第59話 蝕む呪い

「なんなのあいつはー!?」


 部屋に入るなり、二年生の先輩がそう叫んだ。

 湊鍵太郎みなとけんたろうも同じ気持ちだった。

 吹奏楽部の夏の大会、吹奏楽コンクール。

 ここはその本番直前の、リハーサル室だ。

 先ほどかけられた屈辱的な言葉の数々に、鍵太郎の頭には完全に血が上っていた。

 他の部員も、それは同じようだ。「だからおまえたちは駄目なんだ」と上から目線で言われた瞬間、後ろのみなが殺気を爆発させたのを鍵太郎も感じていた。

 だったら目にもの見せてくれようじゃねえか――そんな雰囲気で、リハーサル室での音出しが始まる。


「……荒いなあ」


 その音を聞いて、指揮者の城山匠しろやまたくみが頭をかいた。

 彼は部員たちを見回しながら、指示をしていく。


「ちょっとみんな、深呼吸しようか。で、ちょっと長めに低い音を吹こう」


 その言葉に従って、ゆっくり呼吸をする。鋭くて苦しげだった音たちが、少し落ち着いてきた。


「時間いっぱいまで調整しよう。まず、中間部のゆっくりになったところから」


 これから本番で演奏する曲の、最終確認が始まる。『高貴なるシンフォニアシンフォニア・ノビリッシマ』と冠されたその曲は、今回の大会で県代表になれなければ、今日で最後の演奏になる。

