第44話 ほんとうにかっこよく

「できねー!」


 湊鍵太郎みなとけんたろうはそう言って、譜面台をひっくり返しそうになった。

 吹奏楽部は、夏の吹奏楽コンクールに向けての練習中。

 やる曲は『シンフォニア・ノビリッシマ』。

 楽譜が配られ、それを鍵太郎は練習していたのだが――これが、とんでもなく難しい曲なのだ。

 同じ楽器の三年生の先輩、春日美里かすがみさとでも難しいというのだから、楽器を吹き始めて二ヶ月ほどしか経っていない鍵太郎にとって、その難易度は鬼である。

 隣で練習していた美里が「あらあら」といつものように笑う。

 人がいないからコンクールには出させてもらえるものの、正直先輩の足手まといの感が強い。

 その状態から一刻も早く抜け出したくて、鍵太郎は練習していたのだが――あがけばあがくほど、アリ地獄のようにドツボにはまっていってしまう。


「焦ると余計できなくなりますよー」

「先輩のその落ち着きは、どこから来てるんですか!?」

「湊くんも、三年生になればわかりますよ」

「はあ……」


 二年後の話など、まったく想像がつかない。ともかく今は、この曲を吹けるようになるのが先決だった。

 そう思って鍵太郎は、ため息をついて肩を落とす。早く吹けるようになって、美里にいいところを見せたい。

 好きな人にいいところを見せたいというのは、誰だって思うわけで。

 『湊くん、いつの間にこんなにできるようになったんですか!? すごい!』と美里に言ってもらうのが、今現在の鍵太郎の目標である。

 だから最近は一人で練習することも多くて――だからこそ、どうにもならなくなっていた。

 そんな後輩に、いつものように美里は助言をしてくれる。

 それをやってほしくなかったから一人で練習していたのに、そうと知らない先輩はいつだって優しく、手を差し伸べてくれる。

 この優しさに救われているから。

 ついついその手を、取ってしまう。


「実際の曲のテンポでやってできないのなら、速度を落としてゆっくりから練習した方がいいのですよ」

「……かっこわるいです」


 思わず、そんな風に言ってしまった。

 少し前なら素直にうなずいていたのだが、最近になってこんな風に口答えするようになってきている。

 それは、少しだけ吹けるようになったからだろう。

 美里に頼らなくても、自分はやっていけるんだと胸を張りたいのだ。

 弟みたいでかわいいですとか、もう言われないようにしたいのだ。

 それこそが、年下扱いされる原因なのに。気づかない振りをして、それでも虚勢を張りたかった。

 その結果が、これだ。

 相変わらずのヘタクソっぷりを、好きな人に指摘され、指導される。

 そんな自分が大嫌いだ。

 むすっとした鍵太郎に苦笑して、美里は続ける。


「そんなことはないのですよ。できないのを素直に認めて、できるように練習することが、かっこいいことなのですよ」

「う……」

「できない原因から目を背けて意味のない練習するほうが、よほどかっこわるいのですよ」

「ぐぅ……っ!」


 痛いところを突かれて、鍵太郎は胸を押さえた。

 音は虚勢を張ることを許してくれなかった。

 素の自分しか出させてくれない。本当にひどいものだと思う。

 本当の奥底では納得できていないが、これ以上へそを曲げて、美里を困らせるのも嫌だ。そう考えて渋々、了承する。


「……わかりました。少しゆっくり練習します」

「はい。その方がいいのです」


 そう言って美里は、メトロノームを持ってきた。規則正しく往復する、ゼンマイ振り子だ。

 ネジをまいて、テンポを通常よりゆっくりにセット。それが鍵太郎の目の前に置かれる。


「はい。ではやってみましょうか」

「……先輩は、一緒にはやらないんですか?」


 美里は自分の楽器を持たず、自分の脇に座った。

 え、ひょっとして、ここで逐一監視されながら吹かなきゃいけないのか? という嫌な予感は、現実のものとなった。

 美里がうなずいたのだ。


「最近はわたしも自分の練習ばかりで、湊くんの練習におつきあいできませんでした。なので今日は、とことんまでつきっきりで指導しますよ! みっちりと!」

「うわあ」


『シンフォニア・ノビリッシマ』は、作曲者のジェイガーが、婚約者のルシルに捧げた曲だ。

 つまり婚約者への愛が詰まりに詰まっていて、それを曲として表現しなくてはいけないわけで――それを、好きな人の目の前で練習? できてないから一緒に練習に付き合ってくれる?

