第58話 A部門の誘導

 正面玄関のあるエントランスロビーからは、外の景色がよく見えた。


「……雨、ひどくなってきましたね」


 湊鍵太郎みなとけんたろうはそう言って、隣の先輩からの反応を待った。

 同じ楽器の先輩の春日美里かすがみさとは、「そうですねえ」とのんびり答えてくる。

 先輩がいつも通りだったので、鍵太郎はなんとなくほっとした。

 今日は吹奏楽部の夏の大会、吹奏楽コンクールの本番の日だ。

 これからリハーサル室に向かうため、川連第二高校はここで誘導開始を待つ。

 目の前を、いろんな学校の人間が通り過ぎていく。鍵太郎はそれを、ぼんやりと見送った。

 この会場に着いてから、いろんなものを見た。

 自分とはまるで違う価値観で動いている人たちが、たくさんいることを知った。

 いつもとは違う雰囲気に不安を感じて、なんとなく美里に話しかけてしまったわけだが――


「……ほんとにガキだな、俺は」


 自己嫌悪して、ため息をつく。

 不安だから先輩に頼る。これじゃ、子ども扱いされてもしょうがない。

 ここに着いたあたりから降り始めた雨は勢いを増して、豪雨となって地面に降り注いでいた。

 遠くで雷が鳴っているのも聞こえる。

 低音楽器は、列の先頭に並ぶルールになっている。なので鍵太郎は先輩と並んで、その景色を眺めていた。

 傍には顧問の本町瑞枝ほんまちみずえ、外部講師で指揮者の城山匠しろやまたくみがいる。

 会場誘導係の女子生徒が、腕時計を見て、戻した。まだ誘導開始には早いらしい。

 この女子生徒は、この県下トップの吹奏楽部、宮園高校の吹奏楽部員だ。

 吹奏楽コンクールには、主にA部門とB部門という二つの部門が存在する。

 宮園高校はもちろんA部門。テレビによく出てくるような、全国一を目指す、そんな学校だ。

 対して、鍵太郎たちがこれから参加するのはB部門。演奏人数上限がA部門より少なく、全国大会も存在しない。なんだかシステムからして補欠扱いされているような、そんな部門だった。

