第49話 空に喧嘩を売る

 大見得を切っておきながら。

 湊鍵太郎みなとけんたろうは野球場のスタンドに、横になっていた。

 原因は、炎天下による暑さ。そして、楽器の吹きすぎである。


「だから、無理しないでくださいと言ったのに……」


 隣にいる同じ楽器の先輩、春日美里かすがみさとがパタパタとうちわで扇いでくれていた。

 川連第二高校の吹奏楽部は今、野球部の応援にかりだされている。

 現在試合は一回の裏。相手の久下田高校の攻撃中だ。

 相手の攻撃の回では、こちらは応援の演奏はできない。トランペット隊に引きずられる形で馬鹿吹きしてしまったせいで、鍵太郎は予想以上に疲労していた。


「な、なぜ……」

「わたしたちの楽器は、上に向かって音が出る楽器だからです。こういう天井のないところだと、音がさようならして返ってこないんですよ」


 鍵太郎は空を見上げた。野球場の上には、雲ひとつない晴天が広がっている。太陽がガンガンに照り付けていて、とても眩しい。


「どうりで、吹いても吹いても自分の音が小さいと……」

「そう思って吹いてしまうと、お空に喧嘩を売っているようなもので、無限に体力を吸い取られてしまいます」

「空に喧嘩を売る、か……」


 まさに今は、そんな状況かもしれない。

 相手の久下田高校の吹奏楽部とは、そんな力関係なのだから。

 今応援席にいる、久下田高校の吹奏楽部は『二軍』なのだという。

 吹奏楽部の夏の大会、吹奏楽コンクールに向けて、『一軍』は音楽室で練習しているらしい。

 そして同じコンクールでも、久下田高校と川連第二高校は、争う部門が違う。

 久下田高校は全国大会のあるA部門、大編成の部。

 川連第二高校は全国大会がないB部門、小編成の部。

 規模もシステムも、全部の次元が違った。

 反発したくても突き上げた拳は、むなしく空を切るだけ。

 でも、と鍵太郎は思う。


「でもやっぱり、そんなやつらに負けるのは嫌なんです」

「負けず嫌いさんですねえ」


 美里が呆れたように笑った。そして、「では」と作戦を伝授してくれる。


「少し楽器を斜めに構えましょう。スタンドや掲示板に音を当てて、反響させれば多少は違うはずです」

「なるほど」


 二回からはそれでいこう、と鍵太郎は思った。

 いくら気に入らないからといっても、ただ空に拳を突き上げているだけではどうしようもない。

 小兵には小兵の戦い方がある。大きなものに正面きって挑んでも、勝負にならないのはわかっているのだ。

 鍵太郎は起き上がった。かつて取っていた反則スレスレの行動でなくても、やれることはある。



###



 二回からは先輩の言うとおり、楽器を少し斜めに構えてみた。

 ベルが横を向いて、自分たちの高校の応援団の方に音が飛ぶようになる。

 鍵太郎の野球部の友人である黒羽祐太がそれに気づき、手に持ったメガホンを振ってきた。聞こえているようだ。

 楽器を吹いているため手を振り返すことはできないものの、目だけで答えて曲を吹き進める。

 今吹いているのは、『コンバットマーチ』だ。

 楽譜はあるが古ぼけた五線譜に手書きで、はるか昔の先輩が書いたものだとわかる。

 音符も単純で、たまに間違ってるんじゃないかこの音、というのもある。

 そういう音をは吹きながら直す。まだまだバリバリ吹いている、トランペットの豊浦奏恵とようらかなえが中心になって、勢いよく曲が進んでいく。

 キンッ、とバットがボールを叩く音がした。

 ヒットならヒットの曲に変えるが、ファウルならこのまま曲を続けなければならない。

 しかし鍵太郎は楽器を吹いているため、試合の状況がよくわからない。ボールはどこに飛んだのか。フェアなのか、ファウルなのか、その判断を前にいる応援団に求める。

 吹奏楽部に曲の指示を出すのは、野球部の補欠の応援団員だ。ユニフォームを着た野球部員はボールの行方を見届け、『コンバットマーチ』と書かれた大きなスケッチブックを掲げた。ファウル。曲は続行だ。