 どんな状況だ。

 好きな人に好きだとうまく言えないから、うまく言えるように練習する。それに当の本人がつきあってくれるというのは――嬉しいかもしれないが、本当に自分が情けない。

 美里が楽譜の一番最初を指差す。


「では、最初からです。一番最初に書いてある、『Andante fieramente《アンダンテ フィエラメンテ》』。この意味は調べましたか?」


 答えはわかっているのに、猛烈に言いたくない。

 しかし言いたくないけど、言わなくてはいけない。

 鍵太郎は少し目をそらして、ボソリと答えた。


「……『ゆっくりと、熱烈に』」

「では、そのようにお願いします」


 どのようにだ。胸中で叫びながら、楽器を構える。


「いち、にー、さん、はい」


 最初の高音が出なかった。

 死にたくなった。

 美里が楽譜をにらむ。


「ううん。やっぱりちょっと、この音は高いですよねえ」

「……高いですね」


 なぜ、こんな高さに音符を書いた。

 作曲者のジェイガーを恨みたくなる。


「これはわたしの想像……というか妄想にすぎないのですけど」


 美里の指が、その先の小節をなぞっていく。


「進むにつれて音が低くなっていくのは、奥さんへの深まる愛情を示しているのではないでしょうか」

「……そうなのかも、しれませんね」


 昂ぶる始まりと、深まる愛情と。

 曲が進むにつれてそれを表すこの曲は、最初の段階から主題が既に、示されている。


「下がるわたしたちに対して、トランペットたち高音のみなさんは、逆に上がっていっています。ということは、曲に幅や厚みを持たせたかったのではないかと――薄っぺらでない愛を示したかったのではないかと、わたしは妄想しました」

「ううう」


 具体的なイメージが出来上がるにつれて、どんどんハードルが上がっている気がしてならない。

 自分の今やっていることは、そんな高尚な行いではない。

 ハリボテで格好をつけた、薄っぺらい愛だ。

 一発目から手も足も出ない。手の届かない高い音を眺めていると、美里が言う。


「高い高いと思っていると、出ないのですよ」

「……?」

「その音を高く見せているのは、湊くん自身です」

「うー……っ」


 さっきから痛いところを突かれすぎだ。けれど、楽器を両手で持っているから頭を抱えることもできない。

 逃げられない。

 虚勢を張れない。


「実際は、そこまで高い音でもありません。出ますよ、湊くんにも。がんばりましょう!」


 溺れるような閉塞感の中で、差し伸べられた手を掴むしかない。

 優しすぎて、残酷さすら感じさせる。

 美里は、いつだってそうだ。

 盲目的に好きにさせられる。


「では、ちょっと変則的な練習法かもしれませんが、この音から逆走して、この高い音へと行ってみてください」


 途中にある、何の変哲もない音域の音を指差された。鍵太郎は力なくうなずいて、音を出す。


「音圧はもう少し上げてください。スピードも上げていってください。……少し息は絞ります。余計な力は抜いてください」


 要所要所で、先輩からの指示が飛ぶ。それは的確だ。目標地点が近付くにつれて、緊張と気負いから力が入っているのだから。

 このままじゃ、本当に。

 なにもできないまま、終わるぞ。

 あと少しで最高音に達する。迷いと不安で、身体が固まる。

 それで、いいのか――?

