第52話 はじめてのコンクール

 湊鍵太郎みなとけんたろうは、楽器ケースに囲まれていた。

 吹奏楽部の夏の大会、吹奏楽コンクール。

 県予選会会場の楽器置き場に、鍵太郎は座っていた。


「はい湊くん。カルピス」


 楽器の見張り番として残っていた鍵太郎に、吹奏楽部の同い年である宝木咲耶たからぎさくやがペットボトルを差し出す。

 鍵太郎はこの場を離れられないので、彼女にお願いして買ってきてもらったのだ。ありがとうと受け取って、一口飲む。

 咲耶は緑茶を持って、鍵太郎の隣に腰を下ろした。


「自販機、売り切ればっかりだったよ」

「あっついもんなあ……」


 七月も下旬だ。楽器置き場は会場入り口に近い場所にあり、節電のためか冷房もあまり効いていない。

 飲み物も売れるだろう。そう思っていると、咲耶が訊いてくる。


「湊くんは、他の学校の演奏聞きに行かないの? もし行きたいんだったら、私見張り交代するけど」


 他の部員たちはみな、他の学校の演奏を聞いたり、飲み物を買いに行ってしまったりしている。

 少し考えて、鍵太郎は首を横に振った。


「……いや、いいよ」


 特に他の団体を聞く気にはならなかった。というか、自分の演奏のことで頭がいっぱいだった。

 鍵太郎にとっては初めてのコンクールだ。

 他の事を考える余裕がない。このホールに来るのも初めてだし、大会の状況もよくわからない。

 落ち着こうと思っても、落ち着かない。呼吸と鼓動がいつもより、浅くて速い。

 緊張している。それを自覚して、鍵太郎は意識して深呼吸をした。

 肺が震えている。それでも何度か繰り返す。


「……よし」


 だいぶ息苦しかった呼吸が、和らいできた。


「緊張するね」


 隣から咲耶が言ってきた。

 ふと、鍵太郎は前にも同じ状況があったことを思い出す。そう、あれは吹奏楽部に入って、初めて合奏したときのことだ。

 あのときもすごく緊張していて、咲耶に声をかけられた。

 そのとき彼女は、こう言っていた。


「なにか大きなものに守られれば、少しは考える余裕もできるよ――だっけ」

「ああ。覚えててくれたんだね、それ」


 咲耶の家は、寺だ。言われた当時は知らなかったため普通に聞いていたセリフだが、今になってみれば「大きなもの」とは仏様のことだったのかなと思う。

 咲耶自身は仏教徒ではないらしいが(たまに妙なギャグや法力じみた荒技をみせることはあるが)、生まれがそうだと考え方は染み付いてしまうのだろう。


「仏様に守られてれば、そりゃあ落ち着くよなあ」


 お守りどころの話ではない。咲耶が歳のわりに妙に落ち着いていたり、人に気を遣える理由は、それなのだろう。

 大きなものに守られる。

 先輩たちについていく。

 あのときの咲耶が言っていたことだ。

 情けないかもしれないが、二人とも初心者で入部したので、そうするより他に選択肢がなかった。

 今だって、始めてから四ヶ月しか経っていない。まだまだひよっこもいいところだ。そう思っていると、咲耶は少し意外なことを言ってくる。


「うん。でもね、最近ちょっと……守られてるだけじゃ駄目かなって、そう思うようになったんだ」

「え?」


 どういう心境の変化だろうか。首をかしげる鍵太郎に、咲耶は言う。


「祈ってるだけじゃ、願うだけじゃ叶わないものがあるんだって。気づいたんだよ」

「……そうなんだ」


 守られてるだけじゃ、駄目。

 願うだけじゃ、叶わない。

 落ち着き。柔和。

 人に気を遣える。

 鍵太郎が知っている咲耶は、そんな人物だ。

 十分、彼女はいい人だと思う。

 そんな咲耶が、今までの価値観を変えてまで叶えたいこととは、なんなのだろう。


「だからね。ちょっと勇気を出して、がんばってみようと思う」


 彼女はこちらを真っ直ぐに見つめ、言ってきた。


「湊くんは、言ってたよね。好きになれば、少し人と違っていても関係ないって」