 もしヒットだったら、そのスケッチブックをめくって『ヒット』と書かれたページが掲げられることになっている。

 この人がいなかったら、なにを吹いたらいいのかもわからない。補欠で結成された応援団であるが、少なくとも彼らは、自分の役割を果たそうとしている。

 彼らだってレギュラーで試合に出たかっただろう。

 けれど今は、その思いを応援に託しているのだ。

 自分たちと同じだ。

 勝ってほしい。切にそう思う。試合をしている野球部の選手へと音を飛ばす。

 もう一度打球音がしたものの、捕球されて一塁に送られた。アウトだ。打者交代。

 打者がバッターボックスに入ってくるまでのわずかな時間で、口を拭く。休みがないので、こんなときにしか楽器と口を拭くことができない。

 準備をして、次の戦いに向かう。次の曲はなんだ。

 スケッチブックがめくられ、『ルパン』と書かれたページが掲げられた。



###



「ちなみに、野球部の実力としてはどうなの? 川連二高うちと久下田高」

「今のところは拮抗してる。どっちが先に点を取れるかで、だいぶ変わってくる」


 結局、お互いに点を取れないまま、七回の裏。

 久下田高校の攻撃になり、音は出せなくなった。鍵太郎は楽器を下ろして、トランペットの同い年である千渡光莉せんどひかりの質問に答えた。

 鍵太郎が見る限り、野球部自体の実力はそう変わらないように思える。

 だからやっぱり、応援で変わってくるんだ。厳しい眼差しでグラウンドを睨む鍵太郎を見て、「あんたほんと、なにと戦ってんのよ……」と呆れた声を向けられる。


「別にこれで勝ったところで、久下田高校の吹奏楽部に勝てるわけじゃないのよ? あっちはたぶん、歯牙にもかけてないわよ。せいぜい、ああ、なんか盛り上がってんなあ、くらいじゃないの」


 言われて、演奏をする久下田高校の応援席を見る。

 まず、人数が多い。そして応援歌なのにハモっていた。

 まるで演奏会だ。その品のよさが余計に、鼻につく。

 だから?

 上手いから、なんだというのだ?

 勝って当然、そんな風に思っているやつらに、一泡吹かせてやりたい。

 虎視眈々と機会を狙って、油断しているその喉元に食らいついてやりたい。


「ばっかみたい」


 光莉が拗ねたように言った。


「結局あんた、未練タラタラなんじゃない。野球」

「……そうじゃない。思い入れがあるから、熱くなるのは当たり前だ」

「自分が勝てなかったから、代わりに勝ってもらいたいんでしょ。人に勝手に背負わせて、応援してやるんだーなんて、ずるいわよ」

「……うるせえよ」


 ものすごく痛いところを突かれて、鍵太郎は渋面になった。

 光莉の言うことは正しい。

 そうなのかもしれない。自分はかつて勝てなかった相手を見て、腹いせのように応援しているだけなのかもしれない。

 けど、それだけじゃない気がするのだ。


「これで、勝てたらさ」


 もし今日、これで勝てたら。


「今度こそ本当に乗り越えられるんじゃないかって。……そんな気が、するんだよ」


 昔の、一人でがむしゃらに走っていただけの自分は、怪我を負った。

 自業自得ともうべきその罪を、ここで美里に許されたような気がした。

 だからもう一度戦えると思った。

 なら、今、もう一度――。

 そう言って少しうつむいた鍵太郎を、しばらく見ていた光莉だったが――「ああ、もう!」と叫んで、いつものように怒鳴ってくる。


「わかったわよ!? つきあってあげるわよ!」

「……え」


 てっきりまた、ばかみたいと言われるかと思っていたのだが――

 予想外の返事をもらって、鍵太郎は顔を上げた。

 そこには、頭を抱えてめんどくさそうに怒鳴る、光莉がいる。


「あんたの怪我の話聞いてる以上……ちゃんと立ち直ってもらわないと困るのよ! 後味悪くて!」

「……ありがとう」


 笑うと、光莉はいつものように、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。


「かっ、勘違いしないでよね!? 別にあんたのためなんかじゃ、ないんだからね!」

「それでも。嬉しい」

「……っぐ!? ふ、ふんっ! ばっかみたい!」


 ドスドスと足音をたてて自分の席に戻っていく光莉を、鍵太郎は見送った。

 そう、昔の自分になくて、今の自分にあるもの。

 それは――



###



「さーて! 八回の攻撃、はっじまっるよー!」


 吹き続けて口も痛いだろうに、豊浦奏恵のテンションは相変わらず高かった。

 死ぬときは前のめり、そう言っていたのは本心からだったらしい。

 掲げられたスケッチブックは、『必殺仕事人』のテーマ。冒頭はトランペットソロだ。

 奏恵は楽器を構え、野球場全部にそのフレーズを響かせた。本来の鋭さや渋さとはかけ離れた派手な吹き方だったが、今のこの場面ではかえって、その豪胆さが頼もしい。

 疲労も溜まって緊張のかかるこの場面で、見事に全部吹ききったのは驚嘆に値する。

 おおお、と野球部や観客から歓声があがる。拍手まであがった。

 その勢いで、演奏が始まる。テンションが上がった応援団が、力強くメガホンを叩き出した。

 奏恵に引っ張られる形で、吹奏楽部も大きく吹き始める。

 なんだかトランペットの音が、やたら大きく聞こえてくる。ひょっとして光莉だろうか。コンクールが近いからと音量を絞っていた彼女も、ここに来てようやく、一緒にやってくれる気になったらしい。

