第53話 ステージには魔物が住んでいる

 リハーサル室には、譜面台がなかった。

 だから湊鍵太郎みなとけんたろうは、楽譜を床に置いた。

 吹奏楽コンクール、県予選会。

 あと数十分後に迫った本番に向けて、川連第二高校の吹奏楽部は、リハーサル室で音出しを開始していた。


「湊くん、がんばりましょう!」


 そう鍵太郎に言ってきたのは、同じ楽器の先輩、春日美里かすがみさとだ。

 美里は三年生。ひょっとしたら、これが最後の本番になるかもしれない。

 それなのに、びっくりするほど普通に見えた。ひょっとしたら緊張しているのかもしれないが、少なくとも表面上はそうは見えない。

 これで最後なんて、絶対に嫌だ。鍵太郎はそう思って、美里の言葉に強くうなずいた。

 いつも予選は突破していると聞いた。それに練習だってしてきたのだ。焦ることはない。

 この予選を突破すれば、県大会本選に行ける。県大会本選を突破すれば、東関東大会にも出られる。

 最後じゃない。まだ一緒にいられる。

 先輩たちや周りの部員たちのように、音楽室で練習していたのと同じ雰囲気で、本番に臨めばいい。それならきっと、大丈夫だ。

 鍵太郎は不安を押しのけて、音出しを始めた。



###



 本番の演奏は、この会場の大ホールで行われるそうだ。

 リハーサル室を出て、低音楽器の四人は来たときと同じく、エレベーターで大ホールのある一階へと向かっていた。

 エレベーターは狭く、四人に加えて大きな低音楽器が四本もあると、かなり詰めなければならない。


「湊っち、もっと寄ってー」

「え、ちょ――」


 バスクラリネットの高久広美が押してきて、鍵太郎はさらに奥に行かざるを得なかった。

 そして、その先には――


「あらあら。大丈夫ですか湊くん」

「だ、大丈夫、です……っ!」


 美里にぴったりと寄り添う形になってしまい、鍵太郎はそれだけ答えるのが精一杯だった。

 楽器をぶつけないように保護するため、手がふさがっている。身動きが取れないまま、右半身に美里の身体が当たりまくっていた。

 半袖シャツの薄布越しに感じる柔らかさと温かさに、静かな緊張感が一気に吹き飛ぶ。

 うわあああ、うわあああああ。目を回していると、美里が声をかけてくる。


「湊くん……緊張してます?」

「してません!」

「だって、すごい息が荒い……」

「気のせいです! やましいことはなにもありません!」


 そう、緊張なんかしてないし、やましいことなんてなにも考えてない。

 だ、だって楽器を守らなきゃいけなもんね! 身体が当たってても、動けないのは当然だよね!

 そう、自分はあえてこの状況を甘受しているのだ! 満員電車みたいに押されて苦しくて、ハアハアしてるだけなんだからね! なにもやましいことなんて、考えてないったら考えてないんだからね!


「ははは狭いぞ湊っちー。もっと詰めないかー」

「わかっててやってやがるな、この先輩!?」


 ニヤニヤ笑いながら、広美がこちらを押してくる。ぎゅうぎゅうと先輩たちにおしくらまんじゅうされて、ちょっとだけ、このままずっと乗っていたいなあ――なんてことを思ったとき、無常にもエレベーターは一階に到着した。

