第60話 愛の証明

 ばたばたと、準備が行われている。

 湊鍵太郎みなとけんたろうはその舞台の中で、必死に自分のイスと譜面台を確保していた。

 吹奏楽部の夏の大会、吹奏楽コンクール。

 今、その本番の舞台に乗っている。

 まだそこは薄暗い。演奏前の準備をしているからだ。

 人数に合わせて、イスや譜面台が舞台袖から出し入れされている。ステージを大会の補助員が動き回っている。

 予選のときは譜面台が直前まで届かないという事件があったので、今回はそんなことにならないよう、鍵太郎は舞台の片隅で自分の居場所を死守していた。

 隣には同じ楽器の先輩の、春日美里かすがみさとがいる。

 しかしここは学校の音楽室よりも広いので、彼女の席はいつもより遠くにあった。大丈夫だろうかと思いつつ、周りを見ればこのくらいの距離が普通らしい。詰めるのも不自然なので、そのままの位置に座る。

 ええと、譜面台の高さを調節して。ここから先生が見えるかどうかを確認して。

 前に座るのはバスクラリネットの先輩だ。彼女から軸を少しずらし、指揮が見えるよう微調整する。

 あとは楽器を下ろして、照明が点くまで待機だ。早くなっている鼓動を少しでも落ち着けようと、鍵太郎は少しうつむき、鼻から深く息を吸って、吐いた。

 途端、ステージの光量がぶわっとあがる。

 顔を上げると全員が微動だにせず、イスに座っているのが見える。

 ここはいつもの、音楽室ではない。

 本番の舞台――そう思うと落ち着いたはずの気持ちが、また緊張で締め付けられるのがわかった。

 肺が縮んで震えていく。

 こんなに明るいのに、視界が狭い。

 落ち着くなんて、そんなのは付け焼刃だと言わんばかりに。

 どんな欺瞞も、スポットライトは逃げ場なく照らし出す――


「――7番。川連第二高校。自由曲『シンフォニア・ノビリッシマ』」


 場内アナウンスが響く。そのアナウンス後、指揮者の城山匠しろやまたくみが客席を振り返り、礼をした。

 拍手が聞こえる。いつもはないさざなみ。

 まばらなそれはすぐに引いて、暗がりから押し殺した息遣いだけが聞こえた。

 その空気の中で、自分の鼓動と呼吸の音がいやに耳につく。

 聞かれている。品定めされている。

 自分がどうしても同じ楽器の音を聞いてしまうように、他の学校の部員も自分の音を聞いているように感じる。

 あなた、上手に吹ける?

 人にどう見られてるか、わかってる?

 あなたがどう練習してきたかなんて、知らない。

 わたしたちは、あなたの本番の演奏にしか興味がない。わたしたちより下手であれば問題ない。上手だったら聞いてあげる。参考にさせてもらう。

 結果がすべて。できないなんて許さない。

 失敗するってことは、あなたが真剣に取り組んでないから――


「……――うるさい」


 リハーサル室に行く前にかけられた呪いの言葉が大量に襲い掛かってくるような苦しさに、鍵太郎は誰にも聞こえないよう、そうつぶやいた。

 気持ち悪い。こんなのに負けない。

 俺たちは俺たちの演奏をする。正しさを証明する。

 間違っているのは――おまえらのほうだ。

 城山が指揮台に上がった。先生は全員を見渡し、ゆっくりと微笑む。

 そして、声を出さずに口だけ動かした。「いつもどおりに」か、「リラックスして」か――そんなところだろうか。

 意図だけはなんとなく察して、小さくうなずく。そう、いつもどおり。

 全員で立ち向かっていく。

 城山が指揮棒を構える。部員たちもザッ、と楽器を構えた。

 そして――全員が息を吸う音が聞こえてくる。

 証明が、始まる。



###



 一番最初の最高音――当たるか!?

