第48話 よろしい、ならば戦争だ
「男どもは出て行け!」
そう言われて、
バタン、と拒絶するように、音楽室の扉が勢いよく閉まる。
そしてしばらくして、きゃいきゃいと、中から声が漏れてきた。どんな会話かまでは聞き取れないが、楽しそうな雰囲気だ。
中で着替えている、吹奏楽部の女子部員たちの声である。
「……涼しいですね、廊下は。日が当たらなくて」
「ああ、涼しいな廊下は……日が当たらなくて」
そして夏なのになぜか薄暗い廊下で――吹奏楽部の男子部員二名は、Tシャツだけを握り締め、そんなことをつぶやいた。
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部活で買った、揃いの青いTシャツに着替える。
吹奏楽部はこれから野球部の試合の応援に行くのだ。甲子園の地方県予選。今日は二回戦となる。
「……そろそろ着替え、終わりましたかね」
着替えてしばらくして、鍵太郎は先輩に尋ねた。
扉一枚隔てた先から、女子部員たちの明るい声が聞こえてくる。
いったいどんな光景が繰り広げられているのか。想像しまいとする心と本能がせめぎあっていて、落ち着かなく歩き回る。
そんなソワソワとしている後輩へと、聡司は言った。
「……耐えろ。呼ばれるまで動かないほうがいいぞ。うかつに中に入ったら、殺される」
こちらはこんな修羅場を、いくつも乗り越えてきたのだろう。三年生の聡司は一年の鍵太郎に、かつての戦争の記憶を語り始める。
「去年のことだ。オレはこんな風に、外に追い出された。そのとき、扉を閉める春日に言われたんだ。『決して中を覗いては、なりませんよ……』と」
「恩返しする鶴ですか。あの人は」
扉から半身だけ覗かせて、そう言う先輩の
同じように思ったのだろう。聡司はそれにうなずいて、続ける。
「そう思うよな。だから俺も、思わず口に出しちまったんだ。もちろん冗談めかしてだが。『むしろそのセリフって、覗いてくださいと言わんばかりじゃね?』って。そうしたら……」
「そうしたら……?」
その時の感覚を思い出したのか、聡司は身震いした。
「音楽室から……見えない攻撃を食らった。春日は動いていなかったと思うが――無数の暴力が、オレに押し寄せた。気がついたときには、オレは廊下に倒れていた」
「うわあ……」
引いた。完全に恐怖体験の類だった。女子部員の殺気が、質量を伴って聡司に襲い掛かったようにしか考えられなかった。
「恐らく、恐らくだが、音楽室の中の部員たちから、殴られたんだと思う。記憶が飛んでるんだが、それ以外考えられない。そうであってほしいんだ……」
「きっとそうですよ、先輩……」
心の傷を負った兵士を治療する医者のように、鍵太郎は聡司にそう言った。
「先輩は悪くないです。悪いのは、あの逆セクハラする人たちです。最近は訴えても勝てるんじゃないかとすら思えてきました」
「そうだろう、そうだろう。風呂場と更衣室は覗くためにあるものだ。わかってくれるか湊」
「そんな目にあってもまだそんなこと言うか、この人は!?」
「透視能力、透視メガネ、透明人間化。あるいはなんらかの理由であの扉が爆発しないか。その無限の可能性について語り合おう、後輩よ」
「無限にありえない可能性ばっかりなんですけど!? 歴戦の戦士みたいに言ってますけど、しょうもなっ! 内容しょうもなっ!?」
「かつてはオレもおまえのようにソワソワしていた身だったが、膝に矢を受けてしまってな……」
「なにと戦ってたら膝に矢を受けるんですかっ!? 吹奏楽部ってなにと戦うところなんですかっ!?」
「しっかしほんとオレたちは、なにと戦ってるんだろうなあ……」
「自分の忍耐力の限界とかじゃないですかねー……」
「まだ終わんねえのかなー……」
時間稼ぎのために、わかっていてしょうもない会話していた二人だったが。
いつまで経っても開かない扉に、さすがにそれも持たなくなってきた。業を煮やした聡司が鍵太郎に言う。
「よし湊。おまえちょっとあの扉開けてこい」
「先輩、さっきと言ってること正反対なんですけど。俺に死ねと?」
「春日の胸に突っ込んで許されたおまえなら、きっと大丈夫だと思うんだ。こう、事故を装って……」
「あれは本当に事故だったんですよ! さすがに今回は春日先輩も許してくれないですよ!? やーだー! 俺先輩に嫌われるのだけは死んでもやーだー!」
「ええい、萌展開のために命を捧げんか、このヘタレめ!」
「だったら先輩が行ってくださいよ! 死ぬ寸前に桃源郷を目に焼き付ければ本望でしょう!?」
「確かに! 据え膳食わぬは男の恥! 玉砕すとも男子の本懐ならずや! 作戦を『いのちだいじに』から『ガンガンいこうぜ』に変更する! 一緒に行こうぜ後輩、ピリオドの向こうへ!」
「死亡フラグだあああああっ!?」
欲望に耐え切れず狂った上官に首根っこを掴まれて、鍵太郎は音楽室へと引きずられていく。
打楽器をやっているせいなのか聡司の腕の力は強く、まったく振りほどけない。
