第42話 初めての(間接)キス
なんで、こんなことになったのだろう。
彼女たちは興味津々で、普段自分たちが吹いている楽器を、他の楽器の部員たちと交換して吹いている。
放課後の音楽室。吹奏楽部はいつも通りの練習中。
自分もその一員でありながら、心はどこか遠くにいて――まあ、もう気にしなくていいんじゃないか、と諦めを促してきた。
大切なものなどもう、とうに失っているのだ。
だからもう、気にする必要はない。
だから、同じ一年生の
むしろ、そんなに気にすることないじゃないか、と思う。
「わ、わかったわよ。じゃあ、私の楽器……吹かせてあげるわよ」
彼女の楽器は、トランペットだ。マウスピースという部分に口をつけ、唇を震わせて音を出す金管楽器の一種。
鍵太郎は光莉のトランペットを受け取った。構え、普段光莉が口をつけて吹いているその部分に、ためらうことなく口をつけ、息を吹き込む。
それを見て、なぜか光莉が抗議の声を上げた。
「ちょ……ちょっと!? ちょっとは恥らうとか、なんかないの!?」
恥じらい。その言葉を鍵太郎は繰り返す。
最初は自分もそうだった。けれど、それはもう意味のないことだと知った。
だからもう、間接キスとか、気にすることはないのだ。
「いや、もういまさらだし」
「いまさらってなによ!? なんか扱いが軽いんだけど!? ムカつく!」
「間接キスなんて、吹奏楽部ではもう意味のない概念なんだ。もう、これで何回目かもカウントできないほどやってるし……」
「確かにそうだけど!? それ私の個人の楽器なんだけど!? もうちょっとこう、なんか、なんか反応ないの!?」
「別に……」
「人の初間接キス奪っておいて言うことはそれかああああああッ!?」
胸倉を掴まれて揺さぶられながら、鍵太郎はどこか遠くにいる自分に、ぼんやりと質問を投げた。
なんで、こんなことになったんだっけ。
そう。それは、先輩の一言から始まったのだ。
###
「人の気持ちを知りたいのなら、その人の立場になってみるといいのですよ」
先輩の
放課後が始まったばかりの音楽室。吹奏楽部はその中で、練習を開始している。
色々な楽器の音が、好き勝手に飛び交っていた。今はウォーミングアップ中、音出しの最中だから別に誰に気を遣うこともない。
そんな混沌とした音の渦の中で、先輩は言う。
「先日、城山先生が仰っていましたね。『前のメロディーの歌い方を聞いて、同じようにそれを引き継いでいくのがいい』と」
「言ってましたね」
最近この吹奏楽部の指導に携わるようになった、あの外部講師の先生は、この間の合奏で確かにそう言っていた。
それと、人の立場がどうこうとはどういう関係があるのか。
美里は後輩に一つの問題を出す。
「ではここで質問なのですが――違う楽器で同じ旋律を吹いたとき、果たしてそれは同じものに聞こえますか?」
「……ん?」
鍵太郎は首をかしげた。例えば、鍵太郎と美里の担当するチューバという楽器は、低音楽器であるが――果たして吹奏楽の花形、トランペットなどと同じようなことができるだろうか?
「……同じことはできない、ような」
「はい。そうですね」
迷いながら出した答えは、正解であったらしい。
ほっとすると、美里は解説をしてくれた。
「違う楽器ですから、違うようになるのは当然です。けど、同じことをやらないといけない。または、似たようになるように吹かなくてはいけません。そうするには、どうしたらいいのかというと――相手の立場に立ってみることです」
「?」
つまり、と美里は言った。
「他の楽器を、吹いてみればいいんですよ」
###
そんなわけで鍵太郎は、今まで吹いたこともない楽器を吹くことになった。
まずは、チューバと音域が近く、一緒のことを吹くことも多いトロンボーンをやってみることにする。
「そんなわけで永田先輩。余ってるトロンボーンがあったら吹かせてください」
「面倒くさい……」
物憂げに鍵太郎の言葉に応えたのは、トロンボーンパートのリーダー、
長い髪をひとつに束ねた、ひどくマイペースな先輩。
彼女は相変わらず眠そうな目つきで、「んー」とうなった。
「でもまあ、美里の言うことも一理あるか……かといって、使ってない楽器を出すのは面倒くさいなあ……」
手入れをしていない楽器は、オイルなどが固まって動かなくなっているときがある。
学校の備品でもある古い楽器は、往々にしてそういうことがあるのだ。最悪の場合、学生の応急処置だけでは動かず楽器屋送りになることもある。
