第55話 ろくおん!

 カチリ、とストップボタンを押す音がした。

 録音機が止まる。吹奏楽部顧問の本町瑞枝ほんまちみずえが、「よーし、ちょっと待ってろ、今の聞かせてやる」とそれを操作し出した。

 吹奏楽部の夏の大会、吹奏楽コンクール直前。

 湊鍵太郎みなとけんたろうたち吹奏楽部の面々は、自分たちの演奏を録音していた。

 音楽室は冷房がない。録音機の再生待ちの間に、部員たちが窓を開ける。

 風が入ってきて、汗をかいた肌を撫でていく。鍵太郎はスポーツドリンクを飲んで一息ついた。

 鍵太郎は、演奏を録音するのが嫌いだった。録音をすると、していないときに比べて演奏の失敗率が高いのだ。

 それは他の人間も同じだ。余計なプレッシャーがかかっているせいなのか、音がカスカスになったり、高い音を外したりする。

 鍵太郎自身も音がうまく出なかったり、リズムが転んだり、本番じゃないのになんとなく焦ってしまって失敗することが多かった。

 こんなことばかりで、なんとなく欲求不満だ。

 窮屈さを感じる。もっと思いっきり吹きたいのに、なにかが邪魔をしている。

 それがなんなのか――よくわからない。



###



「……なんで、録音なんてするんですか?」


 鍵太郎は隣の先輩に、不満げにそう訊いてしまった。

 同じ楽器の先輩、春日美里かすがみさとは、そんな後輩に苦笑して答える。


「人に聞かせる以上は、客観的に自分の音を聞きませんと。どこを直していいかわかりませんから」

「でも録音してると、みんな焦って失敗ばっかりです」

「本番でそうならないように、今失敗してると思ってください」

「ううー……」


 美里はさすが三年生だけあって、録音には慣れているらしい。落ち着いて大人の対応で、鍵太郎に対処している。

 これ以上駄々をこねるような言い方をするのは、またしても子どもみたいでよろしくない。そう思った鍵太郎は渋々、それ以上言うのをやめた。

 みんな、録音されていると緊張して、普段の実力が出せていない。

 だからなのか、ホール練習で経験したような、全員との一体感がやってこない。

 美里の言うことは理解できるのだが、それでも、やりたいことができないストレスばかりが溜まっていく。

 やがて、今の演奏が音楽室のスピーカーから流れてきた。それを聞いた部員たちから、「うっ……」「ぐっ……」「ウソ……私の音、低すぎ……?」などという声が聞こえてくる。

 鍵太郎も楽譜を見ながら、再生される演奏を聞く。


「……聞こえない」


 トランペットなどの高音楽器の音はよーく聞こえてくるのだが、鍵太郎たちチューバの低音は、耳を澄ましてもあまり聞こえない。


「聞こえませんねえ」


 美里も鍵太郎の言葉にうなずく。


「マイクはどうしても、低音を拾いにくいですからねえ」


 そういうものらしい。録音しているのに自分たちの音が聞こえないというのは、反省のしようがないのではないかと思うのだが。

 さっきの合奏で少し失敗したところも、よく聞こえずに過ぎていってしまった。

 正直に言うと、内心、ほっとした。聞こえなくてよかったと、そんなことを考えなかったといえば嘘になる。

 失敗した演奏なんて、本当は聞きたくなかった。

 録音された演奏はやがて、低音がメロディーをやっているところにやってきた。



###



「……よく聞こえない上に、遅かったですね」


 録音を聞き終えて休憩に入って、鍵太郎は美里にそう言った。

 マイクが低音を拾いにくいとはいえ、そんなに俺の音は小さいのか。

 鍵太郎がそう思い悩んでいると、美里が言う。


「聞こえないのは録音機や環境のこともあるので、あまり気にすることはありませんよ。むしろ問題なのは、遅く聞こえるということですね」


 先ほどの録音を聞く限り、かなり低音は遅く聞こえた。「ここ!」というところに音が来ないことに、鍵太郎は驚きを隠せなかった。

 客観的に聞くと、こんなに遅れて聞こえるのか。

 自分が考えていたものと実際の演奏に、あまりの違いがある。

 知らなかった衝撃の事実を、機械にあっさりと突きつけられたようなものだ。合奏のときは気分よく吹いていても、後で録音を聞くと調子っぱずれに聞こえるのは、かなりショックだった。

 超恥ずかしい。なにやってんの俺――と思う。

 失敗するし恥ずかしいし。本当に録音は嫌いだ。

 そう思っていると、美里が言う。


「物理的に、遅く聞こえるのはしょうがない楽器なんですよ、チューバって。人の耳は低音より高音を捕らえやすいものですし、大きな楽器なのでそれだけ空気の流れが遠くなって、音が出るのに時間が掛かります。それを計算に入れて音を出さないといけません」


