第56話 余白への書き込み

 色画用紙を渡された。

 湊鍵太郎みなとけんたろうはその鮮やかな水色に、きょとんとした。

 今日は吹奏楽部の夏の大会、吹奏楽コンクールの本番の日だ。

 楽器をトラックに積み込んで、これからバスで会場へと向かう。

 時間に少し余裕があるなと思ったら――先輩から、色画用紙を渡されたのだ。


「湊くん。これに楽譜を貼ってください」


 同じ楽器の先輩の春日美里かすがみさとがそう言った。見れば、周りの部員も同じように色画用紙を持っている。

 首を傾げる鍵太郎に、美里は説明する。


「この色画用紙を楽譜の台紙にして、本番は演奏するんですよ。楽譜がバラけて、譜面台から落ちたりしないように」

「あ、そうなんですね」

「あとは、見た目が揃うのでなんとなくかっこいい、みたいな意味もあります」

「へー」


 一体感を出すための演出らしい。音楽室にあったセロテープで、楽譜を色画用紙に貼る。

 色画用紙はB2の大きさだろうか。かなり大きいので楽譜を貼ると、相当な余白ができる。

 なんか台紙があると、楽譜の雰囲気が変わるな。そう思っていると、窓の外を見ていた部員が言う。


「なんか、雨降りそうだね」


 八月の上旬だ。夏の暑さは天気を不安定にさせて、最近は急に雨が降ることが多くなっている。

 早めにバスに乗り込んだほうがよさそうだ。鍵太郎は楽譜と荷物を持って、音楽室を出た。



###



 全員が乗り込んで、バスは大会の会場へと出発した。

 バスの中は女子部員連中の黄色い声で溢れている。これから本番――というか、コンクールという場に戦いに赴くのだ。神経が興奮してみなハイテンションになっているらしい。

 こういうのなんて言うのかな。

 討ち入り?