しまってある楽器をわざわざ出して、もしそれが動かなかったら。陸はそこが心配らしい、恐らく。鍵太郎はまだ、いまいちこの先輩がなにを考えているかわからない。
トロンボーンを吹かせてもらえば、この人のことも少しはわかるのだろうか――そう鍵太郎が考えていたとき、悩んでいた先輩はぽんと手を打った。
「じゃああれだ。交換すればいいんだ」
「交換?」
「おーい、浅沼ー」
陸は浅沼涼子を呼んだ。涼子は鍵太郎と同じく初心者で入部した、一年生だ。
伸びる楽器がおもしろそうだからと言ってトロンボーンを希望した、好奇心旺盛な女子である。
「なーんですかー?」
「楽器持ってこい」
「ほーい」
「……交換て、まさか」
鍵太郎は陸のやろうとしていることを察して、後ずさった。楽器を持って再び涼子がやってくる。
二人の後輩に向かって、陸は言った。
「じゃ、二人の楽器を交換して吹けばいい。お互いに勉強になるし、ちゃんと動く楽器だし、問題ない」
「問題ありますよ!?」
大ありだ。それは今まで涼子が吹いていた楽器を、自分が吹くということではないか。
吹奏楽部の楽器は、打楽器以外は全部楽器に口をつけて演奏する楽器だ。当然ではあるが、息を入れる楽器なのだから。
つまり、さっきまで涼子が口をつけていた部分に、鍵太郎も口をつけて吹かねばならないのだ。
「か、か、き……」
そう、それは間接キスなのだ!
「ああ、それなら問題ない」
後輩の動揺にも、陸はまったくペースを変えない。
「浅沼はチューバ吹いてみたいだろ?」
「吹きたいでーす!」
元気よく右手を挙げて、涼子が宣言する。おい、おまえは気にしないかもしれないが、俺は気にするんだよ! と鍵太郎は心の中で叫んだ。
「マウスピースをきれいに拭けば問題ないだろう。汚くないぞ?」
「いや、汚いとかの問題じゃなくて」
貞操の問題だ。もちろん今まで女の子と付き合ったことなんてない鍵太郎である。初めての間接キスの相手がこのアホの子だというのは、ちょっと納得がいかない。
顔を赤くしながら抗議する後輩を見て、ようやく事情を察した陸は「ああ」とうなずいた。
「間接キスだと思うなら、気にするな」
「気にしますよ!?」
「あたしは気にしないよ?」
「おまえはもっと気にしろ!?」
突っ込みが忙しい。ぜいぜいと呼吸を荒げていると、陸は言う。
「湊。おまえの今吹いている楽器は、学校の備品だ」
「……はあ、まあ、そうですね」
いきなり話が飛んだ。なにが言いたいのかと眉をひそめる。
「今までその楽器を、何人の先輩たちが吹いてきたと思っている」
「――!?」
鍵太郎は息を呑んだ。そんな、まさか――
「おまえがあの楽器を吹いた瞬間に、おまえの初間接キスなど、とうに奪われているんだぞ」
「な……!?」
なんたる、ことだ。
この部活にかつて在籍していた、名前も顔も知らぬ先輩たちと。
いつのまに、そんな――!?
「たぶん男の先輩も結構いる」
「ぎゃあああああああっ!?」
泣いた。無理矢理唇を奪われた乙女さながらに泣いた。
一生懸命口をぬぐう後輩へと、陸は無慈悲に宣告する。
「だから、もう今さらだ。気にしたところでしょうがない」
「……」
どうせ汚れたなら、もう気にする必要などないだろう。
もう、誰と間接キスしたかなんて、カウントするのも無意味なのだ。
悲劇を体感した鍵太郎は、なにもかもを諦めて降参した。
「わかりました……もう、なんでもいいです」
「よし。じゃあさっそく、浅沼の楽器を吹いてみればいい。じゃ、あとはよろしくな」
さんざん後輩を叩きのめして、陸はさっさと自分の練習に戻っていってしまった。相変わらずマイペースで、なにを考えているかわからない。
げっそりとしている鍵太郎へと、涼子が自分の楽器を差し出す。
「ま、そんなに気にすることないって! これでも吹いて発散しなよ!」
「なにも考えていないおまえが、今、心底うらやましい……」
自分が気にしすぎなのかもしれないが、女性陣のこのサバサバした感じはなんなのだろう。ちょっとは恥らったりしないのだろうかと思いつつ、鍵太郎は涼子から楽器を受け取った。
トロンボーンは、配置としては鍵太郎のやっているチューバの後ろに位置する。
背中を押されるようなその音を受けると、自然と自分も遠くまで響く音が出せる。それはいったい、どうしてなのだろうか。
自分で吹けば多少はわかるかもしれない。見よう見まねで、左手で楽器を持つ。
「こんな感じか?」