 鍵太郎が鋭く息を放つと楽器は音符を捕らえ、ベルからはその高音が搾り出てきた。

 よし! と心の中で拳を握る。だがいつまでもそうしてはいられない。そのままのスピードでかしずくように、段々と音域を下げていく。

 気合いが入りすぎて、一発一発の消耗が異様に早い。さらに曲が進んで低音になればなるほど、負担は大きくなっていく。

 堪え切れなくて素早く息継ぎをした。音が切れないようにほんの少ししか吸えなかったため、その後の計算が全て狂う。

 だましだまし細かく息継ぎをしながら、最初の頂点に向かって震える呼吸を積み重ねた。もう少しで頂上だ。

 スローモーションのようにゆっくりと景色が流れていって、今まで練習したことやかけられた言葉が、その瞬間に駆け抜けていく。

 その先に見える景色は、果たして――

 閃光とともに頂点を迎え、場面が切り替わった。

 テンポが変わり、ガラリと印象が変わる。早い。溜めていた反動なのか、取り返すように転がっていく。

 嘘だろ、と鍵太郎は恐ろしくなった。これはいつもの練習より数段早いテンポだ。気合いが入りすぎていて、軽い暴走状態にすら感じる。

 ここは自分の楽器は吹いていないので、はらはらしながら推移を見守ることしかできない。

 飛び出してしまった焦りは、全員が感じているだろう。しかしテンポを落とすわけにもいかない。そのまま突き進んでいく。

 クラリネットの旋律が、なんとか流れに食らいつこうと立ち向かっていった。制御しきれないそれは、全てを押し流すように圧倒してくる。

 バラバラにされるのを覚悟しながら、それでも立ち止まれない。

 なにがなんでも、断ち切られるわけにはいかない。土石流のように迫り来る中でそれでも、戦いを挑むように突っ込んでいく。

 あれほど練習したはずの細かい動きが、まばたきをする間に通り過ぎていった。ゴツン、と地を穿つはずの低音と打楽器の楔が、威力不足で弾かれる。

 リズム隊の不発により、質量が衰えない圧倒的な『なにか』が、全てを飲み込もうと迫ってくる。

 立ち向かえ。立ち向かえ。立ち向かえ。

 フルートが軌跡を描いて、トランペットから突き刺すような音が飛んでいった。それらを下支えで援護しているうちに、低音楽器が主役に躍り出る。

 録音では散々悩まされてきた部分だ。ただでさえスピードが早くなっている今現在、遅く聞こえる低音楽器は未来を捉えるように先手を打たなければならない。

 鍵太郎は勢い込んで音を出した。そのまま走っていこうとして、美里と若干音がずれていることに気づく。

 先輩は、少しだけ後ろにいる。

 思わず振り返ろうとして、テンポが歪んだ。

 ほんの僅かな差だったものの、いつも一緒にいた先輩がいないことに動揺した。

 ひとりで先走って、美里を置いていこうとしていた。周りを見ているつもりで隣を見ていなかった、そんな自分が信じられなかった。

 ぞっとする恐怖から出た、一瞬の隙。

 そこでスピードを緩めてしまった鍵太郎を、美里は追い越して先に行ってしまう。

 ――待って。

 置いてかないで。

 迷いが出た自分を罵倒する。今のは振り返らずに進むべきだった。その一瞬のためらいが、掛け金を違えたようなズレを生じる。

 証明するはずだった大切な部分は、手をすり抜けていってしまった。

 土台のがたつきを埋めるように、他の楽器が折り重なってくる。鍵太郎は歯を食いしばって、美里の背中を追いかけた。

 どんなに悔しくても、曲は続いていく。

 取り残されないように必死で吹き続ける。溢れる連符に足を取られそうになる。

 もう少し。もう少しで届く。

 手を伸ばしたとき――曲の場面が切り替わった。

 やわらかい、あたたかい雰囲気の部分。

 今まで走ってきた勢いを殺しきれず、やや硬さは残っていたものの――やがて音は、抱かれるようにあるべきところに着地した。

 儚げな少人数演奏から、祝福するように徐々に輪が広がっていく。

 その高まりがすっと引き、ただひとつを言うがための独奏ソロに集約していく。

 ここは数少ない休みのひとつだ。鍵太郎は楽器を拭いて、少しだけその旋律に聞き入った。

 何度も練習してきた。

 できなくて悔しかったり、どうすればいいのか悩んだりしてきた。

 初心者でちっぽけで、今だって満足いくような本番にはなっていなくて――でも。

 吹かなきゃいけない。言わないと創れない。

 もし、追いかけることしかできなくても。

 せめてもう少しだけ、あなたと一緒に――

 呼び起こされるようにして、再び響きが甦る。

 メロディーの間で相槌を打つように、低音をつなげていく。高く鳴っているのが見えるようで、ホール以上の広さを感じる。

 それを支えることは、できたのだろうか――。

 答えは、自分で聞くことはできない。

 回帰するように早いテンポに戻っていく。あとは最後まで走りきるだけ。

 最後の旋律を、今度は美里と一緒に始める。せっかく一緒にがんばりましょうと書いてもらったのに、緊張と焦りからそれを見逃してしまった。

 ごめんなさい。

 こんなガキでごめんなさい。

 最後ぐらいはしっかりやります。だから。

 もうみな、限界に近い。たった七分間に全てを注ぎ込んで、さえずる高音は口が回っていないし、中低音は息も絶え絶えだ。

 それでも、最後まで証明を。

 今ここにある思いを貫き通して――愛の、証明を!

 楽譜にある最後の一段。全員で音を叩きつける、最初の合奏ではまるで合わなかった部分。

 息を揃えて音を揃えて。

 これで――終わりだ!


 ボフッ。


 ――あれ。

 最後の最後で音にならなくて、鍵太郎は目をぱちくりさせた。

 ――おい、俺。

 なにやってんの?