 その事実を踏まえて、どうするか。

 不利なことを承知で、どう出るか。

 美里は語る。彼女にしては珍しく、厳しい顔で。


「対策は色々あります。息のスピードを上げて、楽器から音が出るまでの空気の流れを速めたり。タイミングを前倒しして、音の出だしそのものを早めたり。

 今回はたぶん、息のスピードを上げたほうがいいんでしょうね。わたしはどうも、のんびりした音になりがちなので……。湊くん、ごめんなさい。まずわたしができてなくて」

「いや、なに言ってるんですか先輩!?」


 鍵太郎にとって、美里は目標としている人だ。その人物にそんなことを言われたら、どうしたらいいのかわからない。

 うろたえる鍵太郎に、美里は「いいんですよ。そのための録音です」と苦笑した。

 それが鍵太郎には耐えられなかった。

 先輩がそんな顔をすることが、聞くに堪えない演奏よりも耐えられなかった。


「そこまでわかっていながら対策が不足していた。それがわたしの失敗です。このことが本番前にわかっただけ、よしとしましょう。次の合奏ではこうならないようにすればいいんです」


 次の合奏では。次の演奏では。

 次のコンクールでは。

 先輩にこんな顔をしてほしくない。

 だから、考えろ。

 先輩はどうすれば、笑ってくれる?

 美里は前に言っていた。「できないのを素直に認めて、できるように練習することが、かっこいいことなのですよ」と。

 できないのを認める。それが、こういうことなのだろう。

 直視できないものが映っている鏡を、あえて見るような作業。

 それが録音だ。いたたまれなかろうが恥ずかしかろうが、自分の音を磨いて純化していく。

 それはきつくて大変だけども、必要なこと。

 確かに演奏している最中は、自分の音を客観的には聞けない。直したくてもどこを直せばいいのかわからない。

 だから、録音して後で確認する。

 コンクールというからには、当然審査員が点数をつける。

 それで高得点が叩き出せれば、次の大会に進める。

 だから、どうしてこんな嫌なことをやるのかと訊かれれば、この先輩の答えはひとつ。

 かぞくのためだ。

 うちのかぞくはすごいんだぞ――と、美里はコンクールのステージで、堂々と主張したいのだ。

 そう、美里は前に鍵太郎へと言っていた。

 多くの人に、川連第二高校の演奏を聞いてもらって。

 うちの部活かぞくはすごいんだぞと――たくさんの人に、そう言うため。

 そのためには、聞いている人全員から認められる演奏が必要だ。

 その未来のために、美里は今聞くに堪えない演奏を聞いて、改良に改良を重ねている。

 それがかっこわるいなんて、そんなわけがあるか。

 今かっこわるくても、それがどうした。

 うちの先輩は、優しいだけじゃなくて。

 誰よりも強くて、かっこいいんだ。

 鍵太郎は歯噛みした。それに比べて、自分はなんて狭量なものか。

 千人以上入る大会の会場で、この人はすごいんだぞと言ってやると、あのとき誓ったじゃないか。

 それを忘れたわけではない。けれどあまりに自分の演奏が不甲斐なくて、苛立ちのほうが先に来てしまった。

 肝心なことを忘れるなよ。

 それで大事なものが見えなくなってたなんて――本当に俺、かっこわるい。

 鍵太郎は自分を叱咤した。さっき失敗したのが聞こえなくてよかった、などと思ってしまったのが恥ずかしくなる。

 それで先輩が笑ってくれるなら、失敗するのが嫌だからとか言ってる場合じゃないのだ。

 三年生の美里にとって、今度のコンクールは最後の大会だ。

 全ては、本番のたった数分のため。その瞬間のために心血を注ぐ。

 その最後の舞台を、笑って降りられなくてどうする?

 そう。最後の――

 その単語が、鍵太郎の胸に突き刺さる。

 目標としている、大好きな人。

 その人が隣にいなくなったら、自分は――どうなってしまうのだろうか?

 そこまで考えて、鍵太郎は首を振った。

 今はこんなことを考えている場合ではない。目の前に迫った本番に集中しなければ。

 そう。この録音から反省点を洗い出して、次はこうならないように対策を重ねる。

 それが今やるべきことだ。

 だからかっこわるくても、今は一歩を踏み出せ。

 本番の後に――この人に笑ってもらうために。


「……わかりました。次は遅れて聞こえないように、がんばります」

「はい。がんばりましょう」


 鍵太郎の言葉に、美里は笑顔でうなずいた。

 そう。少し変えるだけで、こんな風に笑ってもらえる。

 それなら、今つらくても、見たくない鏡をちょっと我慢して見てみようじゃないか――そう思った。



###



 休憩が終わって、また合奏が始まる。録音機のスイッチが入れられた。

 覚悟を決めたはずなのに、いざとなると焦りが出る。

 堂々としたいのに、なぜだろう。

 練習が足りないというより、なにかを根本的に見落としているような。

 でも、それがなんなのか――わからない。

 ぼんやりとした不安を振り切るために、鍵太郎は大きく強く、音を出した。

 なにか。なにか。なにかを変えなければ。

 がむしゃらに出した、大きな音。

 後に録音でそれを聞いて、彼はひどくへこむことになるのだが。

 それもまた――今後の演奏のための礎に過ぎない。

 自分の音を直に聞くのは、夏の太陽を直視するようなものだ。

 目がくらんでなにも見えない。

 けれど、見えないなにかを変えるため。

 冷房のない音楽室で、鍵太郎は夏の太陽に手を伸ばすような作業を続けた。

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