第51話 傷だらけの鶴

「気温、湿度ともにレッドゾーン!」

「酸素濃度低下! これ以上は危険です!」


 暑さに朦朧としながら、湊鍵太郎みなとけんたろうは飛び交うそんな言葉たちを聞いていた。

 もう、七月下旬に入る。

 窓の外では強烈な日差しがカッと照りつけ、強烈にあたりを白く見せていた。

 当然、室内の気温はぐんぐん上がる。しかし――


「総員、音出し止めい!」


 誰かの声がして、鍵太郎を囲んでいた音の渦が消滅する。「窓をぉー開けろ!」という声とともに、動く気力が残っていた者たちが次々に部屋の窓を開けていく。

 外から入ってきたのは、元気のよいセミの声。そして、微風。

 外にいれば温いと感じるはずのそれが、今の鍵太郎にはクーラーの冷風のように感じられた。

 川連第二高校、吹奏楽部。

 夏の大会、吹奏楽コンクールに向けて、音楽室で活動中。

 しかし過酷なことに――この音楽室には、冷房がないのだった。



###



「しばらく休憩にしましょう……」


 みなにそう宣言したのは、部長の春日美里かすがみさとだ。

 さすがの彼女も、ぐったりとイスに座り込んでいる。


「先輩……なんで、窓開けて練習しちゃ駄目なんですか」


 隣で同じようにぐったりしている鍵太郎が、先輩にそう訊いた。

 音を出している最中は、決して窓を開けてはいけないのだという。

 密閉された音楽室で、三十人近くが一斉に楽器を吹くのだ。音楽室はあっという間に蒸し風呂となってしまう。おかげで、最近の練習は小刻みに休憩を入れながらのものになっていた。

 今日何度目かの休憩なのかはもう忘れたが、大会に向けて追い込みをかけたい時期に、これはつらい。

 美里はのろのろと傍らに置いてあったお茶を飲み、言う。


「職員室から……苦情が来るんです。窓開けて練習するとうるさいって」

「先生が、俺たちを殺そうとしている……」


 まさかの、大人からの圧力だった。

 本来生徒の活動を応援すべき教師が、敵に回っていた。


「今日は特に……職員会議ですので。音がいってしまうとまずいのです」

「職員室って、冷房効いてるんだろうなあ……」


 コンビニみたいにガンガンに。

 熱中症だなんだと騒がれているこのご時勢に、そんなのはお構いなしで、大人は自分のことを最優先だった。

 理不尽さにひきつった笑みを浮かべていると、美里が言ってくる。


「まあ、練習できないならできないで、『あれ』を作りましょう」

「『あれ』?」

「はい」


 うなずいて美里が差し出してきたのは、金色の小さな紙だった。



###



「ほんっと、暑くて死ぬわ」


 同じく金色の紙を持った、千渡光莉せんどひかりがそうぼやく。

 彼女もショートカットの髪を無理矢理縛って、おでこまで出していた。もはやなりふり構っていられないらしい。


「冷房ないって。いまどき、冷房ないって。どんだけ冷遇されてるのよこの部活」

「おまえの中学は……まあ、もちろん冷房あったんだろうな」

「あったに決まってるでしょ!?」


 光莉のいた宮園中学は、吹奏楽の強豪校である。テスト期間でも練習があったくらいなのだから、先生たちからのサポートも厚かったろう。冷房なんてあって当たり前というところか。