 赤穂浪士みたいにはいかないんだなあ、と鍵太郎は姦しく騒ぐ女子部員たちを見た。

 人数も四十七人もいないもんなあ、と時代劇好きらしく考えていると、三年生の男子部員、滝田聡司たきたさとしが話しかけてくる。


「湊、楽譜よこせ。書き込みするぞ」

「書き込み?」


 聡司は油性ペンを持っていた。なんだろうと思いつつ楽譜を貼った色画用紙を渡すと、聡司は持っていたペンで余白に書き込みをし始める。

 『低音と打楽器 一緒にがんばろうぜ』――そう書かれた楽譜が、戻ってきた。

 ペンの蓋を閉めて、聡司は言う。


「コンクールの日は、いつもこうなんだ。バスの中や待ち時間で、空いてるところに寄せ書きみたいにメッセージを書く」

「へー……」


 空のように空虚だった余白が、聡司のおかげでひとつの賑わいを得た。


「本番のとき、不安になったらそれ見ろ」


 本番のステージ。演奏中は声を出せないが。

 みんなおまえのこと応援してるから、大丈夫だ――最後になるかもしれない戦いに向けて、先輩は照れたようにペンを弄びながら言った。


「特に打楽器は、バス降りたら本番まで会えないからな。今逃すと書いてやれないからよ」


 打楽器は、管楽器と楽器の搬入口が違う。バスを降りたらそのまま別行動になってしまうため、下手をすると本番後まで話すことができない。

 聡司からペンを借りて、鍵太郎も聡司の楽譜に書き込みをする。

 ティンパニ。今回の曲では、かなり重要なポジションを務める楽器の譜面だ。

 鍵太郎はこの日初めて、他の楽器の楽譜を見た。自分と同じく、大量の演奏上の注意を記した譜面。

 その台紙の余白になにを書こうかと悩み、鍵太郎は『いつもどおり がんばりましょう』と書いた。渡した後、もっと気の利いたことを書けばよかったと思った。

 けれど先輩は、その書き込みを見て普通に笑う。


「ん。ありがとな」


 どうすればよかったのだろう。こんなのでよかったのだろうか。

 もっとガツガツとした、例えば『絶対金賞取りましょうね!』とか、『いざ、東関東!』とか、そういう感じのことを書いたほうがよかったのだろうか。

 そう言うと、聡司は「ばーか」と笑った。


「そんなの、オレらのキャラじゃねえよ。『いつもどおり』、上等だ。いつもみてーに、騒がしくて、馬鹿みたいに突っ込んでいく演奏すりゃいいんだよ。あいつらみたいに」


 聡司が顎で指した先には、きゃあきゃあ騒ぎながら譜面に書き込みをし合う、女子部員たちの姿があった。

 騒がしくて、馬鹿みたいに楽しそうな。

 最後になるかもしれないなんて、微塵も感じさせなくて――ただひたすらに、今を笑い合っている。


「な、馬鹿だろ? あんなんでいいんだよ」

「そう、ですね」


 おどけて肩をすくめる聡司へと、鍵太郎はうなずいた。

 しかしそんな二人へと、一斉に女子部員たちの視線が向く。

 びくり、と反応する男子部員二人に、絡みつくような言葉が次々とかけられた。


「おやー? なーんか馬鹿にされたような気がするなあ」

「ていうかなに? 二人とも超仲良しそうで、怪しいんですけどー」

「守れー! 変態滝田から、湊くんを守れー!」

「え、ちょ……」


 何人もの女子部員たちからにじり寄られて、鍵太郎と聡司は後ずさった。なんというか、貞操の危機すら感じる。

 女性陣に襲い掛かられて、楽譜が奪われた。


「譜面をよこせー! 書き込んじゃうぞー!」

「汚せ汚せー!」

「こっちにも貸してー!」

「いやああああっ!?」


 書き込みをされまくる譜面を見て、鍵太郎は女の子のように悲鳴をあげた。



###



 ようやく戻ってきた楽譜は、空白がほぼないほど書き込みをされていた。

 『まじチューバ! がんばれ!』『はりきっていこう!!』『低音スゲエぞ!』……などと、テンションの高い文句が並んでいる。

 苦笑しながらそれを見ていると、『みんなじゃがいも がんばろうね』という書き込みが目に入った。小さく控えめな文字だ。下に『さくや』とひらがなで書いてある。

 同い年の宝木咲耶たからぎさくやの書き込みだ。緊張しがちな自分のために、こんな風に書いてくれたのだろう。

 しかし、じゃがいもって。そう思っていると、明らかに誤字であろう書き込みを発見した。

 『すごい熱いでガンバレ!』と書いてあるこれは、たぶん『すごい勢いで』の間違いではないかと思う。

 『BYリョーコ』と書いてあるので、トロンボーンの浅沼涼子が書いたのだろうが……あいつ相変わらずアホの子だなあ、と鍵太郎はおかしげに笑った。本番で楽器のスライドを吹き飛ばさないかだけが心配だ。

 その横に『しっかり支えなさいよ!』と書いてあるのは、名前を読むまでもなく千渡光莉せんどひかりの書き込みだろう。いかにも彼女らしくて、逆に笑ってしまう。

 さて、先輩はなんて書いてくれただろう――鍵太郎は美里の書き込みを探した。

 果たしてそれは、楽譜の始まりの部分に、最初に絶対目にする部分に書かれていた。



『一緒にがんばりましょうね  美里』



「――言われなくても!」


 鍵太郎は不敵に笑った。これさえあれば百人力だ。



###



 雨が降ってきた。そんな中、バスは本番の会場へと到着した。


「じゃあな。本番で会おうぜ」


 そう言って、聡司たち打楽器パートは鍵太郎たち管楽器組と別れていく。

 ここは県予選と同じ会場だ。鍵太郎は雨の中を急いで、楽器を運んでいった。

 楽器置き場に着いて、決められた場所に楽器を置く。ケースについた水滴を拭いて、その後に自分の身体を拭いた。順番が逆のような気がしたが、なぜかそうしてしまった。

 リハーサル室への誘導開始まで、まだだいぶ時間がある。予選のときのようにここで楽器の見張りでもしているか、と思ったとき、同い年の千渡光莉せんどひかりに話しかけられた。