「うん」


 咲耶の家の本堂で、確かにそんな話をした。

 あれ以来、咲耶とはよく話すようになった。それまで人の輪の中でにこにこ笑っていても、どこか一線引いていた彼女は、それから少し変わったように思える。


「好きだったら、伝わるときがくるって。届くときがあるって、言って、くれたよね」


 そんな咲耶は特に、今日はいつもとは違うように見えた。

 大きくてきれいな目が迷うように揺れて、お茶を持つ手が少し震えている。

 あの日仏像の前で見せた素の表情に、それは少し似ていた。


「だから、私は――」

「あーっ、暑い暑い! 自販機ほとんど売り切れだったじゃん!」


 咲耶がなにか言いかけたそのとき、楽器置き場に人が入ってきた。


「ドクターペッパーとか、そういうキワモノしか残ってなかったな」

「早く補充してほしいですねえ」


 口々にそう言いながらやってきたのは、三年生の先輩たちだ。

 どうやら、リハーサル室への誘導の時間が近いらしい。続々と部員たちが戻ってくる。

 結局、彼女はなにが言いたかったんだろう。そう思って鍵太郎が咲耶を見ると、彼女はなにかを悟ったような顔をしていた。


「……求不得苦だよ。欲するものが得られない、四苦八苦のうちのひとつだよ」


 仏教用語らしい。なんだかんだ言って、結局お釈迦様の影響下から離れられていない咲耶だった。

 しかし、と思う。彼女の欲するものとはなんだろう?

 鍵太郎は考えた。それはこの吹奏楽コンクールの会場では、ただひとつだ。

 その結論に行き着いて、うつむいている咲耶に声をかける。


「そうだよ、きっと届くよ、宝木さん」

「え……?」


 咲耶が顔を上げた。鍵太郎は言う。


「審査員にさ。俺たちの演奏は届くよ。コンクールの県本選だって、きっと出られるさ」

「……。そうだね」


 なぜか少しの沈黙の後、咲耶はうなずいた。

 今日の大会は、本選に出るための予選会だ。審査員に演奏を聞かせて、得点の高い学校が県の本選に出られる。

 きっと彼女も、この初めての大会で緊張していたのだろう。なぜか何かを飲み込むようにお茶をがぶ飲みする咲耶へと、鍵太郎は言った。


「大丈夫だよ。がんばろう、宝木さん」

「……だから、さん付けはやめてほしいって言ってるのになあ」


 ペットボトルから口を離し、咲耶は困ったようにそう言った。

 あ、そうだった。そう思って謝ると、咲耶は一息ついて、元の柔和な笑顔に戻った。少しだけ、苦笑気味ではあったが。


「ううん。いいんだ。敬称はそのうち取れてくれば。うん。そうだよね。今は目の前のコンクールに集中しなきゃね」

「がんばろう」


 咲耶がうなずいた。周りでは先輩たちが、楽器を出し始めている。鍵太郎も楽器を出すべく、自分の楽器のところへと向かった。



###



「そういえば、川連二高うちって毎年、どのくらいの成績なんですか?」

「予選は毎年突破してます。本選で銀賞――というのが、ここ数年の成績です」


 楽器を持って移動しながら、鍵太郎は部長の春日美里かすがみさとに訊いてみた。

 美里は「でも、油断は禁物です」と続ける。


「コンクールには魔物が住んでいるんです。特に今回の『シンフォニア・ノビリッシマ』は難しい曲です。今年も同じように予選を突破できるとは限りません」

「魔物って、甲子園みたいですね」


 思わぬところで落球したり、飛球のバウンドが変わったり――高校の甲子園の試合では、確かにそんな光景を目にするときがある。

 元野球少年の鍵太郎は、美里の忠告に従い気を引き締めた。本番はいつだって、そのときの勝負だ。

 誘導開始場所、というところに並ぶ。ここに整列して、時間になったら誘導員がリハーサル室まで案内をしてくれるらしい。

 重い楽器の順に並んでくれということなので、鍵太郎と美里は一番前に並ぶ。重い楽器とはすなわち、低音楽器のことである。二人の担当するチューバという楽器は、重さが十キロは下らないのだ。

