第61話 結果がすべて

 吹奏楽部の夏の大会、吹奏楽コンクール。

 楽器を始めて半年足らずの湊鍵太郎みなとけんたろうにとって、今日は初めての大会だった。


「……県予選会は、ほとんど記憶がないもんなあ」


 本選の前の予選会は、緊張とトラブルで本番どうしたのか覚えていない。今回の演奏が、鍵太郎が意識して演奏した、最初の本番だったといえる。

 結果発表と閉会式を前にして、鍵太郎たち川連第二高校の吹奏楽部は、大ホールの客席にいた。

 既に、部長の春日美里かすがみさとと副部長の滝田聡司たきたさとしは舞台に向かっている。

 部内の代表者二名は緞帳の向こうで、他校の代表者とともに表彰式の用意をしているはずだ。


「金賞、取れるかなあ!?」


 部員の誰かがそう言った。鍵太郎には、どうなるかわからない。

 三年生にとって、この大会は最後の大舞台になる可能性がある。

 金賞県代表になれば、次の東関東大会に向けて部活は続く。

 銀賞、銅賞ならここで挑戦終了。

 甲子園のトーナメント並みの一発勝負だ。負ければそこで終わりなのだ。

 終わり――その言葉が重くのしかかる。美里の隣にいられるのは、これが最後になるかもしれないという思いが、鍵太郎の気分をひどく重いものにしていた。

 本番の演奏はできなかったとも言えるし、あの緊張感の中ではよくやったという言い方もできる。

 要するに、どう転ぶかまったくわからないのだ。美里は「やれることはやった」と言っていたが、結果が伴わなくては今までの努力は水の泡だ。

 アナウンスが入り、閉会式が始まる。

 緞帳が上がり、今回演奏した高校の代表者たちが姿を現した。

 その中に、美里の姿がある。

 コンクールを主催する、吹奏楽連盟の役員の偉い人が挨拶を始める。しかし鍵太郎には客席の学生のほぼ全員が、それを聞いていないことがわかった。

 みな、自分の学校の結果を今か今かと待っているのだ。

「では、結果発表に移ります」という司会者の言葉に、もう悲鳴のような歓声が起こっている。どこの学校も同じだ。それぞれ思いを抱えてこの舞台に立っている。

 演奏順に、代表者たちが表彰台へと移動していく。川連第二高校の順番は七番。それまでに金賞のあのトロフィーがなくなってしまったら、そこでもう銀賞銅賞が確定する。

 最初に演奏した高校が、表彰台の目の前に立つ。

 「ゴールド、金賞」という発表が聞こえた瞬間に、大ホールに甲高い悲鳴のような歓声が爆発した。


「え!? なんだ?」


 いきなりの大音量に驚いて耳を塞いだ鍵太郎が見れば、そこでは今表彰されている高校の生徒たちが、立ち上がって抱き合ったり歓声をあげたりしていた。


「なんだ、あれ……」


 人の目も構わずそうしている彼女たちを見て、思わずつぶやく。あの子たち、あんなになるほど練習してきたというのか。


「表彰式ではよくあることよ」


 鍵太郎の隣で冷静にそう言ったのは、同じ一年生の千渡光莉せんどひかりだ。

 彼女は中学からコンクールに出ているため、こういった光景はよく知っているのだろう。


「全国大会の結果発表のときなんか、喜びのあまり失神する人もいるって話よ」

「なんだそれ……」


 もし、金賞を取ったとして、自分はああなるだろうか。

 鍵太郎は想像して、首をかしげた。もちろん自分だってたくさん練習はしてきた。けれど、あそこまで喜びを爆発させるかというと――どうなのかはわからない。

 しかも抱き合いたい相手は今、舞台の上である。

 二番目の学校は、銀賞だった。こちらは歓声はあがらず、静かに過ぎていく。

 だんだん順番が近付いてきて、緊張の度合いが上がってきた。本番前に匹敵する重圧だ。苦しい呼吸を和らげるように、鍵太郎は大きく息をついた。


「七番。川連第二高校」


 来た。

 美里と聡司が表彰台の前に進んで、立ち止まった。祈るような気持ちでそれを見る。いや、実際手を組んでいた。口元にそれを当てて思う。

 結果はもう出ていて、祈っても願ってもしょうがないというのに、そうせずにはいられない。

 お願いします。どうか。

 どうか――



「――銀賞」



 その音声を聞いたとき、鍵太郎の周囲から一瞬、音が消えたように思えた。


「――え?」


 間の抜けた声が自分の口から出た。

 ――銀賞?