「うん。そんな感じ」
涼子から実にファジーな許可を得た。ちょっとためらってから――楽器に、口をつける。
さっきまで涼子が吹いていたので、なんかちょっと温かいのが生々しくて嫌だ。
うん、まあもう気にしなくていいんだし――と悲しい気持ちで鍵太郎はそれを振り切った。いつもの要領で思い切り息を入れると、予想以上にものすごい大きな音が出る。
感覚的には暴発に近い。陸や涼子が出している音は、もっと束ねてあって前に飛んでいくように感じるのだが。
そして身体に、特に肺にかかる負担は、むしろこちらのほうがきつく感じた。なんじゃこりゃと思っていると、涼子が首をかしげる。
「え……? なんか違う?」
「おまえみたいに、前に音が飛んでいかない。なんだろ。鳴ってるんだけど、全方向に拡散しちゃってるっていうか……」
「難しいことはよくわからないよ」
「このアホの子め」
あっさりと言葉での理解を放棄した涼子は、鍵太郎がいつも吹いている楽器、チューバを指差した。
「湊がなに言ってるか、あれ吹いてみたらあたしもわかるかも」
「そうだな」
お互いの立場を交換してみる。そうすれば、お互いが普段思っていることが少しはわかるのかもしれない。
涼子はイスに座って、楽器を持ち上げようとしていた。チューバの重さは、十キログラム。下手なところを持って落とされでもしたら洒落にならないので、鍵太郎は自分で持ち上げて、涼子に持たせてやる。
「え? どこ持てばいいのこれ?」と興味心身で涼子が訊いてくるので、「ここと、ここ」と手の位置を指示する。
「こう?」
「微妙に違うけど……まあいいか」
自分が無意識下に普段やっていることを教えるのは、意外と難しいものなんだな――そう思いながら、涼子の持つ楽器をさらに鍵太郎は支えた。どうにも涼子の持ち方は信用ならない。
「マッピ、でかっ!」
金管楽器の口をつける部分、マウスピースを見て涼子が言う。大型楽器なので、その分マウスピースも大きいのだ。
そしてやっぱり、口をつけて演奏するわけで――はぷ、と涼子はマウスピースに口をつけた。
ブーッ! と鍵太郎がいつも出していない音が、楽器から出てくる。ああ、やっぱり感覚が違うんだな、とそれを聞いて思う。
「なにこれ!? ブラックホールみたいに息が吸い込まれてくんだけど!?」
「だって、そういう楽器だもん」
鍵太郎だって、吹き始めたときは毎日酸欠でブラックアウトしていた。今はもうだいぶ慣れたので気にならなくなっていたのだが、涼子にとってはそうではないらしい。
いつもの感覚と違うことに、涼子は「わー!? わー!?」と興奮気味にはしゃいで、もう一度チューバを吹いた。
「なんだろね!? 抵抗なくすーっと入ってっちゃう」
「チューバ吹いてるのに、トロンボーンみたいな音がするな……」
ベルから出る音が、トロンボーンのように突き進んでいくのだ。息の使い方からして違うのだろう。
チューバの音とは、なんだったか。鍵太郎はいつも隣で聞いている、美里の音を思い出した。
強くて、でも優しくて、包容力のある温かい音だ。先輩そのものだな、と思ったとき、少し納得するものがあった。
「あー。つまり、あれか。役割が違うってのは、そういうことか」
「え、なに? なんかわかったの?」
涼子に包容力があるかどうかは――まあたぶん、ないだろうけど。真似をすることはできるだろう。
鍵太郎は違いを理解して、涼子に指示を出した。この楽器をやり始めたときに、美里に言われたことを。
「息のスピードを落として。逆に量を増やすんだ」
「ん? こう?」
そう言って涼子が出した音は、やはりまだトロンボーンの音がしていたものの――少し、響きに柔らかさが出てきた。涼子が目をぱちくりさせる。
鍵太郎は涼子に言った。
「おまえらが突進していく音なら、俺たちはそれを包む音なんだよ」
役割が違う、のだ。
前にベルの向いたトロンボーンと、上にベルの向いたチューバ。
そこから出る音の方向性は、まるで違う。進む音と、包む音。鍵太郎の言葉を聞いた涼子は、わかったのかわかってないのか、曖昧にうなずいた。
「つまり……あたしらが突き進むのを、湊たちは強化して、サポートしてくれるってこと?」
「エンチャント系魔法みたいな言い方を……」
「それってさ、あたしと湊みたいだよね」
「ん?」
どういうことだろう。鍵太郎が首を傾げると、涼子はなぜか、上機嫌に笑っていた。
