第6幕 祭りの果てに

第62話 最後の課題

 楽器から謎のヘドロが出てきて、湊鍵太郎みなとけんたろうは悲鳴をあげた。



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 吹奏楽コンクールが終了し、吹奏楽部は学校祭に向けて再スタートを切る。

 だがその前に、楽器を掃除しておこうということになった。

 なので鍵太郎が管の中にガーゼを突っ込んだところ――緑色の謎のヘドロが出てきたのである。


「学校の古い楽器って、ヤバいですよねー」


 それに鍵太郎と同じ楽器の先輩、春日美里かすがみさとが同じく楽器を掃除しながら言う。


「古いオイルに空気中のホコリ、緑青ろくしょうと決して口にしてはいけないなにかが混ざって、楽器が禁断の物体を練成するんですよねー」

「俺、こんなのが入ってるものに口つけて吹いてたんだ……」


 これからはもっと、汚さないように気をつけて吹こう。そう思いながら鍵太郎は掃除を続ける。

 金管楽器は機械のようなものだ。中の詰まりを取り錆びないように油を注して、管の抜き差しがスムーズになるようにグリスを塗る。

 チューニング管が今までより柔らかく動く。

 バルブも心なしか反応がよくなったように感じる。

 試しに息を吹き込んでみれば――今までどこか曲がっていた流れが、すっとストレートに抜けていくのがわかった。

 疲れて眠った身体が、目を覚ましたような。

 身体の隅々まで、血が巡るような。

 打てば響くようなはっきりとした反応に、思わず笑みがこぼれる。これまで以上にこの楽器は、自分の意思をクリアに反映してくれるだろう。

 つらかったコンクールも終わり、楽器も掃除して気持ちを切り替え学校祭に臨むことができる。鍵太郎は美里に、学校祭のことについて訊いてみた。


「十月末なんでしたっけ。学校祭」


 川連第二高校の学校祭は、秋も深まる十月の末に行われる。吹奏楽部はそこで、体育館でのコンサートを行う予定だ。

 今は八月の上旬。あと三ヶ月は美里と一緒にいられるとわかって、鍵太郎はとりあえず一安心していた。

 美里は鍵太郎のそんな考えを知らずに、「そうですよー」とのんびりうなずく。


「ハロウィンの時期ですね。本来ならば他の部活の子は受験勉強でとっくに引退している時期なんですが。吹奏楽部だけは、ある条件を満たせば三年生も出られることになっています」