 ありがとな、と心の中で感謝して、鍵太郎も思い切り吹き始めた。

 楽器とは違う鋭い金属音が聞こえた。すぐさま、スケッチブックの表示が『ヒット』へと変化する。後半に来てのランナーに、さらに応援席のテンションが上がっていく。

 休んでいる暇はない。口だけ拭いたらすぐさま次の曲だ。

 『ねらいうち』。ランナーが出た場面では、これほどうってつけの曲もない。チャンスの到来に、「先輩、がんばれーッ!」「打てーっ!」と、応援団からも声があがる。

 続いて聞こえた快音は、なんだったのか。悲鳴のような声が収束して、それが一気に歓声に代わる。足でもぎ取った、ヒットのようだ。

 その場面は見えていないが、その様子とスケッチブックで、大体のことは察せられた。少しだけ口が疲れてきたが、まだ攻撃は終わらない。野球部とともに、吹奏楽部はある。

 次はもう、野球応援といったら絶対聞く曲だ。『ポパイ』。奏恵は最後に音が下がるのが気に入らないのか、一オクターブ上げてかかっていた。その音で応援席全部を鼓舞し、高揚させていく。

 奏恵の音が。メガホンの音が。自分の音が。

 全部繋がって、異様な盛り上がりを見せていた。

 そう。今は自分は一緒に戦っているのだ。

 身体が熱いのは、日差しのせいか吹きすぎているせいか、わからない。

 けれども今確実に、この空に、全員の音は響いているはずだ。

 押さえようと投げ込んでくるピッチャーに、バッターは食らいついているらしい。なかなか曲が終わらない。テンションが上がりすぎているせいかテンポも速くて、息継ぎが追いつかない。

 何度も何度も繰り返して――苦しくて脇腹がねじれそうに思えた頃。

 キィン! と音が聞こえた。

 一瞬後に、爆発するような歓声が起こった。

 鍵太郎にも、外野を破って転々と転がっていくボールが見えた。苦しさなんて関係ない。そのままヒットのテーマにつなげていく。

 勢い込んで走ってきたランナーがホームインし、一点が入った。

 直接そのシーンは見られなかったけれども――

 その選手が空に拳を突き上げて叫んだ瞬間が、鍵太郎には見えた気がした。



###



 あとはもう、猛攻だった。

 そのまま一気に押し切って、4‐0で試合は、川連第二高校の勝利に終わった。

 帰り際。吹奏楽部用のバスの外で、野球部の部員たちが手を振っているのが見える。

 そこに黒羽祐太の姿を見て、鍵太郎は笑って手を振った。


「……で、どうなのよ。立ち直れたの? あんたは」


 前の席から身を乗り出して訊いてくる光莉に、鍵太郎は答えた。


「わかんねえ」

「は!?」


 驚いて口をあんぐりさせる光莉に、自分でもどうなんだろうなあ、と思いながら鍵太郎は言った。


「あいつらがムカつくって思いはまだ残ってるし、勝った瞬間の興奮が続いてて、立ち直ったように感じてるだけのような気もする。

 でも、まあこれで――ちょっとは違うんじゃないかな、とも思う」

「そ、そんな曖昧な……」


 ぐったりと、光莉が頭を垂れた。たくさん吹いて疲れたのか、彼女はのろのろと席に戻る。


「もういいわ……今日は疲れた。明日からはまたコンクールに向けて、練習するわよ……」

「だな。今日はありがとう、千渡」

「ちくしょう……明日からみてなさいよおぉぉ……」


 悪の幹部みたいなセリフを残して、光莉の姿が見えなくなった。

 ふと、つぶやく。


「……コンクール、かあ」


 これからあるというその大会の話は、いろんな人から聞いているが。

 今までの自分とこれからの自分では、きっとそれとの向き合い方も変わってくるだろう。

 鍵太郎はバスの中から、空を見上げた。

 そこには、雲ひとつない晴天が広がっている。

 太陽がガンガンに照り付けていて、とても熱く、眩しく感じられた。

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