第47話 秘密基地での勉強会
同じ部活の女の子たちと、家で勉強会をすることになったら、どう思いますか?
「いや別に。俺の学年は俺以外みんな女子だから、もうどうとも思わな――ぐぎゃふっ!?」
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「また休止期間か……」
鍵太郎は憂鬱な気持ちで、そうつぶやいた。
六月も末になったこの時期。期末テスト期間とその準備期間は、部活動が休止になるのだ。
もちろん、吹奏楽部だって例外ではない。テレビに出てくるような全国大会常連の強豪校ならいざ知らず、川連第二高校のような普通の吹奏楽部は諦めて勉強するしかない。
「練習ができないのはつらいです。でも、勉強もしないと駄目なのですよ、湊くん」
真面目な発言で後輩をたしなめたのは、部長の
「成績が悪いと、大会に出してもらえなくなるんですよ」
「そうなんですか?」
「はい。本町先生が言ってました」
顧問の本町は、口調こそ乱暴だが存外堅物なところがある。彼女は確かに、そう言うだろう。
うちの学校はあくまで進学校ですからねえ。とのんびりと美里は言った。
「だから、大会に出るためにもちゃんと勉強しておかないと駄目なのですよ」
「わかりました」
いくら演奏が上手でも、そこは見逃してはもらえないようだ。鍵太郎がうなずくと、美里は笑った。
「それに、成績がいいと後々いいことがあるのです」
「いいこと?」
なんだろう。鍵太郎は首をかしげた。けれども、美里は教えてくれない。
ただ、思わせぶりなことを口にしただけだった。
「わたしにとってとても嬉しいことですし、湊くんにとっても、きっといいことですよ」
「……教えてください」
「秘密です」
珍しく、いたずらっぽく先輩は笑った。
その笑顔は反則だ。そんな風に言われたら、それ以上訊けなくなってしまうではないか。
それに、こちらの期待を煽るような真似もやめてほしい。美里にはそんなつもりはないのだろうが、密かに思いを寄せる身としては、そんな言い方をされるといらぬ想像をしてしまう。
お預けを食らって困った顔をしている後輩へ、美里は有無を言わさない口調で、こう言った。
「ともかく、勉強はしてください。いいですね?」
「……はい」
鍵太郎はよく躾された犬のように従順に、そう言うしかなかった。
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「そんなわけで、宝木家の練習には行かない」
「一日くらい大丈夫でしょ?」
鍵太郎の発言に待ったをかけたのは、彼と同じ一年生の
彼女は自分のトランペットを持っている。楽器持ちということからもわかるとおり、非常に練習熱心な女子部員だ。
同い年の部員、
中間テストのときと同じく、今回もそこで練習しようという話になっていた。それを鍵太郎は今、申し訳ない気持ちで断ったのだ。
そんな彼へ、光莉は言いつのる。
「息抜きよ。息抜き。ずっと勉強してちゃ、集中力も続かないでしょ。勉強も練習も、メリハリが大事。でしょ?」
「まあ……そうだけど」
鍵太郎だって、練習はしたい。初心者で入部した彼にとって、二週間近くも楽器に触れないというのはきついものがある。せっかく見習い程度にまで認めてもらったというのに、元の木阿弥だ。
こちらの気持ちが揺れているの察したのか、光莉はさらに熱を込めて続けてきた。
「二週間近くあんたと話せな……ゴホン。楽器を吹かないのは、駄目よ。これ以上にヘタクソになってどうするの」
「いったいおまえは、いつになったら俺を認めてくれるんだ……」