 だから今回、こんな風にA部門の人間の誘導を受けるというのは――導いてやる、と言われているようで、少しだけ反感を覚える。

 おまえらは結局俺たちの管理下で、下の身分なんだと言われているようで。

 考えすぎの被害妄想なのかもしれないが。

 それが当然、と流れていくことは。

 あまり、いい気分はしない。

 目の前を、いろんな人間が通り過ぎていく。


「本町くん?」


 その中で、こちらに近付いてくる人物がいた。

 鍵太郎の知らない中年男性だ。


「ああ、やっぱり本町くんじゃないか」


 そう言ってくる男性は、顧問の本町の知り合いらしい。先生同士で知り合いなのかな、と思っていると、誘導係の女子生徒がイスから立ち上がって挨拶した。


「先生! おつかれさまです!」


 深々と頭を下げた。最敬礼だ。

 彼女は先生と言った。ということは――


「……この人は宮園高校の吹奏楽部顧問、上欠茂かみかけしげるだ」


 鍵太郎の考えを補足するように、本町はそう教えてくれた。

 宮園高校は今日の大会の補助員だ。上欠は生徒たちの引率で来ているのだろう。

 コンクールの会場で、ばったり知り合いと会った――そんなよくある状況だと思うのだが。


「……嫌なやつに見つかったな」


 続けて本町がかすかな声でそう言ったのを、鍵太郎の耳は捕らえていた。

 宮園高校、吹奏楽部顧問。

 上欠茂。

 人当たりのよさそうな微笑みを浮かべて、目の前に立つ上欠を鍵太郎は見上げた。

 嫌なやつ。少なくとも外見上は、そうは見えないが。

 本町は対外用の笑みで、世間話モードに入っている。


「久しぶりだね本町くん。元気だったかい」

「おかげさまで」

「今年こそは金賞を取ってくれよ。きみくらいの人間が、銀賞ばかりでは困る」

「……はっはっは。ワタクシがイタラヌせいで、この県の吹奏楽のハッテンを妨げておりますかあ」


 ビキビキと、本町の笑みが引きつっていた。

 雲行きが怪しい。

 なんとか大人の対応を保とうと、先生は不自然な笑みを浮かべている。


「……生徒たちにはより幅広く、音楽の楽しさを知ってもらいたいので。結果として銀賞にはなっていますが、笑顔の絶えない、そんな部活になっております」

「おいおい、そんなことを言っていて大丈夫なのか?」


 上欠は呆れたようにため息をついた。その仕草に違和感を覚えて、鍵太郎は眉をひそめた。


「少しは宮園高校うちを見習ったらどうだい。先日A部門の県大会は終わったが、もちろん東関東には抜けているよ。県大会なんて抜けて当然だ。わたしたちの目的は、全国一なのだからね」

「全国一、ですかあ。ははははは」


 本町のこめかみに見える青筋が、上欠には見えていないのだろうか。

 だんだんだんだんと、違和感が強くなる。

 上欠の言葉に触れていくと、視界が狭まっていく気がする。

 鍵太郎とは違う価値観を、上欠は述べる。


「わたしの生徒たちは、そんな甘いことを言わないよ――笑いの絶えない部活も結構だが、うちの部員たちは全国一の音楽を目指して宮園に来ているんだ。

 部活の目的は結果を出すことだろう。学生に芸術の域まで評価されるということをシビアに考えさせるのであれば、ある程度神経質な作り方をせざるを得ない。多少指導が厳しくなるのは当然だ」


 多少厳しい指導、とは。

 かつて春日美里が受けた、怒鳴られたり、殴られたりといったやり方のことか。

 全国一になるためならば、それは、容認されるのか。

 全国一になれば――それは素晴らしいことだと、賞賛されるのか。

 それは、『当然』なのか。

 正しいことなのか。


「……結果結果とは言いますがね」


 言われっぱなしでたまりかねたのか、本町がこめかみをひくつかせながら、わずかな反抗をする。


「過程も大事ですよ。金賞を目指すのは結構ですが、それに向かうまでに、生徒たちがなにを得たか。どんな風に演奏を作ろうかを考えること……それも重要なんじゃないかと、私は思ってまして」


 同じ教師という立場でありながら、本町と上欠の考え方は、大きく違う。

 川連第二高校の吹奏楽部は、本町の言う論理で動いている。

 騒がしくて、馬鹿みたいで――

 みんながみんな、やりたいことをやっている。

 ――全員の意思が出てきて、はじめて音楽というのは創られるんです。

 かつて美里が言っていたことが、鍵太郎の頭に甦る。

 わたしはここで、みんなと一緒に合奏したいんです。

 それはきっと、とてもとても、楽しいことですよ――!

 そうだ。うちの部長はそんな風に言って、楽しそうに笑っていた。

 それを――



「甘いなあ」



 上欠は苦笑した。

 そんなんだから駄目なんだ、と言わんばかりの笑い方で。

 それに、鍵太郎の頭が一瞬、沸騰する。

 おまえの言うことは間違っている――そう信じて疑わない。

 相手が間違っているのだから、なにを言ってもかまわない――そんな、傲慢さを感じる。

 こいつは、馬鹿にしている。

 川連第二高校を、馬鹿にしている。

 当然のように、下に見ている。

 春日美里を、侮辱している。

 思わず拳を握った鍵太郎を、本町はさりげなく制止した。


「……大会の会場で騒ぎを起こしたら、減点もしくは失格になる。おまえはうちを失格させたいのか」

「だからって、こんなこと言われて言い返せないなんて」

「……黙れ。悔しいのはわかるから、この場は黙れ。相手は県下トップの吹奏楽部の顧問だぞ。傍から見てて突っかかって見えるのは、うちのほうだ」

「ぐ……」

「……すまない」


 自分を制止した手が、頭を撫でていった。こんなときまで子ども扱いで、余計に悔しさが増した。

 言われるがままで、全く反論が許されない。

 悔しさだけがつのっていく。

 上欠は自論を語る。出来の悪い生徒に説教をするように。


「きみたちだって、金賞を取りたいんだろう? 結果だよ。生徒たちは全国一になりたい。わたしは彼らを導くことができる。需要と供給は一致するわけだ。彼らをひとつの方向に導き、演奏をまとめる、全国一に導く。それが顧問や指揮者の役割ではないかね?」


 こいつはなにを言っているんだ。

 需要と供給?

