第64話 やる気スイッチ

 学校祭で演奏する曲の、楽譜が配られた。

 吹奏楽部は今度は、学校祭に向けての練習を始めるのだが――


「曲、多っ!?」


 配られた楽譜の多さに、改めて湊鍵太郎みなとけんたろうは驚いた。初心者で入部した自分は、ここまで多くの曲を一度に演奏したことはない。

 老人ホームのときは四曲、コンクールでは一曲だけ。

 しかし今回の学校祭では、それ以上の十曲をやることになっている。

 学校祭は十月下旬。今は盆明け、八月の下旬だ。

 二ヶ月ちょいの時間があるとはいえ、曲数で割っていくと一曲あたりそれほど時間が取れるわけでもない。

 うわー、がんばらないとなあと思いながら、鍵太郎は全部の譜面をざっと見た。

 鍵太郎の担当するチューバは低音楽器だ。

 なので楽譜に書かれているのはもちろんベースの部分で、主に四分音符と八分音符が散りばめられている。

 学校祭ということで、ポップス系の曲もある。弦楽器であるエレキベースのような譜面を管楽器で吹くのはどうなのだろうと思うのだが、まあそう書いてあるんだからしょうがない。

 息継ぎだけはさせてもらえれば、特に不満はない。メロディーがなくたって、低音はあるだけで存在価値があるのだ。

 そう思っていると――


「……ん?」


 『吹奏楽のための第二組曲』という曲のある部分に目が止まって、鍵太郎は声をあげた。

 最後の最後の部分に、『1 Tuba』と書いてある。

 これはチューバ担当の人間が何人かいる場合は、一本で吹けという指示だ。

 曲は聞いていたが、やはりソロだったかとうなずく。ここは同じ楽器の三年生、春日美里かすがみさとに任せるべきだろう。

 学校祭は三年生の引退前の、最後の花道だ。

 そう考えていたら、鍵太郎の隣で同じように楽譜を見ていた美里が、衝撃の一言を放ってきた。



「湊くん。この最後のソロ、お願いします」



「……はあ!?」


 鍵太郎は一瞬止まって、驚いて美里を見た。

 彼女はこういうときに、冗談を言うような先輩ではない。

 そして美里のその顔はいたって真面目で、「吹きたくないから後輩に押しつけちゃえ」みたいな意図がないのは明白だ。

 というか、この優しい彼女に限って、そんなことはありえない。

 あんぐりと口をあけて固まっている鍵太郎へと、ぐっと拳を握って真剣に美里は言う。


「大丈夫。ちゃんと教えますよ!」

「いや、そういう問題ですか!?」

「そういう問題ですよー」


 どういう問題なのか。美里は楽譜の、もっと前の部分を指差した。


「二楽章にも一本のところ、あるでしょう? そこはわたしがやりますから。湊くんは最後の方をお願いします」

「確かに、全部先輩に任せるのもどうかとは思いますけど……」

「交換します? でも二楽章のこの低い音も、これはこれで難しいと思いますよ」

「う……」


 鍵太郎はもう一度楽譜を見た。二楽章の音符は五線譜を下に突き抜けて、それでもまだ足りないとばかりに、下へ下へと潜っている。

 こんなに低い音、出したことがない。

 そう考えれば確かに、最後のソロの方が音域も普通でやりやすいのかもしれない。

 教えてくれるって言ってるしなあ。だったら、こっちの方がいいのかなあ。

 納得いかないものを感じつつも、「……わかりました」と鍵太郎はうなずいた。

 すると美里は嬉しそうに、手を合わせる。


「よかったです! がんばりましょう!」

「は、はい……」


 その笑顔の輝きに負けた。惚れた弱みとはこのことだと思う。



###



「……怖え。ソロこええ」

「ふん。思い知ったか、私たちメロディー楽器の気持ちを」


 鍵太郎の前でふんぞり返ったのは、鍵太郎と同じ一年生の、千渡光莉せんどひかりだ。

 彼女の担当はトランペット。嫌でも目立つ、吹奏楽の花形である。

 以前にソロで失敗して以来、それがトラウマになっている光莉だ。彼女を奮い立たせるために色々やってきた鍵太郎だったが、自分が同じ立場になって思う。

 ソロ、怖えー。

 今まではメロディーがあっても、低音楽器全体で吹いていた。その中で失敗しても、誰かがフォローしてくれた。

 ただ、ソロは文字通り一人なのだ。

 間違っても誰にも頼れない。なにを基準に吹いていいかもわからない。

 底の見えない谷を、一本の細いロープだけで渡るような気分だった。不安がつきまとう。

 決して下を見てはいけない。足がすくんで動けなくなる。

 じゃあなにを見ればいいかというと――さて、なんだろう。


「知らないわよ」


 不機嫌な調子で光莉は言う。


「人によるんじゃない? 気にしない人もいるだろうし。ていうか、それ私に聞く?」

「……ごめん」