 誘導に従って、大ホールへと進む。

 低音楽器群は本番の楽器の配置上、列の一番前での待機となる。ホールに繋がる扉の前で、一行は一列になって出番を待った。


「わたし、ちょっと打楽器の人たちのところに行ってきますね」


 美里がそう言って、楽器を置いて列を離れた。打楽器と管楽器は、搬入口からして別だ。

 打楽器パートの連中とはバスで別れたきり、顔を見ていない。リハーサルにも不参加だ。本番を前にして美里は、挨拶をしにいったのだろう。

 その背中を見ていると、広美に話しかけられる。


「どう? 湊っち。緊張はほぐれた?」

「緊張してないって、言ったでしょう」


 しれっと訊いてくる先輩へ、鍵太郎は憮然とした顔を向けた。後輩の視線を受け流し、広美は笑っている。いつものように飄々と。


「嘘つきなさんな。あんなに悲壮な顔してたくせに」

「……そんなに顔に出てましたか」


 押し込めた不安は、見透かされていた。一つ年上の先輩はわざと、あんな風に自分の緊張をほぐそうとしたのか。

 それにしては、多少役得――いや、刺激の強いやり方だった気もするが。まあ、広美らしいといえば広美らしいのかもしれない。


「湊っちは初めてのコンクールでしょ? 緊張するのも当然だよ。恥ずかしいことなんてないさ」

「別の意味で恥ずかしい目にあわされましたが……」

「うひゃひゃひゃ。おかげで緊張もほぐれたでしょ? それともなに? 逆効果だったのかなー?」

「逆セクハラで訴えますよ、このオヤジ女子高生」


 鍵太郎がそう言うと、広美はにゃはははは、とひとしきり笑った。さらに「あー、本番終わったらコーヒーでも一杯ひっかけるかあ」などとのたまう。

 カフェイン中毒のオヤジ女子高生は、肩をすくめて後輩に言ってくる。


「緊張なんて誰だってするよ。あたしだってしてる。ね、先生?」

「ハイ?」


 楽譜を見ていた指揮者の城山匠しろやまたくみが、こちらを向いた。城山はプロ奏者であるが、川連第二高校の本番を振るのは、今日が始めてだ。


「先生だって緊張してるでしょ?」

「ソんなことありませんよ」


 声が裏返っている。鍵太郎と広美は噴き出した。

 数々の本番を経験してきた城山でも、本番前は緊張するようだ。そう思うと、少し気が楽になった。


「先生は本番前、どんなことを考えてるんですか?」


 決まり悪く頭をかく城山へと、鍵太郎は訊いてみた。自分たちと通じるものもあるけれど遠い存在でもあるプロの先生が、本番前になにを考えているか、興味が出てきたのだ。

 彼はこれから演奏する『シンフォニア・ノビリッシマ』の総譜スコアを閉じて、答える。


「色々かなあ。あの部分はこう吹こうとか、こう振ろうとか。家に帰ったらビールを飲もうとか」

「お、いいですねえ」


 成人したら絶対酒飲みになるであろう広美が、なにかを飲む仕草をした。

 それに笑って、きみとはいつか一緒に飲みたいなあ、と城山は広美に言った。そして続ける。


「さっきは、この曲のことを考えてた――『高貴なるシンフォニアシンフォニア・ノビリッシマ』。作曲者のジェイガーのことを」


 ジェイガーはこの曲を、婚約者に向けて書いたという。

 これは僕の、本番前の緊張から出た妄想なんだけどね、と城山は前置きした。


「この曲は、きっと彼の愛の証なのかなあ、って思ったんだ。彼が婚約者に誓った言葉と思いの数々を、僕たちは演奏するのかなあ、なんて」


 そしてコンクールという人に聞かせる場で、この曲をやるということは。


「それはたぶん――愛の証明なのかな、って、そんなことを考えてたよ」

「……愛の、証明」


 城山の言葉を、鍵太郎は繰り返した。

 愛、なんて、恥ずかしくて普段は絶対口にしない言葉だけれど。

 本番直前の今は――その意味をふと、考えた。

 誓いと思いをうまく、歌うことができれば。

 そして、それを審査員に向けて、証明することができれば。

 県大会本選に。さらにその先の大会に。進むことができるのではないか。

 そして――


「お待たせしましたー」


 美里が戻ってきた。もう少しで本番だ。

 それをすることができれば、あるいは――。



###



 大ホールへの扉が開いた。楽器を持って中に入る。

 少し前にホール練習をしたところと、だいたいの造りは同じだ。二階席まであって、客席には赤い布が張られている。

 違うのは、観客が、審査員がいることだった。

 バタバタと、係員によってイスと譜面台が運ばれている。係員は誘導員と同じく、どこかの学校の吹奏楽部員らしい。大会の補助員として動員されているようだ。見れば、打楽器班が既にそんなステージへと切り込んでいっている。

 美里について、鍵太郎は舞台へと進んでいった。

 舞台の照明は薄暗い。本番の用意ができるまで、明るくはしないらしい。係員にイスをもらって、自分の位置に設置した。

 あとは譜面台だ。せわしく動き回る係員のひとりに、「すみません、譜面台をひとつ」と声をかける。走り回っていた女の子の係員が、「譜面台ですね!」と言って袖に引っ込んでいった。

 他の楽器の部員たちも、忙しく環境を整えている。イスをきれいに並べ、指揮台を囲んで扇状に整える。

 鍵太郎は隣の美里を見た。

 愛の証明。

 そうだ。これができれば、うまく吹ければ。

 美里にも、もしかしたら気持ちが伝わるかもしれない。

 自分の思いが証明できるかもしれない――そんなことを考えていると、周りの動きが落ち着いてきた。

 しかし鍵太郎の譜面台は、まだ来ない。まだか、と気持ちが焦ってくる。見なくてもわかるくらい練習はしているが、楽譜を見られないのは、いざというときに困る。リハーサル室のときのように、床に置いて見るわけにもいかない。

 次々と部員がイスに腰掛けていく中で、ようやく鍵太郎の分の譜面台が到着した。急いで高さを調節し、譜面をセットした瞬間。

 ステージの明かりが全開になった。

 ――え。

 突然の光に、頭が真っ白になる。

 他の部員は全員座っているのに、鍵太郎だけは立ったままだ。

 なんだこれ。どうすればいいんだ。

 見られている。客席から、視線を感じる。

 どうすればいいんだ。固まって汗を流していると、城山がこちらを見た。

 大丈夫だから、楽器を持って座りなさい。そう言われた気がして、鍵太郎は震える手で楽器を掴み、何食わぬ顔を装って、イスに座った。

 しかし頭の中は、相変わらず真っ白のままだ。急に遠くまで見通せるようになって、なにがなんだか、思考が追いついていかない。

 せっかく置いた譜面の内容が、理解できない。なにを書き込んだっけ。どこを気をつけるんだっけ。やばい、息が浅い。苦しい。あの女の子、なんでもうちょっと早く譜面台持ってきてくれなかったんだ。まずい。思考が空回りしている。まずい、まずいまずいまずい――