 本当に?

 どうして――?

 宣告された事実についていけない鍵太郎の前で、美里がトロフィーを受け取っていた。

 金賞より少し小さい、銀賞のトロフィー。

 終わりを告げるその証を、美里は確かに、手に持っていた。

 先輩の表情は、よく読み取れなかった。

 悔しいのか、悲しいのか、そんな感情を押し殺しているのか。

 それすらも、よくわからない。

 トロフィーと賞状を持った美里と聡司が、表彰台の前から去っていく。

 待機場所に戻る前に、どの学校も客席に向かって礼をするらしい。

 美里と聡司もそうするために、立ち止まった。

 先輩は客席を向いて。

 そして自分の部員かぞくたちを遠くに認め――ふっと、微笑んだ。

 ありがとう。

 さようなら。

 最後の戦いを終え――部長は、その場に別れを告げた。



###



 ホールから出て行く人の波に、埋もれそうになる。


「……残念、だったわね」


 ふらふらと歩く鍵太郎に遠慮がちに、光莉が言ってきた。

 中学のときは名門校の吹奏楽部に入っていた光莉だ。この結果に、彼女も気落ちしているようだ。


「……千渡」


 鍵太郎は光莉を振り返った。頭が働かない中で、響いてくるのは今日、彼女が言っていたことだった。

「ヘタクソはヘタクソ」。「努力しないほうが悪い」。

 それが、『吹奏楽部の常識』――

 結果は、この通りだ。

 なにかが足りなかった。

 そのせいで、全部が終わってしまった。

 それにひきずられるように、違う人物に言われた言葉が脳裏に響く。

 どろり、と。

 鎌首をもたげる。


『結果が出せなければ意味がない。金賞でなければ意味がない』


 未だ完全に取り去ることはできず。

 心を蝕む呪いが――


『だからきみたちは、いつまで経ってもB部門補欠なんだよ――』


 うるさい、と跳ね除ける力は。

 今はもう、残されていない。

 結果を出せなかった。見返すことができなかった。

 美里を正しいと――証明できなかった。


「……あの」


 光のない鍵太郎の瞳を見て、光莉がおずおずと、声を出す。


「そんなに……落ち込まないでよ」


 普段自分に怒鳴り散らすのとは違って、その口調はとても心配そうなものだった。


「がんばってるんだったら、許されてもいいって……今日あんた、言ってくれたじゃない。あんたは、がんばったじゃない。来年もあるじゃない。これからまた、来年の大会に向けてがんばれば――」

「今年じゃないと意味がなかった」


 光莉のセリフを遮って、鍵太郎は言った。

 そう、初心者だからとか、そんなことを言っている場合ではなかったのだ。

 そんな言い訳は通用しなかった。

 楽器の前ではすべて平等で。

 スポットライトの下ではなにもかもが、隠し場所なく照らされた。


「結果がすべて――そうだな。思い知った。あいつの言うとおりだった。常識的なのは――あいつのほうだったのか」


 そう言う鍵太郎に、光莉は怒ったように眉をしかめた。いつものようにこちらを叱り飛ばそうとして――



「ねえ。あれ、千渡じゃない?」



 ふいに聞こえてきた声に、彼女は硬直した。

 少し離れたところで、今回の大会の誘導係だった女子高生たちが、こちらを見ている。

 宮園高校。

 県下トップの、吹奏楽のエリート集団。

 光莉が中学のとき、自分のミスで迷惑をかけた――かつての仲間。

 彼女たちは、光莉を見ながらささやきを交わす。


「千渡って、あいつ? 千渡光莉?」

「そう。本番で音出ないってありえない失敗をした、あいつ」

「えー? あ、ほんとだ。バッサリ髪切ってたからわかんなかった」


 ――なんだって?