「ある条件?」


 鍵太郎は首をかしげた。確かに、十月末まで部活をやるというのは、進学校としては少々行きすぎだ。

 つまり、その条件というのは――


「夏休み明けにやる模試で、学年二十番以内を取ること。これが三年生が学校祭に出る条件です」

「二十番……!?」


 一学年百五十人程度のこの学校で、それはかなり厳しいのではないか。

 絶句する鍵太郎を前に、しかし先輩はいつものようにのほほんと笑う。


「わたしはたぶん、このまま行けば大丈夫ですので。心配しなくても大丈夫ですよー」

「ていうか先輩、いつ勉強してるんですか……」


 コンクールの前は、美里は朝から晩まで楽器を吹いていた。他の三年生にしてもそうだ。

 いったいいつ勉強しているのか、不思議なくらいである。


「だから、前に言ったでしょう? ちゃんと勉強してるといいことがあるって」

「あれは、そういう意味だったんですか」


 わたしにとってとても嬉しいことで、湊くんにとっても、きっといいこと。

 コンクール前に美里が言っていたのは、こういう意味だったのだ。

 こちらとしてはもっと違うことを想像していたのだが……まあ、いいか、と鍵太郎は納得する。

 真面目に考えれば、きっとどころかかなりいい話なのだから。

 そう言っていた美里は、もう一度後輩に言い含める。


「だから、今のうちからちゃんと勉強はしておいてください。三年生でいきなり、というのはかなり厳しいと思います」

「ですねえ」


 鍵太郎はうなずいた。なるべく長く楽器を吹いていたいという気持ちは、自分だってわかるからだ。

 しかし学年二十番以内という高い目標に、むぅとうなる。

 吹奏楽部の三年生は九人。その全員が上位に入るとは限らないだろう。

 ホルンの三年生、海道由貴かいどうゆきあたりなら相当いいところまでいっていそうだが――何人かは、もしかしたら出られないかもしれない。

 そんな心配をしていると、美里は言った。


「うちの学年はたぶん全員、二十番以内に入りますから。気にしないでください」

「どうすればそれができるのか、逆に気になりますわ!?」


 あっさりととんでもないことを言う美里に、鍵太郎は思わず突っ込んだ。

 素直に驚いた。吹奏楽部の三年生全員が、成績上位者だったとは。

 本当にいつ勉強しているのかわからない先輩たちだった。演奏技術も成績も、全員スペックが高すぎて意味がわからない。


「楽器を吹いてるから、集中力が増すんじゃないですかねえ」

「また、よくわからない楽器万能論ですね……」


 確かに強制的に酸素を大量に吸うのは、脳の活動によさそうではあるが。

 いくらなんでも、万能薬すぎるのではないかと思う。


「東関東大会は九月の下旬ですし、全国大会だって十月の下旬です。やってやれないことはないのですよ。楽器を吹いてたって」


 むしろ、楽器を吹いているからこそ。そうなのではないかと美里は言った。

 自分もそんなことができるのだろうか。想像してみてもサッパリだが、鍵太郎は「まあ、がんばります」と言っておいた。

 美里は、あらかた楽器の掃除を終えたようだ。表面を丁寧に拭いて、一息つく。

 指紋だらけだった楽器がきれいになって、気分がいいらしい。いつも以上に嬉しそうな顔の美里をぼーっと見ていたら、彼女がこちらを向いた。少し驚く。


「そういえば湊くん。学校祭でやりたい曲ありますか?」

「……ていうか、まだ決まってなかったんですね」


 考えてみれば、きのうまでコンクールでいっぱいいっぱいだったのだ。そこまで気を回す余裕はなかっただろう。

 それにやりたい曲、と考えても、とっさには出てこない。普段あれやこれやと思っていても、いざ訊かれると出てこないものだ。

 さらに楽器を始めて半年も経っていない鍵太郎は、知っている曲自体が少ないのもある。

 なにか。なにか。腕組みをしてうなっている後輩へと、美里は言う。


「ポップスとかでもいいんですよ。紅蓮の弓矢とか千本桜とかでもいいんです」

「吹奏楽用の楽譜、あるんですか……?」

「買えばあります」


 パネェ。クールジャパンパネェ。

 鍵太郎が日本人のパッションに驚愕していると、美里は言ってくる。


「学校祭では十曲くらいやる予定です。実際に採用するかどうかはわかりませんが、やりたい曲を出してもらえれば、意外とみんな乗ってくる可能性はありますよ」

「先輩はなにか、やりたい曲あるんですか?」


 自分がやりたいものもそうだが、学校祭は三年生の最後の舞台でもある。

 美里がやりたいものがあれば、自分もやってみたい。そう思って鍵太郎は訊いてみた。

 先輩は、笑顔でうなずく。


「はい! やりたい曲はありますよ!」


 やっぱりか。そりゃあそうだよなと思って鍵太郎が曲名を訊くと、美里はにこにこしながら言ってきた。