熱心に練習を勧めてくる光莉に、鍵太郎はうんざりとそう返した。
彼女は中学校からの経験者だ。なにかにつけて、鍵太郎のレベルについてああだこうだ言ってくる。
光莉は少し目をそらして、「い、いつって、そりゃあ……」と、モゴモゴと言った。
「あ、あんたが低音楽器として、私のことを十分に支えてくれるようになったとき、かな……」
「おまえのレベルで高音出されたら、今の俺じゃかき消されるわ。いったいいつだよ、俺がおまえに追いつける日」
「ま、まあ? そんなにたやすく追いつかれなんかしないけど? だ、だから練習するの! 練習!」
いつものように顔を真っ赤にして怒鳴られた。こいつ本当になんなんだと思いながら、鍵太郎は反論する。
「あのなあ、前も言ったけど俺の楽器は学校の備品なの! それにすげえでかいし、重いんだよ! あれを持ち歩いて宝木さんちまで行くのは、かなり厳しいんだって」
「なによー! 言い訳してるんじゃないわよー!」
「まあまあ」
険悪な雰囲気になりかけた二人へと、宝木咲耶が割って入った。
今回は彼女の家に世話になるのだ。発言は無視できない。鍵太郎と光莉は渋々、矛を収める。
いつものように柔和に笑いながら咲耶が提案したのは、折衷案だった。
「だったら、練習と、勉強会をやろうよ」
「勉強会?」
「そう。午前中は練習にして、午後は勉強会。なら、湊くんだって来やすいでしょ。マウスピースだけでも持ってきて練習すれば、ちょっとは違うんじゃないかな」
楽器の一部、マウスピースだけなら、持ち運びも楽だ。全く楽器に触らないよりは幾分かマシだし、家で一人で吹いているよりは、練習する気にもなる。
一人より二人。二人より三人。練習も勉強も、そのほうが張り合いがあるというものだろう。
「わかった。じゃあ午後から行く」
鍵太郎がうなずくと、咲耶は嬉しそうに手を合わせた。
「やった。決まりだね! 南無阿弥陀仏!」
「朗らかな念仏だなあ」
咲耶の家は寺である。一時期はそれを気にして周りと一線を引いていた節があったのだが、もうばれてしまっている以上、気にしないことにしたらしい。
あのとき、咲耶と二人で話せたことがよかったのかもしれない。しかしこの謎の仏教ギャグだけはどうにかならないものだろうか。
勉強会かあ、と思う。
「ちなみにみんな、得意教科ってあるのか?」
鍵太郎はそう二人に訊いてみた。集まるのなら、みなで教えあったほうがいいかなと思ったのだ。
二人が顔を見合わせ、光莉が先に答える。
「英語……かな?」
「私、国語」
「俺は社会」
「みんな、見事にバラけたわね」
意外といい布陣かもしれない。そう思っていると、長身の女子部員が話しかけてきた。
「ねえねえ、みんなどしたの?」
トロンボーンの浅沼涼子だ。彼女も一年生で、鍵太郎と同じく初心者で入ってきた部員である。
練習できるなら、彼女も一緒にやるにこしたことはないだろうが――
「あー……」
三人が目配せをし合った。部内全員満場一致で、『ザ・アホの子』と断言できる涼子である。中間テストの際は成績が心配で、彼女は呼ばなかったのだが。
勉強会になら、呼んでもいいか。そう思った鍵太郎は、涼子に訊いてみた。
「……一応訊くけど、おまえ、得意な教科ある?」
最初から期待していなかったのだが、彼女の口から出てきたのは、予想外の単語だった。
「数学」
「すうが……え?」
現実が受け入れられない鍵太郎へ、涼子はもう一度言ってくる。
「だから、数学」
「え……?」
「ウソ……」
「なん……だと……?」
全員から驚きの声があがった。
衝撃の事実だった。「難しいことはよくわからない」が口癖の涼子の得意教科が、数学?