 ショックというより、単純にびっくりして、鍵太郎は自分に問いかけた。

 体力が尽きたのか、勢い余ってバランスを崩したのか。

 まあ……ずれるよりマシか。

 もちろんやり直しなど、もう利かない。最後は締まらないながらも、川連第二高校の演奏は、ここで終了することになる。

 舞台が、暗転する。


「おつかれさまでした、湊くん」


 ステージから降りて関係者用通路を歩いていると、美里が鍵太郎にそう言ってきた。

 後ろからは、他の部員の「できた」「できなかった」などの声が聞こえてくる。

 自分は……できなかった方だろうか。

 想像していたよりも舞台はずっと怖くて。

 自分だけで精一杯だった。


「すみません」


 口をついて出たのは、謝罪の言葉だった。


「すみません……あんなのしかできなくて、すみません」


 ボロボロと、そんな言葉ばかりが溢れてくる。

 せっかく、一緒にやろうと言ってくれたのに。

 いざとなったら足がすくんで、見えなくなって。

 情けなくて、消えたくて、謝ることしかできなかった。

 本番の緊張が解けて、硬直していた身体に押し寄せたのはそんな思いだ。


「いいんですよ」


 そんな鍵太郎に、美里は微笑んだ。

 先を行く彼女は晴れやかな笑顔で、こちらに言う。


「あれが、今のわたしたちにできる精一杯だったんです。なら、別にいいじゃないですか」


 がんばりましたよ、湊くんも。みんなも。

 だから、気にすることはないんです。わたしも、できなかったところはありましたし、お互いさまです。

 そう部長は、美里は――いつものように、あたたかな言葉で鍵太郎を励ましてくれた。


「だから、今はとにかく――おつかれさまでした。それだけです」

「はい……」


 それにおつかれさまでした、と素直に返すことは、できなかった。

 そうしてしまったら、これが最後になってしまいそうな気がしたから。

 それだけは否定したくて、小さくうなずくことしかできなかった。


「やれることは、やりました。……あとは、結果を待つのみです」


 美里が前を向いて、そうつぶやく。結果。そうだ。今の演奏には点数がつけられて、順位が決まるのだ。

 なんで、そんなことになるんだろう。

 これでもう、いいじゃないか。十分だろう――

 そう思いながら楽器を抱え歩いていると、やって来たのは本番の誘導開始場所である、エントランスロビーだった。

 一周回って帰ってきたことになる。外では、相変わらずの雨が降っている。

 だから本来なら外にあるはずのカメラは、ここに置いてあった。

 大きな三脚と、そこに備え付けられた立派なカメラ。本番終了後の写真撮影だ。


「はーいみなさん、お疲れさまでした!」


 首からカメラを下げたおじさんがやって来て、川連第二高校の生徒たちに手を振る。


「写真撮りますよー! 各楽器ごとに、こちらに並んでくださーい!」


 なにがあっても、どれだけできなくても、最後は笑って写真を撮る。

 元気に部員たちに並び方を指示するおじさんは、今日すべての学校に、こうして接してきたのだろう。

 テキパキとはつらつと動くその人を見て、鍵太郎は本番の後悔が、少しずつ消えていくのを感じていた。

 先生二人を真ん中にして、部員全員が並ぶ。低音楽器は大きいので、最前列でないと邪魔になる。

 鍵太郎は低音楽器の先輩たちとともに、一番前の列に並んだ。

 カメラのおじさんが、脚立の上から手を振ってくる。


「はーい! みなさん! これから何枚か写真撮りますからねー! まず一枚目は、真面目に! いいですか? はい、いきますよー!」


 ボンッ、とフラッシュが焚かれて、一枚写真が撮られた。写り具合を確認して、おじさんはうなずく。


「はい、じゃあ二枚目! 笑顔で! なにかポーズつけたり、自由にしてくれて結構でーす!」


 その言葉に、「どうする?」「なにやる!?」と部員たちが各所で相談を始めた。いろんなところでそんな話し合いが起こっているため、収拾がつかない。

 美里も特にそれをまとめる気はないようで、楽しそうにそのやり取りを眺めている。

 自分たちはなにをすればいいのだろうか。なにかやれといきなり言われても、とっさには思いつかない。

 いつも低音楽器はなにをやっているのか。鍵太郎は美里に訊いてみた。


「先輩、俺たちはどうしますか?」

「そうですね。わたしたちは楽器を担ぐだけで存在感たっぷりなので、いつもは抱え上げて写真を撮っています」

「それにしますか?」

「ですねー」


 この辺、低音楽器は実にアバウトだ。こういう派手なパフォーマンスは、メロディー楽器のみなさんに任せますよというプレイスタイルが如実に表れる形になる。

 大きな楽器は、持ち上げるだけで目立つのだ。鍵太郎は自分の楽器を、担いで持ち上げた。

 他の楽器の面々もそれぞれ、ポーズが決まったらしい。楽器を掲げたり構えたりしている。

 カメラのおじさんは手を振って、「それじゃ、撮りますねー!」と言った。



「いち足すいちはー!?」



『にーっ!!』



 全員が元気よく答えた瞬間に、シャッターが切られる。

「はい、ありがとうございましたー!!」という言葉とともに、部員たちから笑い声があがった。

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