第54話 レインボーカキ氷
夏休みに入っている。
しかし
理由は簡単。部活である。
吹奏楽部の夏の大会、吹奏楽コンクールは、八月上旬に行われる。先日予選を抜けたので、今度は本選に向けての練習になっていた。
あと二週間。この時間で、できるだけ演奏のレベルを高めなくてはいけない。
金賞を取って県の代表になれれば、さらに先の大会に臨める。
そうすれば、大好きな先輩の引退は、しばらく遠のく。だから鍵太郎は毎日学校に通って、朝から晩まで楽器を吹き続けていた。
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「確かにこの三年間、夏休みなんて楽器吹いてた覚えしかありませんねえ」
のんびりとそう言ったのは、その当の鍵太郎の思い人、
同じ楽器の先輩で、三年生である。
「こんなに暑いのに、海もプールもそういえば、行った覚えがありません。水着とかも買ったことがないですね」
「水着……」
ごくり。
美里の出るとこ出ているスタイルを見て、鍵太郎は思わず唾を飲み込んだ。
我に返って目をそらした後も、美里の水着姿(想像)が頭から離れない。思想犯と言われようが、こればっかりは健全な高校一年生としては、いかんともしがたいことなのだ。
照りつける日差しの中、砂浜で、白いビキニを着た美里が笑顔でこちらに走り寄ってくる。
そして転ぶ。
たぶんきっと外れる。
鼻血が出そうだった。夏の日差しのように、刺激が強すぎる。
鍵太郎は顔の前で手を振って、妄想を追い払った。練習だ、練習。さっき美里は言っていたではないか、「吹奏楽部に夏休みはない」と。
海もプールもお預けだ。吹奏楽部の青春は音楽室に詰まっている。夏休みになって、もう生活がそれ一色に塗りつぶされている気すらしてきた。
「むしろ俺たち、授業があるときより練習してますよね。放課後だけだった部活が、朝から晩までに拡大してますし」
おかげで、休んでいる気はしない。毎日毎日学校に通って、本当に夏休みに入っているのか疑わしいくらいだ。
クラスの他の友達は、海に行ったり、山に行ったり、花火大会に行ったりしているのだろうけど。
そんなのは全部そっちのけで、冷房のない音楽室で楽器を吹いている。
まあね。別にいいんだけどね。先輩と一緒にいられるからね。
そう思いつつも、でもちょっとだけ、いいなあなんて思ったりする。
美里も同じ気持ちのようで、うんうんとうなずいていた。
「確かに少しだけ、吹奏楽部でない子の話をうらやましく思うときはあります。ですがわたしたちはわたしたちで、その人たちができないことをやっているわけですから。いいのですよ。お土産をもらって話を聞くくらいで」
「そうですね」
鍵太郎はうなずいた。ここを放り出して遊びに行っても、音楽室のことが気になって仕方がないだろう。
さすが、三年間この部活をやり続けてきた部長は言うことが違う。そう思っていると、美里は「そうです、お土産があれば」と続けた。
「夏コミ一日目で漬物石のように薄い本を買い漁ってきた友達から、お勧めのものを貸してもらえれば、わたしはそれでいいんです」
「いいんですか?」
それは青春なのか? と、先輩とその友達が心配になった。
それはさておき、大会が控えている以上は、少し寂しいけれど音楽室にこもるしかないのだろう。そう思っていると、「あ、でも」と美里が言った。なにか閃いたようだ。
「ひとつだけ、夏らしい思い出がある場所があります。ささやかなものですが、練習が終わったら行ってみましょうか」
「へえ、どんなとこですか?」
「それはですねえ――」
鍵太郎の問いに、美里は答えた。
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「ここです」
その場所に着いて、美里は鍵太郎にそう言った。
学校の近くにあるホール。この間練習をしたそこの、すぐ近く。
古い民家のような店を、鍵太郎は見上げた。
トタン屋根の、安っぽい造り。開けっ放しにされたガラス戸。
そこには、『氷』と書かれた旗が下がっている。
カキ氷屋だ。
「昔、先輩たちに教えてもらったお店です。すっごい大きなカキ氷が出てくるんですよ!」
よほど大きなカキ氷なのか、美里は興奮気味にそう言っている。
部活が終わって日も暮れてきているとはいえ、暑いものは暑い。学校からここまで歩いて来るのにだいぶ汗をかいた。これで食べるカキ氷は格別だろう。
これで美里と二人っきりだったらなあ、と鍵太郎は後ろを振り返った。
そこには、吹奏楽部の連中が、ほぼ全員顔をそろえている。
「やっほーう! 予選大会の打ち上げも兼ねて、パーッと食べようぜーい!」
三年生の
ぞろぞろと店内に入っていく。狭い店はすぐにいっぱいになり、わいわいと賑やかになった。
「ホラホラ! こんなに大きい!」
「でかっ!?」
奏恵に見せられたカキ氷を見て、思わず叫ぶ。祭りの屋台のようなカップのカキ氷を想像していたのだが、これはその倍くらいの大きさがある。
どんぶりくらいの大きさのカップに、山盛りの氷が乗せられている。どう考えても、どこかにスプーンを刺した瞬間にどこかが崩れるだろう。そのくらいの量だ。
「これでたったの三百円! 高校生でもこのくらいなら手が出せるよ!」
「湊くん、なに食べる?」
ざくざくと氷を切り崩す奏恵を見ていたら、同い年の
イチゴ、メロン、レモンにブルーハワイ。定番のシロップの名前が連ねてある。
どれがいいかなあとメニュー表を目で追っていると、練乳トッピングという文字を発見した。