いったいどうなったらそんなことになるのか。固まっている三人へと、涼子はあっけらかんと言う。
「数学ってさ。公式一個覚えれば済むじゃん」
「え……そういう問題?」
「じゃない? 難しく考えてもしょうがないんだし」
「単純思考がゆえに、数学への心理的ハードルが低いのか……っ!?」
「いやあ、照れるなあ」
「褒めてないんだけどね……」
本気で照れる涼子に対して、いつも通りの突っ込みをする咲耶。
気を取り直して、鍵太郎は言った。
「まあ、なんだ。みんな見事に得意教科がバラバラなんだから、勉強会はいいかもな」
「そうね」
「え? なになに?」
まだ事態を察していない涼子をよそに、四人での練習と、勉強会の開催が決まった。
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テスト前の日曜日。
鍵太郎は以前の記憶を頼りに、駅から宝木家へと歩いて向かっていた。
咲耶は前回と同じく駅まで迎えに行こうかと言ってくれたのだが、練習時間を削るのも申し訳ないので断ったのである。
「また自転車、二人乗りしようかと思ったのになあ」と咲耶は笑っていた。その様子からして、いつもの冗談だったのだろう。
涼子は結局、楽器を学校から借りてきた。午前中から練習に参加している。
楽器を借りる際、顧問の先生にも「数学……?」と言われたらしい。そしてその衝撃で、要求を押し切ったようだ。
まあ狙ってやってのことではないだろうが。人の予想を上回るそのストレートさが、いかにも涼子らしい。
みんな楽に持ち運べる楽器でいいよなあ、と鍵太郎は思った。彼の担当のチューバは、楽器本体だけで重さ十キロ。ケースを含めるともっと重い。彼女たちのように、片手でホイホイ運べる楽器ではないのである。
まああの楽器を任されたおかげで、美里と仲良くなれたのも事実だ。そこは文句を言わないでおくべきだろう。
少し早歩きになる。きっと遅くなれば、また光莉がぎゃあぎゃあ言うに違いない。
女三人揃えば姦しい、という。なにかにつけて自分に話しかけてくるあの三人は、本当に元気だよなあ、と感心する。あのテンションの高さは、いったいどこから来ているのだろうか。
そんなことを考えているうちに、宝木家――というか、寺に到着した。
本堂の裏に、隠れるようにして小さな建物がある。以前訪れたときは、秘密基地みたいだと思ったものだ。
秘密基地。その単語には心踊るものがある。
音楽室の音の渦と同じだ。
ドアを開け、中に入る。聞こえてくる音は部活のときより小規模だけれども、耳の芯まで揺さぶられる響きは心地いい。誘われるように歩を進めた。
中では、三人が思い思いに練習している。
「なんでだろうなあ」
その光景を見て、鍵太郎はため息をついた。
「なんで俺は今、手元に楽器がないんだろうなあ……」
あれば今すぐにでも、この輪の中に加わりたい。
無理をしててでも持ってくればよかった。そんな風に思ったとき。
「遅い!」
さっそく光莉に怒鳴られた。これはもはや挨拶に近い気がする。
苦笑いしながら「はいはい」と応対し、カバンの中からマウスピースを取り出す。今の自分にはこれしかない。
「じゃ、もうちょっと練習したら勉強会始めよっか」
そう咲耶が言って、三人はまた練習に戻った。鍵太郎は楽器の一部だけで参加する。
それでも、家で一人で練習しているときより張り合いはあった。一人で家で吹いていても、静かな部屋ではすぐに飽きてしまうのだ。
しばらくそんな風に練習していると、酸素を強制的に大量に吸っているおかげか、目が冴えてきた。
腹式呼吸のおかげだ。これで勉強もはかどる。
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咲耶が部屋の隅から、大きめの机を引きずってきた。本当になんでもあるなこの秘密基地、と思いながらそれを手伝う。勉強会の開始だ。
机を四人で囲み、それぞれ問題を進め、わからないところがあれば教え合う。
「つかれたー」
しばらくそんなことを繰り返した後、涼子がくたりと床に横になった。
ポニーテールにした髪が、ふぁさりと音を立てて広がる。
「もう無理ー。頭爆発しそう……」
「ちょっと休憩にしようか。お茶淹れるよ」