そして鍵太郎の背後で、がちゃり、と扉を開ける音がした。
反射的に音のするほうへ顔を向けると――
「……見て、しまったのですね」
春日美里の悲しげな声が聞こえた、ような気がした。
そして鍵太郎は、気を失った。
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「……はっ!?」
鍵太郎の目が、ぱかりと開いた。
いつの間にかうつぶせに、何かに寄りかかっている。身を起こすとそれは、金色に輝く自分の楽器だった。
座っているのは、野球場のスタンド。そうだ、自分は今日、野球部の応援に来ているのだ。
ああそうだ、と鍵太郎は思う。今のはきっと夢だ。そうでなければ、あまりの暑さに幻でも見ていたのだろう。
ずきりと頭が痛む。熱中症かもしれない。横に置いてあったスポーツドリンクを飲む。
「大丈夫ですか? 湊くん」
隣にいた同じ楽器の先輩、春日美里が話しかけてきた。鍵太郎はうなずく。
「大丈夫です。けどなんか頭が痛くて……熱中症になりかけてるのかもしれません」
「そうですか。じゃあこれをどうぞ」
美里が差し出してきたのは、冷却ジェルシートだ。
ありがたくいただいて、額に貼る。熱さと痛みが引いていく。
「ありがとうございます。少し楽になりました」
「ええ。暑いですからね。暑いと変な人増えますから、冷やしたほうがいいですよ。頭とか」
「そうですね。冷やしたほうがいいですね。頭とか」
「うふふふふ……」
なぜだろう。美里の笑顔に変な影がある。
少し離れたところに聡司がいて、彼の顔にも冷却ジェルシートが何枚も張ってあった。
それが妙に気になったが、きっと暑いせいだろうと鍵太郎は納得した。美里は日除けの帽子を被っているのだ。顔に影ができるのは当然だ。
聡司だってこれだけ暑いのだから、ミイラのように冷却シートを貼りたくなったりもするだろう。そうだ。だってそれ以外に、どんな理由がある?
また頭痛がしてきて、鍵太郎はもう一口スポーツドリンクを飲んだ。そして、周りを見渡す。
県の野球場。
そしてここは、そこの応援席。
川連第二高校と、
「おーっす湊。ごくろーさん!」
軽い調子で話しかけてきたのは、鍵太郎の小学校からの友人、
祐太は道が分かれたことで少し気まずくなったこともあったが、今は和解している。練習で日焼けした顔で、気のいい友人は鍵太郎に言った。
「今日は野球部と吹奏楽部が、一緒に応援するからな! いっちょ派手に頼むぜ!」
「おっけー」
メガホン片手に笑う友人へと、鍵太郎は返事をした。さすがに一年生の祐太は、試合には出させてもらえないようだ。
そう考えると、一年のうちから楽器を与えられて大会に出られるのは、結構ありがたいのかもしれない。
去っていく友人の背中を見送っていると、美里に話しかけられた。
「湊くん……やっぱり野球部に入りたかったですか?」
怪我をして、色々あって野球は辞めてしまった。悔いがないといえば嘘になるが。
鍵太郎は首を振った。
「いいんですよ。怪我をしたのは自業自得ですし……それに、今の俺にはコレがありますから」
そう言って、楽器を軽く上げる。美里が持っているのと同じ、馬鹿みたいに重いこの楽器を。
「みんな気を遣ってくれますけど、結構俺、ここに満足してるんですよ」
これは本当だ。足と心を折ってフラフラしていた自分は、ここに来てたくさんのものを得た。
そして再び歩き出そうという気持ちになった。
黒羽祐太の目論見は、見事にその通りになったわけだ。
改めて、友人のありがたさを感じる。あいつにはレギュラー取ってほしいなあ、と切に思う。
「だから、今さらあっちに行ったりはしませんよ。あいつはあいつで、俺は俺で、お互いにがんばるだけです」
「湊くん……」
美里が泣きそうな顔で、自分を見ていた。
あーあ、そんな顔しないでほしいなあ、と思う。
そんな心配なんてしなくてもいいくらい、自分はあなたの隣にいたいのに。
美里を不安にさせるようでは、まだまだ自分は頼りない。だから鍵太郎は努めて明るい調子で、「さ、音出ししましょう音出し」と言った。
そんな後輩を見て、美里は深くうなずく。
「……わかりました。では、今日は野球部さんの応援、がんばりましょう」
「はい」
今の自分は野球をプレーする立場ではない。野球を応援する立場だ。
それでいいと思えたことが、嬉しかった。
###
しかし――応援する側にも、プライドというものがある。
そう思ったのは、相手高校の吹奏楽部の話を聞いたときだった。
「……補欠?」
向こう側のスタンドを見て、鍵太郎は言った。
同じ一年生の、
「そう。あっちの久下田高校の応援団は、コンクール組から漏れた、吹奏楽部の補欠よ」
「なんだよそれ……」
川連第二高校の吹奏楽部は、コンクールメンバーのオーディションを行えるほど多くの部員はいない。
今、吹奏楽をやっているからこそ。そして元野球部だからこそ、鍵太郎は反発を覚えた。
真剣勝負の野球の試合の応援に、補欠を寄越す?