 経済理論で音楽が回る?

 なんなんだ。

 俺は楽器を始めて半年も経っていないから、こいつの言ってることがわからないのか?

 俺の聞いてきた吹奏楽おんがくは、こいつが言ってるものとは絶対に違う――


「吹奏楽は団体競技だ。個より全が優先される。どんな風に生徒たちが考えたところで、結果が出なければ意味がない。金賞でなければ意味がない。結果のためには個人の考えなんて要らないんだよ。一糸乱れぬチームプレイこそが、吹奏楽の良さじゃないか」


 上欠の言っていることが理解できない理由が、鍵太郎にはようやくわかった。

 彼には、分かり合う気がないのだ。

 分かり合うという発想自体が、そもそもない。

 自分は正論を言っているのだから、相手が言うことを聞くのは当然。

 そんな価値観で話している。

 相手を正論でねじ伏せることだけが目的。

 支配の旋律。

 管理下の音楽。

 勝手に居場所を決められて、決められた場所に行けと強制されているような。

 意志とは無関係に、進む道を決められるような。

 上に立つ指導。

 乱れを許さぬ規律。

 押さえつけられるのを感じる。

 今日触れてきた中で、一番相容れない考え方だった。

 決して触れ合えなどしない。

 断絶を感じる。


「観客は本番しか知らない。なにをどうがんばったかなんて、観客は知らない。きみたちの考え方は、『これだけがんばったんだから、できてなくても許してください』と言っているようなものだよ。それは、ない。甘えだよ。不誠実だ。コンクールはそんな簡単なものではないよ? もっと真剣にやりたまえ」


 こいつは――川連二高うちが、真剣にやっていないとでも言うのか?


「まあ、きみたちが真剣に打ち込まない限り、わたしたちの気持ちなどわからないだろうけどね」


 上欠の言葉が、圧力をもってこちらを押しつぶそうとしてくる。

 息苦しい。思ったことを口に出せなくて、どんどん進路が狭まっていく。

 思考が塗りつぶされる。

 上欠はそのまま容赦なく、己の言葉を振り下ろした。



「だからきみたちは、いつまで経ってもB部門なんだよ」



 いつまで経っても――補欠のままなんだよ。

 そう言われたとき、鍵太郎の中で、なにかが切れた。

 初心者で楽器を始めた自分が怒られるのは、わかる。

 しかし今のは――川連二高を。春日美里を。

 これ以上ないくらい当然のように――嗤っている。

 馬鹿にするな。馬鹿にするな。

 俺たちを――馬鹿にするな!


「そんなの、おかしいです」


 思わず声に出してしまって、本町が額を押さえたのが見えた。

 でも、ここは反論しなければならなかったのだ。

 こいつだけは、絶対に認めない。

 当然のように自分たちを、美里を否定することが、許せなかった。

 上欠の視線が、こちらを向く。

 小柄で子どもみたいに大人を睨む――部内の最底辺から楽団バンドを支える、初心者のチューバ吹きのほうへ向く。


「おかしい?」


 上から降ってくる、言葉の圧力に膝が折れそうになる。

 得体の知れない、理解のできない理屈が重くのしかかってくる。

 でも――負けるな。ここで引くな。

 こいつだけは絶対――認めない!

 鍵太郎が口を開こうとしたそのとき――



「先生は正しいですよ」



 知らない声が、耳に入った。

 一触即発の空気に割って入ってきたのは、宮園高校の、誘導係の女子生徒だ。


「私たちは高校生活の全部をかけて、音楽に打ち込んでいます。努力している人間が報われるのは当たり前。上欠先生の言うとおりです」


 出鼻をくじかれて――信じられないものを見て、鍵太郎は動きを止めた。

 理解が、できない。

 これが――正しい?