家主の咲耶がそう言って立ち上がる。しばらくして緑茶と菓子が出され、鍵太郎は饅頭を食べた。
緑茶を流し込むと、こしあんが解けて口の中に広がる。ほどよい甘みと渋みが互いを引き立てあい、その感覚が頭脳労働をした後の脳に沁みた。
おいしい。至福の表情をしていると、光莉に変な目をされる。
「あんた、本当に趣味が渋すぎるのよ……」
「なんとでも言え。饅頭と緑茶と、あと楽器があれば、俺はもうなにも要らない」
「贅沢だなあ」
頭の中が極楽浄土だよ、と咲耶に言われた。冷静に考えるとなかなかキツいセリフなような気がしたが、大丈夫だ。今の俺は菩薩のように広い心を持っている。なにを言われても許せる。饅頭と緑茶万歳。
ふいに、倒れている涼子が鼻歌を歌いだした。なんの曲かと思ったが、すぐにわかった。今度の大会で演奏する曲、『シンフォニア・ノビリッシマ』だ。
涼子は自分のパートを歌っていた。涼子のトロンボーンと鍵太郎のチューバは音域が近く、同じことをやることも多い。今のフレーズはまさにそんなところだ。
おいしいものを食べて上機嫌なこともあって、鍵太郎は涼子に重ねるように、小さく歌いだした。
もう楽譜を見なくても、自分のパートくらい歌える。勉強をしていてもなにをしていても、頭の中では常にこの曲が流れているくらいだ。止めようとしても、止められなくなるくらい、それは身体に染み付いている。
メロディーの多いクラリネットの咲耶も、これに乗ってきた。鍵太郎と違って連符の連続で、楽器でやったら相当大変そうだ。けれども今は、楽器を通さず声に出して歌える。彼女は楽しそうに、自分のパートを口ずさんでいた。
光莉は戸惑っていたようだったが、楽しそうに歌う三人がうらやましくなったのか、じきに乗ってきた。彼女ではなく先輩が吹いているはずのトランペットソロの部分まで、曲が途切れないように歌っている。そして歌いだしてしまえば、彼女は楽器を吹くのと同じように、高らかに歌う。
それに引っ張られ、全員の声が自然と大きくなった。
指揮もなく、メトロノームもないのに、呼吸がひたすらに合う。声が揃う。
もちろんこの曲に歌詞はない。音程を取っているだけだ。しかしそれでも、楽器を吹いているときと同じように曲が進んでいく。
テンポはいつもの合奏のときそのままで、タイミングもここだというところに入ってくる。それが声を呼び、歌を作っていた。
鍵太郎と、涼子と、咲耶と、光莉と。
それは幾重にも重なって、広がっていく。
楽しかった。不思議な心地よさを感じながら、ずっとこれが続くようにと歌い続ける。
いつまでそうしていただろうか。
最後の音を口にして、曲そのものが終わった。部屋に沈黙が訪れる。
それを破るように、誰とはなしに笑い声があがった。鍵太郎も、いつの間にか笑っていた。
ひとしきり全員で笑った後で、涼子が起き上がる。
「すごいねえ。どこかで切れると思ったけど、最後までいっちゃったね」
「なんか切れたら負けのような気がして」
「たまに自分の楽器じゃないところも、合いの手さみしいかなと思って入れちゃったりしてね」
「もう何回も合奏やってるからなあ」
終わった後の沈黙から歌を取り返すように、みなが口々に感想を言い合った。
全員、顔が生き生きしている。やはりこの曲が、音楽が好きなのだ。
今日、来てよかったと鍵太郎は思った。
楽器があってもなくても、関係なかったのだ。
そんな表面上ではないもっと深いところで、共有しているものがあった。
饅頭と緑茶と、これがあればよかったのだ。
また、笑いが起きる。それが収まった頃に、仕切り直しのため、咲耶が言った。
「さて、休憩はこのくらいにして、続きやろうか」
「えー。もう?」
涼子がぐんにゃりと机に突っ伏す。そんな彼女に、光莉が苦笑いしながら言う。
「成績よくないと、大会出られないんだって」
「ウソぉっ!?」
「ほんとほんと」
「う……わかった」
「涼子ちゃん、数学教えて」
「うん。あ、終わったら英語も教えてほしい」
「了解」
目の前で繰り広げられる光景が、微笑ましい。
「……なんか、いいなあ」
鍵太郎はそれだけ言って、三人を眺めていた。
曲が終わってしまっても、ずっとこんな時間が続けばいいと、そう願った。
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