「あと、うちの中学は住宅地のど真ん中にあったから……締め切らないと練習できなかったのよね、やっぱり」

「どこの学校も、騒音扱いはされるんだな……」


 こんなに一生懸命やっているのに、大人たちはなにが気に食わないんだろう。

 鍵太郎は窓の外を見た。川連第二高校は田舎の学校である。山に程近く、学校の周囲のほとんどは田んぼだ。

 これなら別に窓を開けても、近所からはなにも言われないんじゃないかなあ、と思うのだが。

 職員室さえなんとかできれば、こんな風に汗まみれになりながら練習することもないのだ。そう思っていると、光莉が言う。


「やっぱりね。金賞取ればいいのよ。金賞」


 コンクールの最高ランクの賞のことを言いながら、彼女は紙を折り始めた。


「結果を出せば、先生たちだってそうそう文句は言えないわ。金賞が取れれば、冷房が入るのも夢じゃないっ!」

「それは、そうかもしれないな」


 強い部活なら、それを目当てに学校に来る人間がいる。部費も多く割り当てられるだろうし、競技に集中できるように、環境だって整えてくれるだろう。

 大人は成果で黙らせる――そのためには練習が不可欠だろうが。今は。


「……なぜ、折り紙なんだ」


 鍵太郎は手元の紙を見た。それは、金色の折り紙だ。

 小さめのサイズのそれを、先ほど美里に束で渡されたのだ。鶴を折るように、とのことだった。

 すると、なんだ今さら、という顔で光莉が言ってくる。


「千羽鶴よ。金賞祈願の、金色の千羽鶴」

「もはやジンクス頼みなのか……」

「吹奏楽部の伝統と言いなさい」


 そんなに、どこの吹奏楽部でもやっているものなのか。中学まで野球部にいた鍵太郎は、吹奏楽部の常識というものに未だ馴染めないところがある。


「文句言ってないで黙って折りなさいよ。千羽だから……一人、三十五羽作ればばいいの。そのくらいすぐだから、早くやりましょう」

「いや……あのな」


 急かす光莉に、鍵太郎は言った。手元の紙束を見ながら。


「鶴って……どうやって折るんだ?」

「……」


 光莉が信じられないといった顔で、こちらを見てきた。



###



「しょうがねえだろうが! 普通の男子高校生がはいそうですかと鶴折れねえよ!」

「逆ギレしてんじゃないわよ!」

「まあまあ、光莉ちゃん。教えてあげようよ」


 言い合う鍵太郎と光莉の間に割って入ったのは、同じく一年生の宝木咲耶たからぎさくやだ。


「私たちが折ってあげてもいいけど、湊くんも一羽くらいは自分で折りたいでしょ?」

「うん……」


 鍵太郎は小さくうなずいた。折り紙は苦手なのだ。

 しかしさすがに、他の人に全部折ってもらうのは気が引ける。何羽かは自分で折ろうと、鍵太郎は光莉と咲耶にやり方を教わることにした。

 咲耶が自分の折り紙を、まず半分に折る。


「最初に、三角にします」

「……はい」

「……ちょっと、なんで端と端がずれてるのよ」


 光莉に突っ込まれた。鍵太郎の折ったものは、きれいな三角になっていなかった。

 微妙にずれていて、金色の裏の白い部分が見えてしまっている。

 鍵太郎はため息をついた。


「……苦手なんだよ。紙を折り合わせるのが」

「……意味わかんないんだけど」

「意外にも、超絶ぶきっちょさんだったんだねえ、湊くん」

「おまえら女子と一緒にするな……」


 鍵太郎からしてみれば、女性陣がなぜあんなに器用にあっさりと鶴を作れるのか、全くわからない。


「うーん、最初のズレがどんどん影響してくるから、なるべくきれいにやったほうがいいよ」

「マジか……」


 咲耶に困ったように言われて、鍵太郎はもう一度、折り紙を三角に折ってみた。

 もう一度。もう一度。

 何度か微調整してようやく、なんとか端と端が合わせられた。やりすぎて折り目が何条にもついてしまったが。

 ついてしまった皺は、元には戻らない。多少汚いが、せっかくちゃんと折れたので、このまま先に続ける。


「で、もう一回三角に」

「うー」

「ふくろ折り」

「ううー……」

「ここを中に折り合わせて――」

「もう無理!」


 どんどん細かくなっていく工程に、鍵太郎はやりかけの折り紙を投げ出した。何度もやり直したせいで、金色の面は傷のように線が走っている。

 周りを見てみれば、光莉の鶴はピシっときれいに仕上がっていて、作業を見ても慣れている様子が伺われた。中学のときから何羽も折っているのだろう。

 そして、咲耶の鶴はというと――。


「なんか鶴じゃなくて鳳凰に見えるのは、俺の目の錯覚か……?」

「あははは。昔からずっと見てたから、そんな風になっちゃうのかもね」


 咲耶の家は、寺である。本堂を一度見せてもらったことがあるが、仏像の周りに金色の細工が所狭しと並んでいた。その中に、鳥の彫刻があった気がする。

 ただの折り紙が鳳凰になっている。なにこれ、法力? と鍵太郎は咲耶の折ったものをまじまじと見た。

 そして、自分の折りかけの物を見る。折り目がガタガタで、面はしわくちゃで、やりかけのまま音楽室の床に放り出してある。


「一個くらいは折りなさいよ」


 光莉がそれを見ながら、厳しく言い放ってきた。


「吹奏楽は団体競技。みんなの音がひとつになって、ひとつの曲を作り上げるの。

 これだって同じよ。全員が折ったものを一つに束ねて、一つのものを作る。その中にあんたの折ったものが入ってないなんて、私は――」

「……私は?」


 光莉が口ごもってしまったので、鍵太郎は訊いた。

 すると彼女はなぜか、顔を赤くして怒鳴ってくる。


「うっさいわね! つべこべ言ってないで折りなさいよ!」

「わ、わかったよ」


 なぜそこまで強く言うのかはわからなかったが、光莉の言いたいことはわかった。

 つまりこの千羽鶴というのは、団結の象徴なのだ。

 みなでまとまって金賞という一つの結果を求める、その誓いのカタチなのだ。

 多少汚くても、折ること自体に意味がある。鍵太郎は床に転がっていた折りかけの金色を拾って、再び鶴を作り始めた。


「うぐぐぐぐ……」


 うなりながら、羽に当たる部分を折り合わせる。千羽鶴用なので折り紙自体が小さく、面積的な余裕がない。

 非常にやりづらい中を、指先に神経を集中させて折っていった。

 やがて鍵太郎の手の中に、一羽の鶴が出来上がる。


「できた!」


 できあがって嬉しかったものの、やっぱりその鶴は折り目だらけの、不恰好なものだった。



###



 先輩たちが、できあがった鶴を糸で一つにつなげている。

 鍵太郎がクラリネットの三年生、扇玲奈おうぎれなに鶴を渡すと、彼女は思わずと言った調子で声をあげた。


きたなっ!?」

「先輩、ひどいです……」

「ご、ゴメンゴメン。一生懸命折ったんだよね? 悪かった悪かった」


 普段は下ろしている長い髪を一つにまとめて、玲奈は作業していた。

 鶴を針と糸で束ねて、何条もの金色の帯を作っていく。

 美里も自分のノルマを仕上げてきたようで、作業に加わる。


「れなちゃん、早いですねー」

「ふふ、クラリネットの手先の器用さ舐めんな」


 普段流れるような音階をやっている木管楽器のみなさんは、指の神経が発達しているのだろうか。

 操作キーが四つしかない楽器、チューバを担当する鍵太郎は、そう思った。低音楽器なので基本はベースの刻みだ。楽譜も単純である。


「これは、りくちゃん、これはかなちゃん。このきっちり折ってあるのはゆきちゃんですかね? 鶴ひとつとっても、性格が出ますねえ」


 鶴を一つ一つ糸に通しながら、美里は言った。

 鍵太郎は金色の鶴たちを見る。同じ折り方をしているのに、どうして微妙に形が違うのだろう。


「あら? これは……」


 美里が鍵太郎の折った鶴を手に取った。それは他のものと比べて明らかにボロボロで、同じ糸に飾られるのが恥ずかしくなるくらいの代物だ。


「あの、先輩、それ」


 なるべく目立たないところに。そう言おうとしたとき、美里はこちらを見た。


「あ、これ湊くんが折ったんですね」

「はい……」


 醜いアヒルの子のようなその鶴へと、美里は糸を通した。


「では、一番上に」

「やめてくださいよ!?」


 悲鳴をあげて、美里を止めようとする。しかし先輩はそのまま、その金色の帯を仕上げてしまった。


「そんな丸めたアルミホイルみたいな汚い鶴、一番上になんて……」

「あら。でもがんばって折ったのでしょう?」

「そりゃ、そうですけど……」

「それなら、いいんですよ。きれいでも汚くても、鶴は鶴です。それに」


 美里は、できたばかりの束を掲げた。

 その一番上に光る、傷だらけの鶴を指差しながら。


「傷があったほうがキラキラしてて――光が反射して、きれいに見えるときもありますよ」


 少し傾いてきた日差しを受けて、それは金色に輝いている。

 その光が目に入って、鍵太郎は眩しくて目を細めた。


「ね?」

「……はい」


 金色の光の横で美里が笑ったのが見えて、鍵太郎はそれ以上なにも言えなくなってしまった。

 鶴が次々と折りあがって、運ばれてくる。

 その小さな金色たちを束ねて、千羽鶴は徐々にできあがっていく。



###



「できましたー♪」


 完成した千羽鶴を、美里が掲げた。「できたー」「早かったねー」などと、部員たちの歓声が飛ぶ。

 滝のように釣り下がったきらめきが、音楽室の壁に飾られた。

 少し離れて見てみると、鍵太郎の折った鶴はその幾条もの帯のうち、どれの一番上なのかよくわからなくなっていた。

 それはそうだ。他にも、九百九十九羽の鶴たちがいるのだから。

 埋没、ではない。個性をなくしたわけでもない。

 よくよく見れば、一つ一つの形は、微妙に違っている。

 それでも、中心にある糸で、鶴たちは繋がっていた。

 団結の証。

 金賞への誓い。

 神頼みだのジンクスだの、そういうものではなかった。

 別にそんなもの、信じてるわけではない。

 ただ、作りたいからカタチにした。

 それだけだ。

 窓からの風を受けてさやさやとそよぐその鶴たちを、部員たちは眺めていた。


「あー、終わった終わった。てめーら、職員会議終わったぞー」


 そこで、顧問の本町瑞枝ほんまちみずえが書類の束で肩を叩きながら、音楽室に入ってくる。

 部員たちが顔を見合わせ、そして散っていった。

 どうやら休憩は終わりのようだ。

 鍵太郎は窓を閉めて、練習を再開する。

 本町はそんな部員たちと――そして飾られた千羽鶴を見て、「夏だねえ」と笑った。

 そう、夏だ。再び音楽室に、熱気が戻った。

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