 鍵太郎は驚いて、光莉の髪を見た。

 だって自分が初めて会ったときから、彼女の髪は短くて――


「え? ひょっとして、あれ? 責任とって髪切ったとか、そういうアレ?」

「マジウケる。そんなんで許されると思ってんのかな」


 光莉は動けない。

 一年経っても言われるがままで、なにも反論できない。

 なぜなら、結果がすべてだから。

 それが『吹奏楽部の常識』だから――


「まだ楽器やってたんだね。あたしなら、あんなことがあったらもう二度と楽器やりたくない」

「あの制服、どこ? 知ってる?」

「知らなーい。どこでもいいでしょ。今日どうせB部門小編成の部の大会なんだし」

「あいつ、自分より格下相手ならどうにかなると思ってんのかな」

「ねー。いかにもヘタクソの考えそうなことよね」

「……っ!」


 光莉が歯を食いしばったのを見て、鍵太郎は自分の間違いを悟った。


「千渡。行こう」


 光莉の手を引いて、鍵太郎は歩き出した。今日、楽器置き場でうずくまっていた彼女を、連れ出したときと同じように。

 泣きそうな顔をした彼女を、一人にしないために。


「ごめん。さっき俺間違ってた」


 歩きながら、後ろにいる光莉に向けて、鍵太郎は言う。


「結果がすべてなんかじゃなかった。がんばってるなら、許されていいんだった。どんなことになったて――続けてれば、変わる時が来るんだ。だから、大丈夫だ」


 光莉はなにも言わなかった。否定したくても――泣いていて声が出せなかったのかもしれない。

 ただ、掴んだ手をきゅっと握ってきただけだ。

 鍵太郎は部員かぞくの元へと歩みながら、言う。


「あんなのが常識なわけがない。俺の知ってる吹奏楽おんがくは、絶対あんなもんじゃない」


 先ほどの美里の顔を思い出す。

 今までもこれからも全部受け入れて、ただ微笑んだ先輩の姿を。

 ホールの外に出た。

 昼間あれだけ降っていた雨は、もう止んでいた。



###



 部員全員で、美里と聡司が出てくるのを待つ。

 周りでは他の学校が、喜びあったり、悲しみあったりしている。既に日は落ちていて、雨上がりの湿気の中で街灯がぼんやり光っていた。

 お通夜のような雰囲気の中、いつものようにのんびりと笑う部長が、帰ってくる。


「ただいまです――へぶっ!?」


 言いながら美里はコケた。


「だいじょうぶですかーっ!?」


 最後の最後まで彼女らしいドジっぷりに思わず笑ってしまいながら、鍵太郎は美里を助け起こした。

 濡れた地面に転んで泥のついてしまったトロフィーを叩きつつ、部長は言う。


「すみません。最後までこんなんですが……みなさん、おつかれさまでした」

『おつかれさまでしたー』


 みなからの返事を受けて、嬉しそうに美里は笑った。

 少し泥で汚れた頬を、手の甲でこする。


「がんばって、がんばってきました――ここで、わたしたちのコンクールは終了です。銀賞という結果にはなりましたが、この経験を糧に、来年もがんばっていただければと思います」


 来年――。

 鍵太郎は胸中で、美里の言葉を繰り返した。

 まだ、そんな先のこと。

 想像がつかない。

 顧問と指揮者の先生も挨拶を終え、学校に帰るため全員がバスへと向かった。その途中で、鍵太郎は美里に話しかける。


「先輩、俺――」


 これで最後なんて、嫌だった。

 もう隣にいられないなんて嫌だった。

 だから、せめて言うべきことを言おうと、鍵太郎はこちらを見つめる美里に向かって言う。


「ずっと一緒に、いたかった。ごめんなさい、俺、先輩の最後の演奏で、こんな――」


 不甲斐なくて、情けなかった。声を詰まらせていると、美里が「ああ」と言う。

 存外にその声は明るい。


「これで最後じゃないのですよ、湊くん」

「は?」


 予想外の言葉に思わず聞き返す。

 今、なんと?

 最後では――ない?