「――十番。川連第二高校。自由曲、『シンフォニア・ノビリッシマ』」


 真っ白になった頭に、そのアナウンスだけは、やたらはっきりと聞こえた。

 愛の証明。心の準備がまったくできないまま、それは始まった。



###



「で、どうだった? 初めてのコンクール」

「魔物が住んでた……」


 演奏が終わって、楽器をしまって。

 同い年の千渡光莉せんどひかりの問いに、鍵太郎はそうとしか答えられなかった。

 ステージには魔物が住んでいた。甲子園と同じだ。

 予想もつかない角度からやつらは攻めてきて、プレイヤーを不幸のどん底に叩き落す。

 初のコンクール。譜面台の遅延。

 さまざまな障害に足を取られ、鍵太郎の演奏はボロボロに終わった。

 愛の証明、なんてしている場合ではなかった。

 ずーんと落ち込んで、考える。これで予選で落ちたらどうしよう。先輩は許してくれるだろうか。自分は責められるだろうか。そんな考えばかりが、頭の中を支配する。

 膝を抱えて埋まりたい気分だ。そう思ったとき、頭上から館内放送が流れてきた。


『高校の部、B部門の表彰式ならびに閉会式を行います。各学校の代表者の方二名は、舞台袖に集合してください。繰り返します、高校の部、B部門の――』


 どうやら、結果発表がそろそろ始まるらしい。鍵太郎はのろのろと顔を上げた。結果は聞きたくない。しかし、聞かねばならない。

 代表者二名というのは、部長と副部長だろう。

 そういえば、部長は美里だが、副部長はいったい誰なんだろう、と思った。しっかり者のホルンの才媛、海道由貴かいどうゆきあたりだろうか。

 しかし立ち上がった人物は、こちらの予想を完全に裏切っていた。

 打楽器の滝田聡司たきたさとしに、鍵太郎は驚愕のまなざしを向ける。


「え……? 先輩って、副部長だったんですか……?」

「……なんなんだろうな、この敬われてない感じ」


 吹奏楽部の男子部員なんて、少数派のマイノリティーの、最底辺のみそっかす扱いなのに。そう思っていると、聡司は自虐的につぶやく。


「まあなー。ほとんどの仕事は、部長の春日がやっちまうし。基本的にオレの意見は通らねえから、発言もできねえし。副部長つっても名前だけだしなー……」


 確かに、部長の美里が働いているのは見たことがあっても、副部長として聡司が働いているのは見たことがない。

 多数決で、無理矢理に役職を任されたのかもしれない。自分もひょっとしたら将来、こんな損な役回りを押し付けられることになるのだろうか。そう思うと、少しだけ聡司に優しくできる気がした。


「先輩……早く閉会式行かないと」

「ああ、そうだな。これくらいは仕事しねえとな……」


 促されて、聡司が歩き出す。宣言どおりコーヒーを飲んでいた広美が、「いってらっしゃーい」と気楽に手を振っていた。


「さて、私たちもホールに入りますか」


 光莉もそう言って、立ち上がる。彼女に連れられて鍵太郎は大ホールの客席へと向かった。

 げっそりとしている鍵太郎に、光莉は言う。


「大丈夫よ。あんたはともかく、他の人たちは普通に吹いてたから。たぶん予選くらいは抜けられるわよ」

「そうなのか……?」


 自分でいっぱいいっぱいで、他の人の音なんて聞いている余裕もなかった。

 あっという間に、本番は終わってしまった。

 なんだったんだろう、あの七分間は。

 そんな風にぼんやりとしていると、表彰式が始まる。

 緞帳が上がった。舞台には各学校の代表者がずらりと並んでいて、その中に美里と聡司の姿がある。

 出演順に結果が読み上げられ、川連第二高校の番になった。

 舞台まで、客席からは遠い。美里がどんな顔をしているのか、こちらからは伺えない。

 頼む、抜けてくれ――祈るような気持ちで、鍵太郎は結果を待った。


「川連第二高校――予選通過」


 ――よし!

 息を飲み込んで、鍵太郎は小さく拳を握った。


「だから言ったでしょ。大丈夫だって」


 光莉が隣で小さくそう言う。とりあえず予選は通過した。

 これで最後なんかじゃない。美里とはまだ、一緒にいられる。

 これはこれでいいのだが――問題は、自分が全く吹けなかったということだ。

 二週間後にある、県大会本選。そのときは、きちんと演奏を。

 愛の証明を。

 前に出て表彰状を受け取る美里を見ながら、鍵太郎は強く思った。

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