第57話 理想のブレンド
「あの……そろそろ手を離してくれませんかね、
吹奏楽部の夏の大会、吹奏楽コンクールの県大会。
その会場で、昔の失敗を引きずって落ち込んでいた光莉をここに引っ張ってくるために、こうして手を繋いできたのだが。
時間が経つと、なんだか少し恥ずかしく思えてきた。
別にコイツとは、付き合っているわけでもなんでもない。目の前でぐじぐじやっているのが見ていられなくて、こうしてここに連れてきただけだ。
演奏会場である大ホールまで来た以上、手を繋ぎ続ける必要はない。傍にいてやるだけで十分だろう。
そう思って、鍵太郎は光莉に手を離すように言ったのだが――
光莉は手を離さず、逆に強く握ってきた。
見れば彼女は不満そうに、顔を真っ赤にしている。
「だ、だって、一緒に行ってやるって言ったじゃない……」
「だから。もうここまで来たんだから、手まで繋いでなくても大丈夫だろ。ほら、一緒にはいてやるから。手ぇ離せよ」
鍵太郎が手を離そうとすると、光莉はさらにぐぎぎぎぎ、と歯を食いしばって力を込めてきた。
「そっちから手を出しといて、なに勝手なこと言ってんのよ……!」
「いつもの口調に戻ってきて嬉しいんだけど、すごい握力で手を握りつぶそうとするのは止めてくれないかなあ光莉さん!?」
「あんたが許可なく離そうとするからでしょ!?」
「ああ、いつもの千渡が戻ってきた! なんか嬉しい! でも、楽器吹けなくなりそうなくらいに手が軋んでるから、ほんとに離してほしいなあ!?」
「う、うるさいわね!? ちょっとおとなしくしなさいよ!?」
「おまえが離してくれりゃ、こんなに騒いだりしねえよ!?」
「なによ!? 私のせいだって言うの!?」
「おまえのせいでなくて誰のせいだって言うんだよ!?」
「あーっ、うるさいうるさいうるさーい!」
「……うるさいのはきみたちだよ、湊っち。千ちゃん」
『うわあっ!?』
背後から突然話しかけられて、鍵太郎と光莉は驚いて飛びのいた。
そこにいたのは鍵太郎と同じ低音楽器の先輩、バスクラリネットの高久広美だ。
カフェイン中毒の先輩は、いつものようにコーヒーを飲みながら、後輩二人を見て苦笑いしている。
「あのね。大会の会場で騒ぎを起こしたら、減点もしくは失格になるの。わかってるよね?」
『すみませんでした』
二人で仲良く謝ると、広美はいつものようにシニカルに笑って「ま、気をつけなさいや」と言った。
そして手をさする鍵太郎へ、すすすっと近寄ってくる。
「……どしたの湊っち、手なんか繋いで。なに? 浮気?」
「誰が誰に浮気ですか……っ!?」
やばい。見られていた。焦る鍵太郎に、広美はさらに追い討ちをかける。
「キミのいじらしーい思いに気づいてくれない春日先輩に業を煮やして、ついに他の女の子に手を出しちゃったのかなー、なんて思ったんだけど」
「俺は春日先輩一筋なんで、黙っててもらえませんかねえ! この逆セクハラオヤジ女子高生が!」
「にゃっははー? ドサクサ紛れに衝撃の告白をしてるのは、黙っといてあげようじゃないか」
「カマかけやがったな、この先輩め……!」
広美は基本的に話しやすいほうの先輩ではあるのだが、たまにこうしておっさんっぷりを発揮して絡んでくることがある。
コーヒーで酔っ払ってるんじゃないかこの人、と思うくらい、広美はカップ酒のように缶コーヒーをあおっている。絡み酒ならぬ、絡みコーヒーだ。
「カマかけたっていうか、あたしの真後ろであんなにイチャコラされたら、嫌でも気づくけどねえ」
広美の担当するバスクラリネットは、鍵太郎の吹いているチューバの目の前の席になる。
今まで美里と話してた内容、全部聞かれていたのか。いろんな意味で恥ずかしくて、鍵太郎は広美から目をそらした。
「んふふ。赤くなっちゃって。相変わらずかわいいなー、湊っちは。おじさんニヤニヤしちゃうね。うん、コーヒー飲む? コーヒー」
「飲みませんっ!」
親戚のおじさんばりにコーヒーを勧めてくる広美を振り払って、鍵太郎は大ホールの中に入ろうとした。今まさに、その中で大会の演奏が行われているのだ。
そんな鍵太郎の背中に、広美は声をかける。
「湊っち。演奏中は出入りできないよ」
「……早く言ってください」
人が悪い。ニヤニヤ笑って手招きする先輩の方へ、鍵太郎は回れ右した。
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「あたしはいつも、ここで見てるんだ」
そう言って広美が座ったのは、大ホールの映像が中継されているテレビの前だった。
ライブ映像だ。大ホールの中で直接聞くわけではないが、同じものを聞いていることに間違いはない。
「ホールの中は飲食禁止だからさあ」
冗談なのか本気なのか、広美はコーヒー片手にそう言った。