「ねえ。他の学校の演奏、見に行きましょうよ」

「えー……」


 正直、めんどくさい。なんで本番の直前に、自分の学校以外の演奏を聞かねばならないのか。

 不満げな声をあげると、光莉は「なによー」と頬を膨らませた。


「他の学校の演奏聞くのも、勉強よ。いいから、い、一緒に……行きましょうよ」


 ここで断ったら、いつものように怒鳴られかねない。鍵太郎はため息をついて、「わかった。行くか」と言った。光莉の顔が輝く。


「ほんと!?」

「ここで嘘ついてどうする」

「行こ! 行こ!」


 なにやらテンション高く、光莉が先に行ってしまった。きっと本番で、あいつも神経昂ってるんだろうなあと思う。


「なにしてんの! 早く来なさい!」

「へいへい」


 パンフレットと入場用のチケットを持って、光莉の後についていく。楽器置き場から演奏会場である大ホールまでは少し歩く。

 正面玄関のある、大きなエントランスロビーを横切る。厚手の絨毯が敷かれていて、足にもふもふと慣れない感触を伝えてきた。

 絨毯の上を歩いていると、大ホールの入り口が見えてくる。チケットのもぎり係だろう、制服姿の女子生徒が何人かいるのが見える。

 県予選のときも、どこかの学校の吹奏楽部の生徒が大会の補助員をしていた。そのときとは違う学校のようだが、ご苦労なことだ。

 そんなことを考えていたら、前を行く光莉の歩みがぴたりと止まった。


「……どうした?」


 そのまま立ち止まっている光莉に、尋ねる。

 彼女は少しして、こちらを振り返った。様子がおかしい。

 その顔に、さきほどの上気した様子はない。

 完全に固まっている。

 いや――震えている?