 そんなことはさせない――と鍵太郎は息巻いた。

 先ほどの侮辱の言葉を、否定するために。

 隣にいる同じ楽器の先輩、春日美里かすがみさとと少しでも長くいるために。


「……湊くん。そんなに怖い顔しないでください」


 その美里が、心配そうな顔でこちらを見ていた。ああ、今の俺はそんな顔してるのか、と鍵太郎は頬を揉む。

 うにー、と両頬を引っ張ると、美里はくすりと笑った。

 そう。それでいい。先輩には不安を感じないで、いつもどおり笑っていてもらいたい。

 そんな風にして楽器を持とうとすると、ふと、リハーサル室の壁が目に入った。

 ここはダンスの練習室も兼ねているのか、近くの壁が一面鏡張りになっている。

 それに、音楽室で演奏を録音したときのことを思い出した。録音した音は、見たくないものを見る鏡のようなものだ。

 鍵太郎の担当するチューバという楽器は、低音楽器の特性上、どうしても他の楽器より遅く聞こえる。なので先手を打って音を出していかなければならない。

 本番で遅れないように、気をつけないと。鍵太郎は鏡から視線を外し、城山の方を見た。



###



「湊っち。いつになく興奮しているようだけど、女性のために功を焦るのはよくないよ。落ち着きなさい」

「俺が春日先輩のために焦っているっていうんですか? 馬鹿なこと言わないでください。俺は冷静です」

「見事な死亡フラグ返しだよ、この子は……」


 こちらの返答に、バスクラリネットの二年生、高久広美が隣でため息をついた。

 本番直前、ステージ脇通路での待機中。

 予選大会と同じく、美里は別口から入場する打楽器班に挨拶に行っていた。彼女の楽器だけが鍵太郎の隣に置かれている。

 ピリピリとした空気の中で、一人だけ広美は変わらずに飄々としていた。

 こうして話かけることで、予選大会と同じく自分の緊張をほぐそうとしてくれているのだろうか。鍵太郎がそう思っていると、広美はクールに言ってくる。


「あたしは冷静な人の味方で、無駄な争いをするバカの敵なんだ」

「先輩は魔法少女だったんですか?」

「あたしは単なるオヤジ魔法使いだよ。言ったでしょ。『低音楽器はつねに楽団バンドで一番クールじゃなきゃいけない』って」


 全員がカッカしてる時でも、ただ一人氷のように冷静に。

 有言実行。鍵太郎に言ったセリフを、広美はそのまま実践しているようだった。


「あたしはあいつの戯言に耳を貸さない。あたしたちはあたしたちの演奏をするだけだよ。そうでしょ?」

「ですね……」


 川連第二高校らしいスタイルを、偉い学校の先生に否定されたのだ。

 見返してやるには、いつもの自分たちの演奏をするしかない。

 広美は自分の楽器を抱え、やれやれと肩をすくめた。


「なら、あいつの言ってたことなんて全部忘れて、自分のやりたいことをやるのが一番さ」

「いや、さすがに全部忘れることはできませんが……」


 鍵太郎は広美ほどサバサバした気持ちにはなれなかった。自分の目の前で、仲間を、美里を侮辱するような言葉を吐かれたのだ。

 その怒りは呪いのように解けず、今も心の片隅を蝕んでいる。

 なにかの拍子に、また感情に任せて我を忘れそうなくらい――


「湊くん、『愛の証明』だよ。忘れないで」


 近くにいた城山が、穏やかに鍵太郎に言ってきた。

 今回演奏する『シンフォニア・ノビリッシマ』は、作曲者のジェイガーが婚約者に捧げた曲だ。

 予選大会のときに、城山が言っていたことを思い出す。

 この曲は、彼が婚約者に誓った言葉と思いの数々を歌っているのだろう――というもの。

 それをコンクールという場所で演奏することは、それがどれほどのものだったかを再現――立証することに等しい、と先生は言っていた。

 愛の証明。

 それはこれから、するつもりだ。

 金賞を取って、美里のやり方が間違っていなかったことを証明する。

 そう言うと、城山は「……ほんとにキツイ呪いをかけられたもんだねえ」と悲しげな顔をした。


「そんな顔で楽器を吹いたって、つまらないよ。ほら、笑って笑って。スマイルー」

「めっちゃ子ども扱いなんですが……」


 遊園地のピエロが、子どもに向かって言うような言い方ではないか。まあプロ奏者の城山からすれば、楽器を始めて半年も経っていない鍵太郎など、赤子同然なのかもしれないが。

 かけている丸メガネを遠くにしたり近くにしたりするのがウケなかった城山は、残念そうにメガネをかけなおし、改めて言ってくる。


「ジェイガーは、もっと――なんだろうな。大きな愛を描いた気がするんだよね。ひとつのフレーズをああも繰り返し書きながら、見せ方がとんでもなく多彩なのがその証拠というか……美しいんだよ。どこを取っても」

「はあ」


 城山はたまに、こうしてひどく抽象的なことを言う。

 彼の頭の中には確固たるイメージがあるのだろうが、それを言葉にするのは難しいのだろう。

 全員の動きが描かれているスコアを持ち、先生は続ける。


「どこをとっても美しいから――真理なんだよね。五十年以上経っても愛されている曲なのは、不変というか根源的というか、そういうものに根ざしているからだと思うんだ」

「なんか、そんな大それた曲をやってるって、改めて自覚すると怖いんですが……」

「ああ、ごめんごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだよ。きみはきみの証明をしてもらえばいいんだ。それが他の人のときれいに積み重なれば、もっと大きなものになるから」


 だからさ。湊くんだけで全部を証明する必要はないんだよ?

 城山も考えながらしゃべっているのか、言ってから「ああ、そうか」と自分でうなずいていた。


「だからメロディーがいろんな楽器に移りまくるのか――なるほどなるほど。こんなことに今さら気づくなんて、僕もまだまだ未熟だな」

「要は、全員で証明しろってことですよね、先生?」


 広美が城山のセリフを要約して言った。

 それぞれが、それぞれの気持ちを証明する。

 全員が自分の意思で音楽を創ると言った川連第二高校吹奏楽部に、これほど相応しい曲はないのかもしれない。


「まったく先輩たち、どうやってこの曲決めたんだか」


 広美が呆れたようにため息をつく。


「そこまで考えてた――とも、思えないけど。相変わらずあの学年は、神がかってるわあ……」


 うちらとは大違いだ、と二年生の広美は三年生の美里たちを評して、言う。


「戻りましたー」


 美里が打楽器搬入口から戻ってきた。そして鍵太郎の隣にやってくる。


「ただいまです」

「……おかえりなさい」


 言われて、返事をした。

 美里が隣にいると、ほっとする。やはりこの人は自分の道標であり――なくてはならない存在なのだと改めて思った。


「もう少しで、前の学校の曲が終わるね」


 後ろの方で、誰かがそう言うのが聞こえてきた。

 もう少しだ。

 もう少しで、この人に全部を言えるかどうか、決められる。

 愛の証明。

 自分の気持ちを、音に込めて。

 前の学校の演奏が終わって、扉越しに拍手の音が聞こえてきた。楽器を持つ。待ち時間のうちに少し冷えてしまった金属の塊に、熱を与える。


「では――湊くん。一緒にがんばりましょう」

「はい!」


 扉が開いた。

 前の学校が退場しようとしたり、舞台係がイスや譜面台を忙しげに運んでいたり。

 そんな混沌とした舞台へと――鍵太郎は美里の後について、進んでいった。



###



 部員ひとりひとりの顔を見送り、全員が出ていった後で城山はつぶやく。


「……ギリギリ、かな」


 証明が成立するか、失敗するか。

 そのラインを厳しい表情で見つめて、指揮者は言う。


「呪い、か……。みんな、負けないで。僕も、やれる限りを尽くすから」


 祈るように指揮棒を握り締め――彼もまた、本番の舞台へと向かった。

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