彼女のコーヒーは日ごとに変わるが、今日はブレンドコーヒーだった。そんな気分らしい。
テレビを見る。そこでは、鍵太郎と同じく高校生たちの演奏が繰り広げられていた。
知らない曲だ。なにやら小難しそうで、難しい顔をして吹いている。
上手いんだけど、なんかつらそうに吹いてるなあ。
そう思ったとき、キッ、と高い雑音がした。
「リードミスだね。クラリネットの誰かわかんないけど、だいぶ緊張してるんだと思う」
広美が冷静に告げる。
一緒に聞いていた光莉が、それに補足した。
「リードミスはウソかホントか、減点対象だって話ね。やっちゃいけないことなのよ」
「……ふーん」
金管奏者である鍵太郎にとって、木管楽器の細かい事情はよくわからないのだが。少なくとも、よくないことであるのはわかった。
その学校の演奏が終わって、次の学校が入ってくる。人が少なくて、出場するのがやっと、というような学校だった。
初めから金賞など目指していないのだろう。人が少なくてもできるような、簡単な曲で――でも、楽しそうに吹いている。
さっきの学校とは、また違う雰囲気だ。決して上手くはないけれど、顔つきが違う。
こういうところの方が好きだな。そう思いながら鍵太郎は演奏を聞いていた。
その中でもやはり、自分と同じ楽器の音に耳がいく。
ぼん、ぼん、ぼん、と弾むように音を出しているチューバ。ちょっとだけ遅れている。きっと、自分たちのように録音して客観的に聞いたりしていないんだろう。
演奏自体は楽しそうなのに。人に聞かせるんだったら、もう少しがんばったほうがいいんじゃないかなあ、と鍵太郎は残念な気持ちになった。
そして、ふと我に返る。
「……なんか偉そうだな、俺」
楽器を始めて半年も経っていないのに、偉そうに批評するなんて。
光莉も自分の楽器の音が気になるのだろう。「トランペット、あんまり上手くないわね」と隣でボソリとつぶやいた。
「銅賞ってとこかしら。まあそんなもんよね」
「……おい、千渡」
光莉の言い方に引っかかりを感じて、鍵太郎は呼びかけた。
「なに?」
「金銀銅とかってその場でランク付けするの……やめてくれないか。なんか気分悪い」
鍵太郎がそう言うと、理解できないといった様子で光莉が眉をしかめた。
「……ヘタクソにヘタクソって言って、なにが悪いのよ」
「うん……そうなんだけどさ」
確かに今の学校は下手なんだけど。鍵太郎自身も、そう思ったのであまり強く言えないところがあるのだけれども。
そうあっさり判断しているのを見ると、なんかそれも違うんじゃないか、という気になるのだ。
「うまく言えないんだけどさ――なんか人の悪口聞かされてるみたいで。あんまし、気分よくない」
「悪口なんかじゃないわよ」
「そうなんだろうけど……そうなんだろうけど」
やはり、うまく言えないのだが。鍵太郎は頭を押さえながら、つっかえつっかえ考えて話す。
「なんか……キツいっていうか。批判ばっかりでその先がないっていうか……あんまり容赦がなさすぎて、傍で見てて、なんか怖いっていうか……」
「あんた、なに言ってんの? 真剣にやってないやつらを批判して、なにが悪いっていうの?」
「……その言い方がさ」
上手いやつらは下手なやつらになに言ってもいいんだ、みたいな雰囲気を助長させて。
「だからおまえは……あんな風に失敗を許されなくて、苦しんでるんじゃないか」
妥協を許さないという姿勢はわかるのだが――彼女はその思想の刃を他人に突きつけながら、それによって自分もダメージを受けているような気がするのだ。
失敗したな、ヘタクソ――そう斬って捨てられたときの気持ちは、光莉自身が一番よく知っているはずなのに。
それなのに――相変わらず、人を批判することはやめない。
それは果たして、彼女のためなのだろうか。
鍵太郎はそう思って、光莉にそう言ったのだが――
「……ヘタクソはヘタクソ。努力しないほうが悪い。それが『吹奏楽部の常識』よ」
「それ、自分で言っててつらくないのか、おまえは……」
だから、なにを言われても仕方ない――なんて、そんな風に思ってるのなら。
なんで、おまえは楽器ケースの影に隠れたんだ。
泣きそうな顔をしていたのは、なんだったんだ。
その考え方そのものが、おまえ自身を苦しめているんだろうに――
「……知った口きくんじゃないわよ。初心者のクセに」
「……」
拒絶されて、鍵太郎は押し黙った。
確かに、鍵太郎と光莉では吹奏楽に費やしてきた時間と、その密度が違いすぎる。
技術面でも、精神面でも、いまの心の距離も――とても、遠い断絶を感じて、悲しい気持ちになる。
言葉が出なくなった。沈黙を埋めるように、光莉は言う。
「……ばっかみたい。私、戻るわ。あんたはここで他の演奏聞いて、もっと勉強しなさい」
「一人で戻れるのか」
「馬鹿にしないでよね。あんたなんかいなくても、大丈夫なんだから」