 心配になって鍵太郎はもう一度、光莉に訊いた。


「どうしたんだ、せん――」

「名前を呼ばないで」


 そんなになっているのに、彼女はぴしゃりと言ってきた。

 青い顔をして、こちらを睨んでいる。


「お願いだから、言わないで」

「……わかった」

「……戻りましょう」


 なんなんだ。来た道を引き返す彼女へと、またしてもついていく。光莉の足はだんだん速くなっていった。

 まるで、なにかから逃げるように。


「どうしたんだよ、いったい」


 楽器置き場に戻ってきて、鍵太郎は光莉に言った。彼女は楽器ケースの影に隠れ、膝を抱えてうずくまっている。

 普段の強気な彼女からは、ちょっと想像がつかない姿だ。いや――

 少し前、老人ホームでの本番の後に、こんな彼女を見たことがある。

 中学のときのコンクールの本番で失敗した自分を、責め続けていたあのときの彼女が。

 その失敗をかつての仲間に許されていないと語った彼女が、確か、こんな顔を――


「……宮園高校」

「え?」


 出し抜けに知らない学校の名前を出されて、鍵太郎は聞き返した。

 いや、知らない学校というのは少し違う。宮園、という名前には聞き覚えがある。

 光莉がいた中学。吹奏楽の強豪校の名前は。

 宮園中学。

 そして宮園高校というのなら――そこは。


「……今日の大会の補助員は、宮園高校の部員たちよ。あそこには、私のいた宮園中の部員たちが、何人も入ってる。

 県下トップの強豪校。選ばれた人間しか入れない、エリート集団。よりによって……何で今日、あいつらに会わなくちゃいけないの」


 光莉は補助員たちの制服を見て、宮園高校の存在に気づいたのだ。

 かつて迷惑をかけた人間と、鉢合わせをするかもしれないという恐怖に追われ――光莉は思わずここに、逃げてきてしまった。

 そんな彼女を見下ろして、鍵太郎はどう声をかけようか迷っていた。

 彼女が中学のときなにがあったのか、具体的には聞いていない。

 しかしこの怯えようを見るに、相当、責められたことが伺える。

 先の大会に抜けるのが当たり前という環境の中で、してはならないミスを犯した。

 それは光莉の落ち度だったかもしれない。

 だが――


「……別にさ、そんなにビクビクすることないんじゃねえかな」


 鍵太郎は座り込んで、小さくなっている光莉に言った。

 吹奏楽の世界に入って、半年も経っていないけど。

 光莉がこんな風に、過去の失敗に怯え続けているのは、違うんじゃないかと思った。

 自分の信じている吹奏楽おんがくは、もっと優しくて、強くて、かっこよくて。

 全部を受け入れてくれる。

 そのはずなのに。

 信じている先輩は、そんな人なのに。

 今の光莉は、それとは別のものに追い立てられているように見えた。

 自分の知らない気持ち悪いものに、責められ続けているように感じた。


「そんなの、おかしいだろ」


 かつて自分も、一度戦いの場で挫折したことがある。

 それを美里に許されて、今、この場に立っている。

 だから光莉だって、許されたっていいんじゃないかと思うのだ。

 少なくとも、こんな風に見つからないように隠れていなくたって、いいんじゃないかと思うのだ。

 光莉のこの姿は、かつての自分を見ているようで、嫌だった。

 決して許してもらえないのなら――美里に許されたことそのものが間違っている。そう言われているようで、とうてい受け入れられなかった。


「気にすることないんじゃないかな。もう。昔どんだけひどい失敗してても、それと向き合いながら今も楽器吹いてるんなら、いいんじゃねえかな」

「……」


 光莉からの反応はない。それでも、鍵太郎は諦めないで続けた。

 彼女から昔の失敗の話を聞かされたときと、同じように。

 おまえを支えると、約束したときのように。


「おまえはもう、顔を上げていいと思う。辞めそうになっても、諦めないで楽器を吹いてるんだったら、がんばってるんだったら、もう、許されてもいいだろ」


 光莉が少しだけ顔を上げた。だがまだ、その顔には生気がない。


「……許す許さないは、私が決めることじゃないよ」


 まだそんなこと言っているのか。

 鍵太郎はそんな彼女を見て、眉をしかめた。

 ここはもう、おまえのいたところとは違うのに。

 失敗しようがなんだろうが、音を出さなければ始まらないのに。


「だったら一緒に戦ってやるよ」


 一向に立ち上がる様子のない光莉を見かねて、鍵太郎は強い調子でそう言った。


「野球応援のとき、おまえ言ってくれたよな。俺の怪我の話を聞いてる以上、ちゃんと立ち直ってもらわないと後味が悪くて困るって。

 俺だってそうだよ。おまえの昔の話を聞いている以上、そんな風にいつまでも下向いてられたら、気分悪くて困るんだよ」

「でも……」

「楽譜を貸せ」


 鍵太郎が言うと、光莉はのろのろと、自分の楽譜を差し出した。

 そこの余白には、他の部員からのメッセージが、大量に書かれている。

 『光莉ちゃん、がんばろうね』『のびのび行こう!』『今までで一番いい演奏ができますように』――そんなことが書かれた中に、『おまえは今は俺たちの仲間だ。忘れんな』と書き込んで、光莉の前に突きつけた。


「見ろよ。おまえの味方になってくれるやつは、今ここにいるんだよ。つらくなったらこれ見ろ。本番中に駄目になりそうだったらこれを見ろ。

 支えてやるって約束したよな。だったら支えられろよ。だから降りるなよ。逃げんなよ。堂々とした顔で吹けよ。

 昔のやつらがなに言おうが、そんなもん知るか。おまえはおまえらしく、いつもみたいに高慢ちきに、俺ら低音の上に乗ってりゃいいんだよ」


 光莉は楽譜と鍵太郎の顔を交互に見ていたが――やがて、差し出された楽譜を受け取った。


「……うん」


 楽譜に書き込まれたメッセージを見つめて、光莉が小さくうなずく。

 そんな彼女に、鍵太郎は手を差し出した。


「ほら。そうと決まれば行くぞ」

「……どこに?」

「大ホール。おまえが言ったんだろ。他の学校の演奏聞きに行くんだって」

「……うん」


 差し出された手を握って、光莉は立ち上がった。


「大丈夫だ。一緒に行ってやる」

「……ありがと」


 光莉は鍵太郎の手を握ったまま、しおらしく答えた。

 なんか調子狂うなあ、と鍵太郎は思う。いつもだったら、「気安く触んじゃないわよ!」とか、顔を真っ赤にして怒鳴られそうなのに。

 光莉の手を引いて、鍵太郎は歩き出した。

 周りを見れば、みんな、光莉と同じだ。周囲からの評価を気にしている人たちが多い。

 どことなく自信なさげにしている人。逆に、自信たっぷりに歩いている人。

 いろんな人や意思がぶつかり合って、誰か笑って、誰かがうつむく。

 会場はどこも、張り詰めた緊張感が漂っていて――そんな中を、二人で進んでいく。

 なんだろう。いつもの雰囲気と違う。

 騒がしくて、馬鹿みたいに楽しそうな、うちの部活かぞくみたいな雰囲気がなくて。

 そんなことをしたら、むしろ怒られそうな。

 場違いのアウェーに来たような、そんな感覚があった。

 けど、それでも吹かなくちゃいけない。

 大丈夫。今の俺たちには、みんながついてる。

 あの楽譜を本番で見たら、きっと大丈夫。

 『一緒にがんばりましょう』と――先輩は言ってくれた。


「だから千渡、もう少し堂々と歩いてほしいんだが……」

「……」


 光莉は無言のまま、繋いだ手をぎゅーっと握ってきた。

 なんなんだ。おまえ、普段そんなんじゃないだろう、と思う。

 もっと好きなように、いつものように怒鳴ってくれれば気が楽なのに。

 なんでそうしてくれないのか。

 この会場の雰囲気が――光莉をそうさせるのか。

 今までと違う感じが。

 鍵太郎はエントランスロビーから、外の景色を見た。

 雨は強くなっていて――嵐のように、吹き荒れていた。

 なんでだろう。

 気持ち悪いな。

 絡みつく湿気を振り払って、鍵太郎は光莉と一緒に大ホールへと入った。

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