「『吹奏楽のための第二組曲』です」

「……真面目系の曲ですね?」


 中身は知らないが、題名から察するにちゃんとした曲だろう。

 まあいいか、と軽い気持ちで鍵太郎は同意する。


「先輩がやりたいなら、俺もやりますよ」

「ほんとですか?」


 美里が嬉しそうに表情を明るくするのを見て、鍵太郎はうなずいた。


「俺たち低音楽器は、正直どんな曲が来てもあんまり変わりませんし」

「まあ、基本的にはずっとベースですからね……」


 低音楽器の宿命だった。トランペットやフルートなどのメロディー楽器たちが、あれやりたいこれやりたいと言うのに付き合わされるのも、もう特に苦とは思わない。

 「まあいいか」と流せる気の長さが、楽器によって鍵太郎の中に醸造されつつあった。

 苦笑していた美里が、鍵太郎に言う。


「でも、この曲はちょっと違うんですよ」


 おや。と鍵太郎は思った。

 と、いうことはつまり――


「『シンフォニア・ノビリッシマ』みたいに低音楽器の旋律があるんですか?」

「ありますよ」

「へー」


 そうなのか。それはそれで、先輩と練習できていいかもしれない。

 最後だから、先輩もやっぱり自分たちが主役の曲をやりたいのかな。鍵太郎は楽しそうな美里を見て、そう思った。



###



「……『二組』か」


 美里の提案に、吹奏楽部顧問の本町瑞枝ほんまちみずえはつぶやいた。


「リード? ホルスト?」

「ホルストさんのほうです」


 違う作曲家で同じような曲があったので、確認のために本町が問う。あれか、と本町の脳裏に曲が流れ始めた。


「……ちょっと難しくないか。コンクールでやった『シンフォニア・ノビリッシマ』ばりに難しい曲だと思うんだが」

「最後くらいは、わがままを言わせてください」


 あの美里が押してきた。珍しいそれに、本町も驚く。

 確かに、三年生にとっては本当の本当に、学校祭が最後のステージだ。なるべく希望の曲はやらせてやりたいという気持ちはある。

 まあ、やってできないことはない面子だ。そう思って本町はうなずいた。


「まあ、そこまで言うなら構わないが……」

「ありがとうございます。曲決めの会議に上げさせてもらいます」

「ああ……」


 本町の頭に流れている曲が、移り変わっていく。

 そして、最終楽章の――最後の部分に到達したときに、本町は目を見開いた。


「おい、春日」

「なんですか?」


 のほほんと問い返してくる美里へと、本町は質問する。


「『吹奏楽のための第二組曲』の最後の最後。おまえ、知ってるよな?」

「はい。ソロですね」

「……どっちがやるんだ」


 引きつった笑みで問う顧問に、部長は答える。



「湊くんで。『吹奏楽のための第二組曲』――ラスト。フルートとチューバの一本ずつだけで吹く部分」



「マジかよ……」


 おまえがやりたいから推してきたんじゃないのかよ。そう言うと、美里はゆるゆると首を振った。


「確かに、好きな曲ではあるのでわたしもやりたいんですが」

「だったら」

「今はそれ以上に、湊くんを教えておきたくて――わたしがいなくなっても、大丈夫なように」

「まあ確かに、あいつはこれから一人でやってくことになるわけだが」


 本町は後頭部をバリバリとかいた。顧問としてその気遣いはありがたいのだが、有終の美を飾る舞台をみすみす後輩に譲るというのも、もったいないと思うのだ。

 普通だったら、ソロは三年生に任せるべきだろう。ただ美里は受験生だし、彼女の言いたいこともわかる。

 本町が口ごもっていると、美里は自分の考えを穏やかに主張してきた。


「今だったらわたしがいる。湊くんには教えてあげることができます。わたしがいなくなった後にソロの楽譜がもし来ても、最低限のことだけ教えていればきっと大丈夫です。――本番で成功しても、失敗しても、それはそれだけ、彼の経験になります」

「う、ううん……」

「いつまでもわたしが前に出てたら、だめなんだろうと思います」


 引退を視野に入れた先輩は、自分がいなくなった後のことまで考えて、後輩にひとつの課題を出すことにしたのだ。

 彼女自身がそこまで言うのなら、まあ、いいだろう――本町は悩みつつも、美里に向かってひとつ、うなずく。


「……ああ。わかった。この曲をやるのが決まったら、おまえは湊のことをよろしく頼む」

「はい」


 美里はうなずいた。その表情は、コンクールの表彰式で見せたあの微笑みと、同じものだった。

 ありがとう。

 さようなら。

 どこか遠くを見るまなざしで、美里はつぶやく。


「これが――わたしからあの子への、最後の課題です」

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