「理解できない理由で、理不尽に――怒鳴られても?」

「怒られるのは理由があって、怒り方もちゃんとしています。上欠先生は合奏中は厳しいけれど、それ以外は私たちをすごい気遣ってくれる、優しい先生です。先生のおかげで、私は部活にいて楽しいです」


 ――楽しいって、きみが?

 本当に?

 鍵太郎の疑問をよそに、女子生徒は続ける。


「上欠先生は神様です」


 吹奏楽の強豪校の生徒が、揃って口にするセリフを。

 口にする。


「私は先生を全国に連れて行ってあげたい。先生を全国一の先生にしたい。上欠先生は、私たちにとって唯一絶対の神様です。先生を悪く言わないでください!」



 気持ち悪い。



 上欠を庇うように立つ女子生徒を見て、鍵太郎は反射的にそう思った。

 なぜそう思ったかは――すぐにわかった。

 これが、カルトだからだ。

 この子は、『神様』以外を認めない。

 他の価値観を認めない。

 考えることを放棄して、勝つためにひとつの価値観だけを信じている。

 思想も努力も行動も。

 全部、『先生のため』。

 支配された価値観に傾倒し。

 そしてそれを自覚していない。

 気づかないから、平気で他人を傷つけるのも厭わない。

 考えることを放棄して、一糸乱れぬサウンドに身を捧げる。

 けれど。


「――きみは」


 きみはなんのために楽器を吹いている。

 なにを込めて、その音を出している。

 気づけ。気づけ。気づけ。

 『先生のため』を抜いたら、きみにはなにも残らないだろう!


「きみはそれで――幸せ?」


 女子生徒に静かに訊いたのは、今までずっと黙っていた、城山だった。


「先生のために努力して、結果が出せて、喜んでくれて――きみはそれで、幸せ?」

「はい!」

「――そう」


 少しだけ悲しげに笑って、城山はそれ以上、その女子生徒になにも言わなかった。

 目を伏せて、開いたとき、彼はその先を見ている。


「さて、誘導開始の時間だね。リハーサル室に行こうか」


 既に定刻になっている。もう移動を始めなければならない。

 強制的に話題が打ち切られる。本町が上欠に頭を下げているのが見えた。

 そんなことはしてほしくない。

 正しいのは俺たちだ。

 なおも反論しようとする鍵太郎を、城山も制止してきた。


「……気持ちはわかる。でも、ここで話していても、今のは絶対に解決しない話題なんだ、湊くん」


 城山は鍵太郎の頭に手を置く。そして本町と同じように、頭を撫でてきた。

 落ち着かせるように。


「僕らは、人になにかを伝える仕事をやっているはずなのにね――たまに、なにをやっても伝わらないときがあるんだ」


 悲しいよね。自分の力不足を、こういうときに痛感するよ。

 そう言う先生に、プロの人でもそんなときがあるのかと、鍵太郎は城山を見上げた。


「だから、今はせめて僕たちの音楽をしに行こう。そのほうが言い争うよりずっと、明確だから」


 吹奏楽部なら、拳でも言葉でもなく。

 音で表現しなさい、と。

 城山はそう言った。


「……わかりました」


 鍵太郎は渋々うなずいて、リハーサル室に向かうエレベーターに乗り込んだ。

 するとバスクラリネットの高久広美が、鍵太郎に言う。


「……湊っち。さっきの啖呵は」

「『低音楽器は、常に楽団バンドで一番クールでなくちゃいけない』ですか」


 今日、広美から言われた言葉だ。

 覚えている。

 しかしわかっていても――あれは見過ごせなかった。

 違いを認め合えればいいなんて、少し前に広美は言っていたが――鍵太郎には、あれは認められなかった。

 あいつは、敵だ。

 相容れない、敵だ。

 相手が認めないなら――こっちだって、認めることなんてできない。

 だから。

 演奏で。


「絶対金賞を取って――俺たちが正しいんだって、あいつらを見返してやります」

「湊くん……」


 険しい顔をする鍵太郎へ、美里は心配げな眼差しを向けた。

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