 鍵太郎は素直に謝った。光莉は未だにそのトラウマを克服できていないのだ。

 それが分かれば苦労しない――といった調子で、光莉がため息をつく。


「あのさー」


 するとそこで、それまで二人のやり取りを聞いていた、同い年の浅沼涼子が会話に入ってきた。

 彼女は不思議そうに首をかしげて、言う。


「要は、成功すればいいんでしょ? 失敗したらどうしようとか、難しく考える必要あるのかなあ」

「おまえみたいなタイプは、そう考えられるんだろうけどな……」


 好奇心のままに思った方向へ突っ走るアホの子、浅沼涼子らしい発言だった。

 自分はそこまで単純ではない。彼女とは違うのだ。


「普通の人は、ちょっと考えたりするんだよ。オリンピックの選手だって考えるだろ」

「んー? うまく吹ければかっこいいじゃん。それでいいんじゃないの?」

「おまえのその強靭なメンタルは本当、どっから湧いてくるんだ……」

「おっ、褒められた!」

「褒めてねえよ」


 いつものやり取りをする。まったくこいつはしょうがねえなあ、と苦笑するところまでがセットだ。

 しかしそんなやり取りをしたおかげで、少し肩の力は抜けた気はする。既にすくみ気味だった気持ちが、少しだけ軽くなった。

 ソロをやることはもう確定だ。だったらやらなければならない以上、下ばかり見ていても仕方ない。

 そうだ。うまくいくためにどうすればいいか、それを考えよう。


「例えば、成功したらどうなるかをシミュレートする」


 その方が前向きに努力できるというものだ。

 今回の、このソロ。できたらかっこいい。

 美里に褒めてもらえる。

 いや、ひょっとしたら――今みたいな子ども扱いじゃなくて、もうちょっとちゃんと、一人前として、見てもらえるかも――?

 さらにやる気を加速するために、頭の中でドリーミンな妄想をしてみる。



『湊くん、こんなにできるようになってたなんて……わたしは嬉しいです!』

『先輩のおかげです。……先輩、聞いてください。実は俺――先輩につりあうような男になるために、今までがんばってきたんです……!』

『……えっ、まさか。今までの努力は、全部わたしのために……?』

『そうです! どうでしたか先輩。俺は、先輩が認められる男になれたでしょうか……!?』

『今さらなことを訊かないでください。湊くん、すごくカッコよかったですよ……どうしてでしょう、すごく、胸がドキドキします……』

『先輩……俺もです』

『だ、だめです、湊くんはわたしより年下……そんな気持ちなんて、持っちゃいけないんです! でも……』

『愛があれば歳の差なんて気になりません! 野球選手でも姉さん女房の人はいっぱいいます!』

『湊くん……そんなに、わたしのこと……』

『……大好きですよ、先輩。ずっと一緒にいてください』

『……! 湊くん……! 嬉しい! こんな幸せな気持ち、初めてです……!』

『先輩、泣かないでください。俺なんかで良かったら、傍にいますから――』



「なんちゃってね! なんちゃってね! あはははははは!! テンション上がるー!」

「なんかあんた、気持ち悪いわよ!?」


 急に笑い出した自分を見て、光莉がドン引きしていた。

 鍵太郎は涼子に感謝の意を込めて、彼女の手をがっしり握ってぶんぶん上下に振る。


「浅沼、おまえの言うとおりだ! 吹ければかっこいい! そうだな!」

「おっ、なんかよくわかんないけど、湊がやる気になってくれてあたしは嬉しい!」

「アホの子が二人に増えただけのような気がするんだけど!?」


 光莉にそう突っ込まれつつも、鍵太郎は立ち止まる気にはならなかった。なにやらぎゃあぎゃあ言われているが、今の自分には気にならない。

 やる気スイッチ俺のはどこにあるんだろう――なんて、歌うまでもない。そんなもの最初から決まっている。

 春日美里だ。

 結局いつだって、自分は先輩に認められたくて、楽器を吹いてきた。

 今回のソロは、逆に考えればチャンスだ。

 コンクールでやった『愛の証明』よりよっぽどストレートに、自分の音だけで、実力を示すことができるのだから。


「よーし、がんばるぞ!!」

「なんなの!? いきなりなんなの!?」

「湊のやる気スイッチがオンになったみたい」


 スイッチなんて案外単純だった。これしきの意識の切り替えで、振り切れそうなほどやる気が出る。

 このくらいの勢いで一直線に突っ走ろう。そうすれば細い足場も谷底も気にせず、向こう岸にたどり着けるはずだ。

 やってやる、と鍵太郎は鼻息荒く、断崖絶壁を駆け抜ける準備を始めた。

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