 かすかな望みを辿り、鍵太郎は美里の次の言葉を待った。



「まだ――学校祭があるのですよ!」



 ……。


「……は、はは」


 楽しそうに笑った美里にあてられて――鍵太郎は、そうとしか言えなかった。

 首の皮一枚で、望みはつながれた。

 まだ、チャンスはある。

 そこでもう一度――今度こそ、うまくやってみせる。

『一緒にがんばりましょう』――その言葉を胸に。



###



 しかし、なにが足りなかったのだろう、と学校に向かうバスの中で鍵太郎は考えた。

 練習もした。録音も聞いた。わかっている弱点は全部潰したつもりだった。

 緊張で演奏が早くなってしまったとはいえ、そこまで悪い出来だったとも思えない。

 いったい、なにが――と思った瞬間、がくんと頭が落ちた。


「ぅえ?」


 一瞬、眠ってしまったようだ。見れば、他の部員たちもほとんどが寝息をたてている。

 行きのバスでは、あんなに騒がしかったのに――と、鍵太郎は今朝のことを思い出した。

 今日はとても――とても、長い一日に感じられた。

 今までの練習の疲れや、本番での緊張がどっと出てきたのだろう。そしてまだ美里といられるとわかった安心感も、眠気に拍車をかけている。

 ぐらぐらと回る視界に耐えかねて、鍵太郎は目を閉じた。

 明日からまた、新しい曲ができる。そんなことを考えながら――



###



「……あと、二点でしたか」


 部員たちが寝静まったバスの中で、指揮者の城山匠しろやまたくみが顧問の本町瑞枝ほんまちみずえに言った。

 彼の手には、今回の大会の講評用紙と点数表がある。


「イチ銀だな。銀賞ではトップ――金賞まであと二点。……惜しいとこまで食い込んだもんだよ、こいつらは」


 疲れきって眠る部員たちをちらりと見て、本町が城山に言った。

「すみません」と城山が謝る。


「最後の最後まで調整しましたが――だめでした。僕の力不足です」


 講評用紙の中の『音が荒い』という文を見ながら、城山が額を押さえる。


「リハーサル室に行く前にあいつに会ったのは、正直、不運としか言いようがなかった。おまえのせいじゃない」


 あのときかけられた言葉は、呪いとなって部員たちの音を蝕んだ。

 それまでの演奏とは変質した本番を聞いて、本町は今日の不運を嘆くよりなかった。

 まだ苦悶の表情をしている後輩に向かって、本町は言う。


「……なあ、匠よ」

「……先輩?」


 彼女が自分を名前で呼ぶときは、仕事ではなくただの先輩後輩として――なにかを言いたいときだと城山はわかっていた。

 音楽教師の本町は、生徒たちを見ながらつぶやく。


「あいつは言ってたな、結果がすべてだって――確かに、そうなんだ。世の中なんて弱肉強食だ。仕事をするようになったら、結果を出すことは当たり前になる。学生のうちの今だから、あいつらは許されている」

「……ですね」


 城山ももう、学生ではない。

 音大を出て、多少は世間に揉まれて――そうして、ここにいる。

 本町だって、それはわかっているはずだ。


「優しくなれ、人を思いやるようにしろ――そう言われて、あいつらは育つ。で、社会人になったとたん、言われるんだ。『人のものを奪って食え』って」

「……」


 思わず、黙った。本町の言いたいことはわかる。

 しかし――それでも。

 その先を、城山は言わなかった。自分の先輩は、自分で結論を出していると知っていたから。


「営業職なんてついたら、余計だろうな。ノルマ。縄張り。そんなもんがついて回って、いつのまにか心を亡くして――でもな、そんなときに……そんなときに、こんな風に仲間となにか――作り上げた思い出があれば、ちっとは違うんじゃないかな。アタシはこういうときに、そう思うんだ……」

「……先輩」


 うつむいていた本町は、顔を上げて――まっすぐ、城山を見つめた。


「たく――城山先生。あいつらは今日のことを踏まえて、言うかもしれない。『次こそは金賞を取れるような指導をしてください』って、言われるかもしれない。けどな、だけれども――今のことだけは、忘れないで、あいつらを教えてやってほしいんだ」


 頼む。先輩にそう言われて、城山は「もちろんです」とうなずいた。


「もちろんです――もちろんです。そこは、お約束します。僕だって大人だ――彼らを導く義務がある」

「ありがとう」


 本町はふっと、後輩に向けて笑った。そして、雨があがった窓の外に、顔を向ける。


「さーて。次は学校祭だな……。どんな曲を、やろうかね――」


 流れていく景色を見ながら、本町は唇の片端を吊り上げ、これからのことを考えた。


第5幕 コンクールって何ですか〜了

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