「……」
さっきまでのしおらしい様子はどこにもなかった。光莉は一人でさっさと、楽器置き場のほうに戻っていってしまった。
「……千渡」
その背中を見送って、鍵太郎はつぶやいた。
こんなことになるなら、見に来なきゃよかった。
一緒に戦ってやると言っておきながら、結局自分は、彼女を批判しただけだった。
そう思っていると、広美が話しかけてくる。
「いろんな考え方があるんだよ、湊っち。千ちゃんには千ちゃんの歩いてきた道がある。簡単に変えられはしないさ」
彼女はコーヒー片手に、中継の画面を見ていた。
その中にはいろんな学校がいて、いろんな演奏をしている。
広美はそれを画面の外から、冷静に見つめていた。
「湊っち、キミの考えていることは間違ってないと、あたしは思う。いろんな演奏があるように、いろんな意見もあってしかるべきだと思う。
結果が全てという人もいるし――過程が大事という人もいるね。色々だよ。ほんと、色々」
いろんな人がいて、いろんな意見があって――それが渾然一体となって、演奏は回っていく。
世界は回っていく。
「いろんな人間がいる。性別も楽器も考え方も違うんだ――受け入れられないのは当然だよ。千ちゃんが悪いわけじゃない」
「わかってます。でも、あのままじゃいつまでも苦しいと思うんです、千渡は……」
広美の隣に座って、鍵太郎は言った。
なんとか、光莉の力になってやりたいが――どうすればいいんだろう。
「まあ、そこは彼女の問題だ。自分で直そうと思わない限り、直らないよ」
「先輩は……冷静ですね」
普段のベロベロに酔っ払った口調とは裏腹に、高久広美の考え方は大人びたものだった。
ひとつしか歳が違わないのに、なんでこの人はこんなにクールなんだろう。
それこそ、経験の差なのだろうか。そう思っていると、広美は言った。
「湊っち。よーく覚えときなさい。低音楽器ってのは、つねに
「どっかで聞いたようなセリフなんですが……」
「気のせい気のせい。あたしは師匠ではない」
「やっぱ知ってるんじゃないですか」
ここにも魔法使いの師匠がいやがった。かつて美里に、魔法のような奏法を教えてもらったことを思い出す。
その美里とはまた違ったタイプの低音吹きは、シニカルに笑ってコーヒーを飲んだ。
「湊っちに問題があるとすれば、優しすぎることかなあ。春日先輩と一緒だね」
「それは、問題なんですか……」
自分は、春日美里のその優しさに救われたのだが。
それが問題だというのか。
「
美里の考え方すら、ひとつの意見に過ぎない――そう言われて、鍵太郎は思わず反論した。
「……その甘さがなければ、動けない人間だっています」
俺みたいに。
そう言うと、「うん、そうだね」と広美は笑った。
甘いのか苦いのか――ブレンドコーヒーを飲み込みながら。
「ひとつの考え方に救われたり、間違ってると思ったり――色々だね。
だからもっと、いろんな考え方を認めたいもんだね。豆のブレンドで、新しい味が生まれるように」
批判しあって終わりではなく。
自分とは違うものと繋がって、作り上げるものがある。
「ま、そこまでいいブレンドしてるとこなんて、そうそうないけどね」
テレビの中の理想だって、そうそう上手くはいかないさ――と、広美はライブ中継を見ていた。
やがて、演奏が終わった。広美が立ち上がる。
「さて、そろそろ時間だよ湊っち。楽器置き場に戻ろう」
「……はい」
広美に連れられて、鍵太郎もテレビの前から楽器置き場へと引き返した。
演奏が終わって、ホールの中の人間も出てくる。ごった返すロビーの中を、二人で進む。
「……正直、なにが正しいんだかわからなくなってきました」
人が溢れて、意見が溢れて。自分の中の整理が追いつかない。
金賞さえ取れれば、美里の引退は遠のき、もう少し一緒にいられる。
コンクールなんてそれだけだと思っていたのに――
「まあ、あたしの言うこともひとつの意見に過ぎないよ。だから湊っちは湊っちで、本番は好きなようにやればいいの。おけ?」
「……はあ」
今まで散々言っておいて、なんなんだろうなあ、と思う。
自分はまだ、そこまで達観できていない。
迷ってばかりで、どうしたらいいかもわからない。
「……それでも、やるしかないのか」
今までどおりに、自分たちらしい演奏をするしかない。
思っていることを、隠さずに言って。
それを、認めてもらいたい。
美里の考え方が正しいと――認めてもらいたい。
今までどおり、それでいいはずだ。
大きな、大きなこの舞台で。
ただひとつ、信じるものを歌い上げればいい。
ふと、鍵太郎は外の景色を見た。
外は相変わらず、先が見えないほどの雨が降っている。
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