだ。

 まあ顔やせはともかく、これで楽器が上手くなるというのなら今夜からでもやってみよう。そう思っていると、美里が衝撃の一言を放ってきた。



「タンギングが上手な人はキスをするのも上手いと、こないだ読んだ本に書いてありましたよ。がんばってください」



 ぶハッ。

 鍵太郎は、思わず噴き出した。

 それを特に気に留めることもなく、「えー、ほんとですかー?」と智恵が言う。


「それってきっと、『サクランボの茎を舌で結べる人はキスが上手い』ばりの都市伝説だと思うんですけど」

「さあ。キスをしたことないのでわかりませんね」


 あの、そこでガールズトークを始めるのは、勘弁していただけないでしょうか……?

 口元を押さえて、鍵太郎は思った。こちとら普通の健全な男子高校生だ。密かに思いを寄せている先輩からそんな刺激的なことを言われたら、したくなくても色々なことを考えてしまう。

 先輩、楽器吹くの上手いしなあ。きっと上手いんだろうなあ……。

 ほけーっと、口に出しては決して言えないことをあれこれと考えていると、美里がこちらを向いた。

 いつものようにのんびり笑って、鍵太郎に言う。


「湊くんもやってみてくださいね、きっとソロも上手くできるようになりますから」

「はいッ! 全力で取り組ませていただきます!!」


 腹の底から声が出た。

 こ、これはあくまで、純粋に楽器を上手く吹けるようになりたいという思いから出た返事なんだからね!

 決して疚しい気持ちがあるわけじゃ、ないんだからね!

 そんな都市伝説、信じてなんか……いないんだからね!

 と、そんな風になにかに向かって、もっともらしく言ってみる。

 この部活に入ってから間接キスは腐るほどしてきたものの、ほんものは鍵太郎だって経験がない。

 だからそんな都市伝説、合ってるか間違ってるかなんて分からないだろう――とは思いつつ。


「はっはっは。がんばりますよ俺。いやあ、きっと楽器上手く吹けるようになるだろうなあ。うん」

「そうですね。がんばってくださいねー」


 鍵太郎も俄然やる気になったのを見て、美里はいつものように微笑ましげに笑った。

 いつか上手くできるそのときまで――鍵太郎のトレーニングは続く。

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