 誘導員は、鍵太郎が見たことのない制服を着た、女子高生だった。ホール近くの学校の吹奏楽部員らしい。

 時間になって、誘導が始まる。鍵太郎は誘導員の女子高生に、「大きな楽器の方はエレベーターを使ってください」と言われた。


「リハーサル室は五階です。低音楽器の方はエレベーターを使ったほうがいいかと」


 五階までこの重量級楽器を抱えて行くのは、確かにぞっとしない。本番前に体力が削られることこの上ない。

 鍵太郎は美里について、エレベーターに乗り込んだ。同じ低音属のバスクラリネット担当の高久広美に、バリトンサックスの室町都むろまちみやこも一緒に乗り込む。


「狭いー」

「ぶ、ぶつかる……」


 あまり広いエレベーターではない。部員四人とデカ楽器四本は、すし詰めになりながら五階へと向かった。

 チン、と音がして扉が開く。外に出ると、ちょうど階段組も上がってきたので合流する。


「ち、ちょっと休憩」


 そう言って、階段を使ってきた何人かがリハーサル室前のイスに座った。まだ前の団体がリハーサル中で、鍵太郎たちは中に入ることができないのだ。

 思い思いにしゃべりだす部員たちへと、「あんまり騒がしくしちゃだめですよー」と美里がやんわり注意した。

 女性ばかりで騒がしい、川連第二高校の吹奏楽部だ。あんまり騒がしいと減点対象になるということで、普段はあまり注意しない美里も言わざるを得ないのだろう。


「なーんか、緊張感がないのよね……」


 トランペットの一年生、千渡光莉せんどひかりが、そんな部員たちを見て首をかしげる。

 彼女の出身中学は、吹奏楽の強豪校だ。そこではこういった感じはなかったのだろうか。そう訊くと、光莉はうなずく。


「大会のときなんて、もっとピリピリとした緊張感があるものよ。コンクールはいつだって、真剣勝負なんだから」


 鍵太郎は部員たちを見た。ほとんどの部員が、笑いながらおしゃべりをしている。

 学校の音楽室と同じ光景だ。これはこれでいいんじゃないかなあ、とも思うが。


「変に緊張するより、リラックスしてていいんじゃないのか?」

「まあ確かに、神経質になりすぎるよりはいいんだろうけど……」


 いつも通りの状態で望むのが一番いい。鍵太郎はそう思うのだが、光莉はまだ、納得がいかないらしい。


「本番なんて、一発勝負なのよ? 三年生たちなんて、ひょっとしたらこれが最後の本番になるかもしれないのに」


 その単語の意味が、一瞬わからなかった。


「……最後?」


 鍵太郎は美里を見た。

 春日美里。

 部長で、同じ楽器の先輩。

 心を折っていた自分に、再び戦う理由をくれた、大切な人。

 彼女の隣にいられるのは、これが、最後になるかもしれない――?

 瞬間、ぶわりと寒気が走った。当たり前のように一緒にいた先輩が、これきりでいなくなるなんて、考えたくもなかった。

 守られてるだけじゃ、駄目。

 願うだけじゃ、叶わない――。

 咲耶の言葉が頭の中に甦る。

 彼女が震えていたのも、よくわかる。

 これは、怖い。

 今まで当たり前に受け入れていた世界を、全部ひっくり返してしまうものだ。

 しかし鍵太郎は、先ほど自らの言葉で咲耶を勇気付けている。そう――


「……届くよ、俺たちの演奏は。コンクールの県本選だって、きっと――出られるさ」


 また上がってきた心拍数と息苦しさで喘ぐように、鍵太郎はそう言った。


「まあ、わりと練習はしたものね。冷房のない音楽室で」


 光莉はうなずいている。そうだ。がんばって練習してきた。他の部員だってそうだ。

 これで最後になんてしない。

 大丈夫。きっと大丈夫。

 もう一度深呼吸する。そう、大丈夫だ。うまくやれる。

 そう心の中で繰り返していると、音出しの時間が来た。

 リハーサル室への扉が、開く。

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