「あたしって興味のあるもの見つけると、そっちに走ってっちゃうとこがあるからさ。湊はいつも、そんなあたしを助けたり、突っ込んだりしてくれるじゃん? あたし結構助かってるんだよ、それで」
「そう……か?」
あまり意識したことはなかったが。傍で見ていて少々危なっかしいこのアホの子は、鍵太郎としては放っておけないのだ。それで、あれこれ口を出しているのだが。
楽器が人の性格を作るのか、その性格だからこの楽器を選んだのか――どちらかはよくわからないけれども。
少なくとも、楽器とその吹き手には、響きあう性格というものがあるらしい。
涼子は心から嬉しそうに、笑っている。
「だからさ、これからもよろしくね、湊!」
「その言い方は、これからも勝手に突き進むおまえを、引き続きサポートしてくれって言ってるように聞こえるんだが……」
「え、違うの?」
「苦労しそうだなあ、俺!?」
無邪気に笑うアホの子は、止めても無駄だ。その楽器が示す方向へと突進して行ってしまう。
それがなんとなくわかってしまって、鍵太郎は降参した。
うんざりしながらも、でも――涼子が行く方向は、いつもシンプルで、力強い。
ひとところで悩んで立ち止まりがちな鍵太郎にとって、その姿は少しだけ、羨ましく感じるものでもあった。
苦労しそうな気はするが、なぜか振り回されるのは楽しい。
よろしくと言われれば、しょうがねえなあ、と許してしまう気持ちになるのが、浅沼涼子の不思議な魅力でもあった。
だから鍵太郎は、苦笑しながら涼子へと答える。
「しょうがねえなあ……付き合うよ」
「やった!」
涼子はやはり、心から嬉しそうに笑った。なにがそんなに嬉しいのか。アホの子の考えることはよくわからないが――ま、いいか。涼子のようにシンプルに、それでいいやと思えた。
涼子のチューバ体験は終了し、鍵太郎は再び、彼女のトロンボーンを吹いてみる。
さっき涼子にアドバイスしたのとは逆に、スピードを上げて量を絞る。抵抗を一点で突破するような、槍の一撃。そんなイメージで楽器に息を鋭く入れる。
「あ。さっきと変わった」
隣で涼子が、楽しそうに言った。先ほどの暴発に比べれば、幾分か音が前に飛んでいる。
吹いてみなければわからなかった他の楽器の感覚。それは普段近くにいる当たり前の音が、自分の感覚とは違うのだと教えてくれた。
「その立場になってみれば、気持ちがわかる、か」
美里の言っていたことは本当だった。感覚のズレ。普段気をつけていること。それがお互いわかると、少し気持ちが近付いたような気がした。
「なんかほんと……勉強になるな」
「湊はいつも、難しいことを言うよね」
「おまえはもっと、頭を使えよ……」
違うからこそ、影響し合える。それはわかるが、こいつはもっと頭を使わないと退化するんじゃないだろうか。余計なお世話かもしれないが、鍵太郎は心配になった。
「勉強ついでに、もうちょっと教えてくれ。ドレミはどうやったら出る?」
「あ、ドはポジションここね」
トロンボーンはスライドの長さを調節することによって、音の高低を変える。楽器が小さければ高い音、大きければ低い音が出るという特性を生かした音程操作方法だ。
伸びたり縮んだり。それを繰り返す。
「レはこのへん。ミはこのへん」
「なんか……えらい、テキトーなんだな」
涼子の解説はひどく大雑把だった。これは彼女が悪いわけではなく、トロンボーンという楽器そのものに、がっちりと固定された音程の位置がないのが原因だ。
ドとレの間の音が出る。その曖昧さも、この楽器の特徴である。
「まさか永田先輩やこいつのテキトーさって、この楽器で培われてるんじゃないだろうな……」
楽器が人の性格を作るのか、その性格だからこの楽器を選んだのか――どちらなのか。
人格と楽器の不思議な関係を目の当たりにしていると、涼子が言ってくる。
「ねえねえ、せっかくだから、他の楽器も吹かせてもらおうよ!」
「ああ、そうだな」
一つだけでこんなに得るものがあったのだ。どうせだから、他の楽器がどうなのかも体験してみたい。
他の楽器の人が普段どうしているのか。それを知れば、きっと合奏にも生かされる。
間接キスに関しては……まあ、まだ引っかかるところはないではないけど。陸にも言われたが、もう気にする必要はないのだ。
だったらもう、人が吹いた後の楽器でもなんでもいいじゃないか。そう思った鍵太郎は、涼子と一緒に他の楽器の部員へと声をかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます