第50話 ホールの精霊

「湊、おまえにテトリスを教えよう」

「はあ」


 吹奏楽部の夏の大会、吹奏楽コンクールが近くなってきた頃。

 湊鍵太郎みなとけんたろうは、打楽器の三年生の先輩、滝田聡司たきたさとしにそう言われた。

 テトリスって、あのパズルゲームのか。

 それなら、教えられるまでもなく知っているが。鍵太郎がブロックを隙間なく敷き詰めるあのパズルゲームを思い出していると、聡司はしかつめらしい顔をして腕を組む。


「ただのテトリスではない。リアルテトリスだ」

「リアルテトリス?」

「ちょっとついて来い」


 言われるがままについていくと、楽器運搬のためのトラックの前に到着した。

 小型のコンテナが後ろにくっついている、天井のあるタイプ。いわゆる『箱車』だ。

 トラックの周りには、既にいくつかの楽器が置かれている。今日はこれを積み込んで、練習会場に向かうわけだが。

 鍵太郎が首を傾げていると、聡司は荷台を指差して言う。


「限られたスペースに楽器を全部積み込むためには、隙間なく、荷台に楽器を配置していかないといけないんだ」

「あー。なるほど」


 先輩の言葉に納得する。なんの考えもなしに積み込んでいくと、トラックに楽器が入らなくなってしまうのだろう。

 会場と楽器置き場を何往復もするのは、確かに時間の無駄だ。なので一回で全部を運べるよう、楽器を組み合わせるようにして荷台に入れていく。

 リアルテトリス。

 次々と音楽室から下ろされてくる楽器を、いかに効率よく配置するか。

 実際は楽器の固定、傷がつかないように毛布で保護したりという作業もあるのだが――感覚的にはおおむねあのゲームそのままだ。


「今回は打楽器が少ないから、簡単なほうだな。初級編だろ」


 今日の打楽器はティンパニ、小太鼓スネア大太鼓バスドラム、シンバルの四種のみだ。通常はこれに鍵盤楽器のマリンバ、グロッケンなどが加わる。

 楽器が少ないなら、確かに初めてやる鍵太郎にもやりやすい。


「考えてみたら教える機会も、もうそうそうないからな。今のうちにおまえに教えとく」

「貝島先輩も、やり方は知ってますよね?」

「知ってるが、あいつちっちゃいからなあ……」


 打楽器パートの二年生、貝島優かいじまゆうは『攻撃的な小動物』と言われている女子部員である。あの小さな身体でトラックの荷台に楽器を引っ張り上げるのは、少々無理があるのだろう。


「ホールの搬入口とか、荷台との段差がないところだったらあいつでも大丈夫なんだけどな。さすがにあのちびっ子にこれをやれっていうのは酷だから、おまえにも教えとこうと思って」

「なるほど。わかりました」

「じゃ、ゲーム開始だ」


 ああだこうだと教わりながら、鍵太郎は荷台に楽器を詰めていった。なるべく無駄な隙間がないようにないようにと楽器を組んでいく様は、なるほど3Dのリアルテトリスだ。

 ティンパニを二人で積み込んでいると、部長の春日美里かすがみさとが自分の楽器を抱えてやってきた。


「あらあら。はじめての共同作業ですか」

『そういう言い方止めてくれませんかね!?』


 男子部員二人で仲良く反論する。

 少数勢力の男子部員は、群れないと女子の集団の中では生きていけないのである。



###



 いつも吹奏楽部は音楽室で練習しているが、本番の演奏はもちろんホールで行われる。

 なので今日は学校の近くのホールに行って、練習することになっていた。本番に近い環境を体験しておくのは重要なことだ。


「反響板入りまーす」


 ホールの職員の声がして、舞台を囲む反響版が降りてくる。

 舞台というと優雅に聞こえるが、吊り下げられた反響版が降りてくる様は、演奏会場というより工事現場のほうがイメージとしては近い。

 実際反響板の下を通ろうとして、「近付かないでください!!」とホールの職員に怒られている部員がいた。まるで親方だ。

 巨大な木製の板がゆっくりと降りてきて、演奏の舞台が形作られる。

 その反響板の裏にある舞台袖で、鍵太郎は楽器を出した。

 袖には照明やひな壇の板、なんに使うのかわからない機材が多数並んでいる。非常灯がぽつぽつと点いているのみで、あとは舞台から漏れてくるライトだけが光源だ。舞台裏は薄暗い。楽器を抱えて転ばないように進んでいく。

 ホールに演奏を見に行ったことはあるが、自分がホールで吹くのは初めてだった。

 富士見が丘高校の演奏会に行ったときは、もちろん座席からの観賞だ。

 鍵太郎は自分の席に楽器を置いて、舞台上から客席を見た。


「うわあ……」


 そこから見える光景に、感嘆の声が漏れる。

 木製の舞台は座席より高くて、ホール全体を見渡せる。目の前に広がる空間は、座席側から見るのとは全く印象が違った。

 まず、広大だ。席は二階席まであって、天井はそれ以上に高く感じられる。

 舞台の前に広がる座席の数は、およそ千。座席の方の明かりは点いていない。薄い闇の中に赤い布をかぶせられたイスがずらりと広がっていて、舞台からの照明にぼんやりと照らされている様は、まるで大きな生き物が静かにこちらを見ているかのようだった。

 その存在感に圧倒されつつも、威圧感は覚えない。

 ただ優しく見守られているような温かさだけを感じて、なんとなくそれに近付こうと、鍵太郎が舞台から座席へと歩きだそうとすると――


「座席に荷物は置くなよ」


 吹奏楽部の顧問、本町瑞枝ほんまちみずえがそんな鍵太郎に言う。


「座席は借りてないからな」

「え?」


 鍵太郎は目の前に広がっている空間を指差した。舞台と座席は階段で繋がっていて、自由に行き来ができるようになっている。


「ホールって、この部屋一式を貸してくれるんじゃないんですか?」


 鍵太郎の問いに、本町は首を振った。


「違う。舞台、ひな壇、座席、空調、マイクに至るまで、全部別々に料金がかかる。座席まで借りる金はない。だから今日は本当に、最低限しか借りてない」

「確かにお客さんが来るわけでもなし、使わないといえば使わないんでしょうが」


 本町がそう言うので、鍵太郎は座席に下りるのをやめた。しかし座席を借りていないのに、その上の空間に音を出すのはいいのだろうか。


「いいんだよ。そのくらいは許してくれるさ」


 本町は肩をすくめてそう言った。そんなものなのか。大人の世界の取り決めは、まだ自分にはよくわからない。

 そう思っていると、正面の指揮台でホールの残響を聞いていた城山匠しろやまたくみが言う。


「ここのホールって、大会の会場と同じ、響きが残る系のホールなんですね」

「だな」


 城山は客席のほうを眺めていた。いや、正確には客席ではなく、客席の上の、なにもない空間をだ。

 そこになにかが見えている、とでも言うように。

 プロの演奏家である城山には、実際に本当に、なにかが見えているのかもしれない。

 彼が見ているのは、反響する音か。それとも、座席から舞台を静かに見つめる、なにかか。

 城山は客席の方を見ながら、嬉しそうに笑った。


「ここは奏者の味方になってくれる、いいホールですね」

「半分しか借りてねえけどな」


 その借りていない半分から、誰かが笑ったような気配がした。

 あるいはそれは、ホールに反響した城山の笑い声だったのかもしれないが。

 奏者の味方になってくれる。それはどいういうことなんだろうと思いつつ、鍵太郎は自分の席に戻った。

 隣の席で、音出しを始めていた美里が言う。


「湊くん。ここは音楽室より広いですので、まずは音を遠くに飛ばすことから始めましょう」

「遠くに?」


 鍵太郎は聞き返した。同じ楽器の先輩はうなずいて、ホールの奥、二階席の端を指差す。


「あそこに音を当てて、座席中に音を反響させるんです」

「……遠投みたいなもんですかね?」


 鍵太郎は野球のボールを遠くに投げる様を想像した。試しに楽器を吹いてみると、ベルから伸びた音が遠くの壁に当たり、とん、と着弾した手応えがある。

 音の塊は見えもしないし、距離も遠い。

 けれど『当たった』という感覚だけは、鍵太郎の中に確かにあった。

 壁に当たった音は解けて、ホールの中に広がる。

 やまびことも違う、自分の感覚が延長したような、不思議な感触だった。

 音楽室とは全然違う音の響きにぽかんとしていると、美里がうなずいて言ってくる。


「そんな感じです。でも、演奏中は続けてすぐに次の音を出します。そんなに大きく振りかぶれないですので、いつもの感じで遠くまで飛ばせるようにがんばってみてください」

「振りかぶらずに遠投しろと!?」

「大丈夫ですよ。今の湊くんならできますから」

「む、むう……」


 普通の投げ方で、できるだけ遠くに飛ぶようにやってみろということか。

 何度か試してみる。最初はなかなか掴めなかったものの、徐々にできるようになってきた。

 飛ばそう飛ばそうと力むと余計駄目なことがわかったので、できるだけ肩の力を抜いて吹いてみたら、これが案外遠くまで伸びるのだ。

 天井が低く狭い音楽室とは、音の広がりと質感が全く違う。

 余韻の震えがなめらかで、優しく広がる。

 ああ、なんか気持ちいいな。

 遠くの方で鳴っている音を聞きながら、鍵太郎はそう思った。

 これが、ホールを味方につけるということなのだろうか。

 風呂場で歌うとよく響いて歌が上手くなったと感じるように、広い広い客席の空間が、自分の能力を引き上げてくれるような気がした。

 それは他の部員たちも同じらしい。

 自分の音だけでなく、他の部員の音も遠くで鳴るようになってくる。それが合わさって、違う色や輝きになり、ホールに溶けていく。

 これで合奏をしたら、いったいどうなるのだろう。

 その結果を知る機会は、意外と早くやってきた。



###



 『それ』を感じたのは、今日何回目かの合奏でのことだった。

 城山の指揮はこれまで何度も見てきているが、そのたびに鍵太郎はいつも必死でついていっていた。

 この日もそれは同じで、城山の指揮と隣の美里の音を頼りに吹いていたのだが――

 いつもと違うのは、聞こえてくる響き。

 重なり合う残響に誘われて、鍵太郎の勝手に指が動き始める。

 最初は、違和感を覚えなかった。そろそろ楽譜を指が覚えて、いちいち指番号を見なくてももう大丈夫にはなっていたからだ。

 けれども、途中ではっと気づいた。

 動かそうと意識する前に、既に指は動いている。

 度重なる合奏の疲労から来る、極限状態なのか。

 いつもと違う底上げされた能力が見せた、幻だったのか。それはわからないが。

 指が勝手に動いて、呼吸も他と揃って、次に来るタイミングが見通せて。

 出た音と合奏の音が混じって、遠くで鳴って。

 それが消えないうちに、どんどん次の音が重なるフレーズが溢れてきて、ホールの広大な空間を埋め尽くしていく。

 なんだこれ。なんだこれ。

 戸惑いを覚えながらも高揚する心が、押さえ切れなかった。

 身体が勝手に動いているのに、怖くない。むしろ楽しい。

 前に本番でテンポが大暴走したことがあったが、今回はあんな風な脳がチカチカするようなスリリングなものではなく、奥底から湧き上がるような自然な動きだった。

 自分が自分ではないような。けどここで大きく息を吸っているのは間違いなく自分のはずで、それを認識しているのも自分のはずで、しかし自分はどこにもいない気がして。

 他人か自分かの区別なんてこと、もうどうでもよくなっていた。

 今まで合わせようとして合っていたリズムが、躍動して一体になり流れていく。

 周りの音に息に動きに突き動かされ身体が反応する。自分の出した音が誰かと繋がる。

 意識は冴え冴えとしているのに、自分という殻がないような。

 かっこいいとか、ここは苦しいとか、今まで気にしていたものがなにもかも抜け落ちて、中にあったなにかが光っているように感じられた。

 その光を感じただけで、そこに手を伸ばそうとか、そうは思わない。それがどこにあるのかもわからないのに、確かに『ある』ことだけは感じ取れる。

 気持ちよすぎておかしくなりそうだった。

 響きに溶けそうなくらい、呑まれてしまっていた。

 そしてそれを自覚しながら、止めようと思う気持ちは一切起こらない。

 ホルンとトランペットの高音にギリギリまで感覚が絞られて。

 シンバルの稲光のような音に、目がくらむくらい弾けて、一気に解放される。

 迷いがない。恐れがない。

 あるのは進もうとする曲だけ。意識も飛んだような気がするが、気にしない。

 鼓膜を脳を意識を震わせる音に、夢中で全てを傾ける。

 全員の音が嵐のようにうねり、鼓動のように打楽器が打ち、そのひとつひとつを受け取りながら、全力を出し切って駆け抜けていく。

 クライマックスの集中力は、いったいどこから出てきたのだろう。

 ザンッ――! と音を立てて、最後の音の残響が響いた。誰も動いていないのに、風が吹き抜けていったような気がした。

 その風を聞いていたのか、城山は少しして、指揮棒を下ろした。部員たちが安堵したように楽器を下ろす。


「今のはよかったね。ちょっと休憩しようか」


 城山のセリフを受けて、バラバラとみなが休憩に入った。

 楽器を下ろす。

 震える手を見下ろして、鍵太郎は呆然とつぶやいた。


「……今の」


 なんだ。

 明らかにさっき、自分はおかしくなっていた。

 曲が終わって少し冷静になれば、どう考えても異常な感覚だったことがわかる。

 今まで味わったこともない感覚に、意識が全部塗りつぶされて。

 自分が自分でなく、なにか他のもっと大きなものと繋がったような、妙な全能感に突き動かされていた。

 周りの部員たちはなにごともなかったように、各々休憩している。

 今の変なの、俺だけだったんだろうか?

 周囲の様子に、鍵太郎はそう思った。

 瞬間的にではあるが全員と意識が繋がっていたような感覚さえある。誰かしら自分と同じようなことを体験していそうだが――そんな雰囲気もない。

 急に不安になった。さっきまで感じていたものから突然切り離されて、言いようもない心細さに襲われる。

 自分はやっぱり、おかしくなってしまったのだろうか。

 美里が席に戻ってきた。訊こうか訊くまいか迷ったが、不安に勝てなくて、どうしても口にしてしまう。


「先輩、あの……」


 言いかけてから、どう説明してよいのかと思う。

 合奏してて異常に気持ちよかったことはありますか?

 違う。それは完全にセクハラ発言だ。もっと違うなにか、言い方、言い方――


「先輩は合奏中、指が勝手に動いたことありますか?」


 これならセーフだろう。たぶん。後輩の挙動不審な様子に首を傾げていた美里は、「ああ」と言った。


「ありますよー」

「ほんとですか!?」


 よかった。自分だけではなかったのだ。鍵太郎は安心して、ほっと胸をなでおろした。


「たまに、ですけどね。勝手に動くときはありますね。なにかに突き動かされるというか、なんというか」

「同じだ……」

「よく、『降りてきた』とか言う人はいますね。湊くんも、そうなったんですか?」

「それだと、思います……」


 確証はないが。きっと、それに近いのだろう。「よかったですねえ」と美里に言われた。喜ばしいことなのだろうか。


「それがあったということは、湊くんの音が、みんなと波長が合ったということですよ。

 わたしも数えるほどしかそういう感じになったことはないのではっきりとは言えませんが、少なくともみんなと心が揃わなければ、そんな感じにはならないと思うのです」


 波長が合いすぎて意識が飛びそうだったのだが。しかしまあ、あれは上手く吹けていたという解釈でいいようだ。とりあえず一安心する。

 先ほどの感覚を振り返る。

 脳内麻薬が見せた幻覚か。ホールの精霊に惑わされでもしたのか。

 忘我の境地。異常な一体感。

 波長が合っていた?

 心がひとつになっていた?

 ちらりと、美里を見る。その一体感の中に、彼女の音はあったのだろうか。

 合奏中の覚醒状態は解けてしまって、もう思い出せない。

 けど、気持ちよかったんだよなあ、と思う。

 ああ、青少年の欲望的な意味ではなく、もっと高尚な、ええと、なんだ。

 エクスタシー?

 いや待て、この単語も誤解を招くぞ!?

 鍵太郎が言葉の意味の幅と格闘していると、美里が隣でホロリと泣いていた。


「いつの間にか湊くんも、そこまでできるようになっていたのですねえ……」


 完全に我が子の成長を喜ぶ親の図である。相変わらずの子ども扱いだった。

 みんなとの一体感よりも、まず美里との一体感を味わいたいのだが。

 いや、青少年の欲望的な意味ではなく、ね?

 言い訳がましくそんなことを考えながら、今度またこれが来たら、どうなってしまうんだろうと考える。

 そんな鍵太郎の心配とは裏腹に、今日の合奏でまたこの感覚が来ることはなかった。

 あれは本当に、ホールの精霊に惑わされでもしたのではないか――

 帰りにもう一度リアルテトリスをやりながら、鍵太郎は首をかしげた。

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