 フスーッ、と息のかすんだ音がして、失敗が確定した。

 音になっていなかった。


「ああ……」


 残念そうに、先輩が肩を落とす。音が出ないことよりもなによりも、それが一番心にきた。

 けれど、鍵太郎より先に美里のほうが立ち直る。


「――諦めたらそこで試合終了です! もう一度!」

「は、はい!」


 気迫に押される形で、もう一度同じことをする。


「……肩と肘の力を抜いてください。大丈夫。湊くんならできます。出ます出ます出ます」


 なにかの呪文のように、先輩がつぶやき始めた。


「出ます出ます出ます」


 暗示をかけられている。必死に祈る先輩を見ると、虚勢を張っている自分が少し、馬鹿みたいに思えた。

 できる音から少しずつ。段階を踏んで上がっていくしかないのに。

 かっこつけて、届かなくて。

 こんな甘ったれな自分から、早く卒業したい。

 そのためには、ほんとうにかっこよく。

 肩肘張らずに。自然な姿勢で。

 素の自分で。心の声で。

 かっこつけないことが、実は一番うまくいく――。


「出ます出ます、出ます――」


 好きです好きです、好きです――

 心の中で、美里に合わせてつぶやく。失敗したらどうだとか、そんな恐れを追い払うために。

 ――届け。

 ピン、と指先に引っかかるような感触。

 すぐにそれは離れてしまったものの、手応えだけは、確かに残った。


「で、出ましたね! よかった!」

「ちょっとだけでしたけど……」


 ああ、でも、手が届かないことはないのか。それがわかっただけでも収穫ではある。


「なんていうか……なんにも考えない方がいいときって、あるんだなあ……」


 同い年のトロンボーンの女子部員が、いい例だが。彼女はなにも考えずに、自分が興味を持った方へと突っ走っていってしまう。

 あのアホの子のことを少し見習い……たくはないけど。

 余計な気負いは、きっとなくした方がいいのだ。

 自分のことのように、大げさに喜んでいる先輩を見ると――その方がいいんだろうなあ、と思う。


「よ、よかったですー。わたしの教え方が悪いのかと……」

「そんなことないですよ」


 悪かったのは、自分の方だ。

 少しできるようになったからと、かっこわるくかっこつけた、自分のせいだ。

 涙ぐんでいる美里に向かって苦笑すると、美里はそれを見て安心したように微笑んだ。



「ああ、よかった。ようやく、笑ってくれました」



「え?」

「最近湊くんが冷たいので、わたしなにか嫌われることを言ったのかと……」

「つ、冷たい!?」


 そんなつもりは、断じてない。そりゃまあ確かに、一緒にやろうと言われたのを一人で練習したいからと断ったり、拗ね気味な態度を取ったりはしていたけども――。


「……原因はそれじゃねえか、俺の、馬鹿め」


 心当たりが多すぎて、額を押さえる。


「あの、先輩。嫌いになったりしてませんから」


 むしろ、えーと。

 そうだ、気負いをなくせ、と心の中の自分が言う。

 なるたけ自然に。


「好きですから。俺」


 言った。

 言えた。

 口にした瞬間に固まって、美里の反応を待つ。

 果たして先輩は、どんな言葉を返すのか――。


「ううう。よかったです。わたしてっきり、湊くんが反抗期に入ったのかと」

「弟から息子にランクダウンしてたんですか、俺は!?」


 いつの間に。いや、それもそれで心当たりがたくさんある。

 一人でやろうとしてできなくて、先輩に心配されて、助けてもらって、これじゃほんとにガキでしかない。

 確かにこんな低位置からじゃ、いくら背伸びしたところで届きそうにない。

 かっこわるい。それを自覚して、鍵太郎は再びため息をついた。


「大丈夫ですよ先輩。俺、できるようにがんばりますから」

「わかりました。よかったですー……湊くんが帰ってきてくれました!」

「最初から、どこにも行ったつもりはないんですが……」


 そう、できないことを自覚して。

 できることから、手を伸ばしていけばいいのだ。

 今はまだ届きそうもないそんなところも、そうすればきっと、手が届く。

 美里にもいつか、気持ちが届く。

 そう、子ども扱いは嫌だ。

 俺は大人になるのだ。


「……この決意自体がガキっぽくて、へこむわー」


 自分の考えにダメージを受けて、鍵太郎はがっくりと肩を落とした。

 まだまだ子どもな自分には、現実が受け入れきれない。


「はい! 実はまだ最初の数小節しか練習していません! 続きしますよ続き! 『ゆっくりと、熱烈にアンダンテフィエラメンテ』!」

「はいーっ!」


 熱烈に指導をしてくれる先輩に、泣きそうになりながら鍵太郎は応じる。

 規則正しく、ゆっくりと。メトロノームはテンポを刻む。

 その往復の中に、どれほどの愛が込められるのか――それはこれからの、練習次第だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る