「あ、イチゴ練乳とかいいかも」
トッピングには追加料金がかかるが、まあそのくらいはいいだろう。鍵太郎のセリフに咲耶が「あ、いいねえ」と笑った。
「私も練乳かけようかな。抹茶小豆ミルク」
「渋いなあ」
さすが宝木さん、いい趣味をしている。そう思ったときにちょうど順番が回ってきたので、鍵太郎はイチゴ練乳を注文した。
一気に大勢の客が来て、カキ氷屋の店員はものすごい勢いで氷を削っている。申し訳なく思いながらも、みるみるうちにどんぶりに氷が積もっていく様を見ると、わくわくする。
真っ白い氷の山に、赤いシロップがどばどばと遠慮なくかけられた。そこに練乳が上乗せされる。
赤と白の山を店員から受け取って、こぼさないように席まで持っていく。これ、絶対おいしいよなあ。そう思うと、我知らず口元が緩む。
「いただきまーす」
そう言って、ストローの先のスプーンでざくりと一刺し。口に入れるとイチゴのすっぱさと練乳の甘みが、冷たい感触とともに口の中に広がった。
「……あんた、ほんとおいしそうな顔して食べるわよね」
同い年の
「うまいものをうまい顔して食べてなにが悪い」
「じゃあ、ちょっとちょうだい」
女子お得意の、「ちょっとちょうだい」が来た。む、と眉を寄せながらも、寛容な心で少しだけ光莉に分けてやる。代わりに、光莉のレモンのカキ氷を少しもらった。
「そういや湊、予選の本番大変だったんだって?」
先輩の
「大変でしたよ!」
鍵太郎は先日の大会予選で、本番の直前まで譜面台がもらえなかった。そしてやっともらえたと思ったら、今度は準備ができないうちに本番の照明が点いてしまったのだ。
予想外の出来事に完全に頭が真っ白になって、演奏はボロボロだった。他の部員はちゃんと吹けていたので予選は突破したものの、個人的には納得のいかないステージとなった。本選ではぜひリベンジをしたい。
聡司は同情するようにうんうんとうなずいて、言う。
「初めてのコンクールでそのトラブルは、ちょっときついよなあ。ホレ、ブルーハワイを分けてやろう」
「わあ、ありがとうございます」
「その代わりそのイチゴ練乳を少しよこせ」
「……どうぞ」
なんだ、みんな俺のイチゴ練乳を狙ってるのか。警戒心を強める鍵太郎へ、さらなる刺客がやってきた。
「湊いいなあ! あたしもイチゴ練乳にすればよかった!」
メロンだろうか、緑色のカキ氷を持った
じーっとうらやましそうに見つめられると、どんぶりをかたくなに守っている自分が、とても器の小さい人間に思えてくる。「……わかったよ、ちょっとだけだぞ」と鍵太郎はどんぶりを涼子に差し出した。
「やった!」
目を輝かせて喜ぶ涼子を見て、まあ、しょうがねえなあ、と鍵太郎は思ったのだが。
彼女がごっそりと赤い氷の山を持っていくのを見て、そんな気分は全部吹き飛んだ。
「てめえ! 俺のイチゴ練乳どんだけ食う気なんだ!」
「えー。いいじゃん。メロンあげるよ」
「そういう問題じゃねえよ!」
「ほらほらー」
どばどばと、涼子の器からメロンのカキ氷が注がれる。
元々のイチゴにレモンが乗っかり、さらにブルーハワイにメロンが来た。鍵太郎のどんぶりは色とりどりのレインボーになりつつある。
今日の練習のときに、生活が吹奏楽一色に塗りつぶされているような感じがすると思ったものだが、それは案外、こんな虹色なのかもしれない。
「にぎやかですねえ」
美里がそれを見て、のほほんと言う。手に持っているかき氷は、ブドウだろうか。
「先輩もイチゴ練乳食べます?」
「え、いいんですか?」
「いいですよ」
美里ならむしろ全部あげてもいい。そんな鍵太郎の思いをよそに、美里は遠慮がちにイチゴ練乳を取り、その分のブドウを代わりにくれた。
赤と黄色と、緑と青と。さらに紫色が盛られていて、これを見ていると自分が結局なにを頼んだのか、よくわからなくなってくる。
さらに少し溶けてきたのもあって、色の境目が謎なことになっていた。
「カオス……」
鍵太郎は一口ごとに違う部分を食べながら、そうつぶやいた。もはやなにがなんだかわからない。
口の中でいろんな味がして、舌が混乱している。さまざまなものが混じりあう感覚に、先日この近くのホールでやった練習を思い出した。
あのときは合奏中、奇妙な感覚に襲われた。楽器を吹いている自分が自分でないような、音が混じりあって他の人と感覚を共有しているような、そんな感覚になったのだ。
曲に合わせて勝手に指が動いた。全員で作り上げた響きが溶けるように心地よかった。
実際一瞬意識が飛んだようにも感じた。なにもかも忘れて、ただ湧き出る音に身を任せた。
あれは本当になんだったんだろう、と思う。
あの後美里に訊いたところ、音楽をやっているとたまにそんな風に、『降りてくる』ことがある、ということだが。
先輩でも数えるほどしかそんな感覚を経験したことはないという。バンド全体の波長や呼吸が合って、ようやくそうなる可能性がある、といった程度らしい。
鍵太郎もあれ以来、あの感覚に襲われたことはなかった。
どこまでも行けるような全能感に、溶けるような一体感。
それが今度の本番でもできれば、きっと金賞が取れると思うのだ。
そして、その一体感の先に、美里に思いが伝われば――
カキ氷はすっかり溶けてしまった。いろんな味が混ざったカオスな水を、一息に飲み干す。
「
予想以上の甘さに、鍵太郎は思わずむせ返った。
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