「しょうがないじゃない。久下田高校の吹奏楽部にだって、彼ら本来の大会がある。コンクールで金賞を取りたいんだったら、こっちには二軍を寄越すでしょう」
「……二軍」
本来の戦い。
吹奏楽コンクール。
じゃあ、今ここにいる自分たちはなんなのだ。
野球応援は、彼らにとって片手間だとでも言うのか?
「規模が違いすぎて、比べられないのですよ。湊くん」
隣から、静かに美里が言ってきた。
「久下田高校さんも、富士見が丘高校さんほどではないですが、すごいところです。
吹奏楽コンクールA部門――大編成の部に出られるだけの規模と、実力を持っています」
聞いたことのない単語が出てきた。鍵太郎は眉をしかめて、訊く。
「A部門って、なんですか」
「演奏人数55人以内。課題曲・自由曲の二曲演奏の大会の部門のことです。富士見が丘高校さん、久下田高校さんはこちらへの参加となります。
対して、わたしたち川連二高が参加するのはB部門。小・中編成の部。演奏人数30人以内。自由曲一曲のみの演奏です。
両者の大きな違いは――全国大会があるかないか、ですね」
最初から日本一を狙って挑戦していく、大編成、A部門。
最初から全国大会そのものが存在しない、小編成、B部門。
「なんかそれって……馬鹿にしてないですか」
人数が揃わなければ――規模がなければ、日本一になどなれないと。
おまえらは永遠に補欠のままだと、そんな風に言われているような気がした。
「馬鹿になんてしてない。むしろB部門は救済措置なのよ。人数の少ない学校でも、コンクールに参加できるようにっていうことで、後からできた部門なの」
「だからって……」
光莉の言うことはもっともだ。
お門違いな怒りであることは、わかっている。
けれどなんだか、これでは自分たちまで――美里まで二軍だと言われているようで、納得がいかなかった。
鍵太郎は小柄がゆえに、身長がある選手に正攻法で挑んでも、ほぼ負けが決まっていた。
それが悔しくて悔しくて、だからこそ卑怯な手段で勝ちに走り、結果全部を失った。
それを乗り越えて、今は吹奏楽部にいるのだけれど――
「……だからって、勝ちたくないわけじゃ、ないんだよ」
やっぱり、悔しいものは悔しかった。
野球部と吹奏楽部。
A部門とB部門。
レギュラーと補欠。
戦うフィールドそのものが違うことは、わかっている。
けれどやっぱりこれは、強い者が弱い者を蹂躙していくのが、当然だと言われているようで。
腑に落ちなかった。
「負けて当然なんて、そんなの、おかしいんだよ」
だからせめて、応援だけでもあいつらに勝ちたい。
そう思ったとき、高らかなファンファーレが球場に響き渡る。
「うーん! やっぱり野球応援といえば応援ラッパ! かっちょいいー! あたしの楽器が火を吹くぜー!」
トランペット三年の
あまりに野球応援らしいかっとばした音で、光莉が慌てて奏恵に言う。
「ちょ……豊浦先輩! そんな吹き方したら、口が壊れますよ!?」
「気にしない気にしない! 死ぬときゃいつでも前のめり! それがトランペットなのだー!!」
「こ、コンクールも近いのに……!?」
「野球応援で、トランペットが聞こえなくてどうするの」
「平ヶ崎先輩まで!?」
「うおりゃー! がんばれ野球部ー!!」
「たまにはこんなのも悪くない」
「ああ、もう、この先輩たちは……!?」
トランペットの先輩たちが、臨戦態勢に入っていた。それを見て鍵太郎は笑う。
これで勝ったからって、なにが変わるわけでもないけれど。
「ああいうやつらに負けるのはやっぱり、いけ好かないんですよ」
「湊くん……あの」
美里が心配そうにこちらを見ている。彼女を安心させるように、鍵太郎は言った。
「大丈夫です。今度は道を踏み外したりはしませんから」
「それなら……いいのですが。無理はしないでくださいね」
「はい!」
本当に我ながら、なにと戦ってるのか。
どこかで、そう誰かに言われた気がするが。
それはきっと――大事ななにかを、守るためだと思う。
「応援合戦は、吹奏楽部の野球部による、代理戦争です」
鍵太郎がボソリとそう言ったとき、グラウンドで「プレイボール!」と審判が宣言した。
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