第41話 高貴なるシンフォニア
先生の入場と共に、黄色い声があがった。
新しく来た先生が思いのほか格好よかったことで、女子部員たちが悲鳴のような歓声をあげているのだ。
逆にもしすごい美人の先生が来て、滝田先輩が歓声をあげたら、もれなく全員から軽蔑の眼差しを向けられたんだろうなあと
理不尽かもしれないが、吹奏楽部というのはそんなものだ。理不尽がまかり通る。
顧問の本町が、「どうどう。おまえら落ち着け」と部員たちに言っている。その隣で困った笑いを浮かべているのが、
今日からこの吹奏楽部の指導をする、プロの演奏家だ。
ざわめきが落ち着いたところで、促された城山が自己紹介をする。
「えーっと。今日からみなさんと音楽をすることになりました、城山匠です。よろしくお願いします」
『おねがいしまーす!!』
なんだこのテンションの高さ。ただしイケメンに限るのか。
呆れ気味にそう思えたのは、鍵太郎の隣の
「あのう……みんな、がっつきすぎですよ」と、盛り上がる部員たちに対して遠慮がちに突っ込んでいる。
さすが先輩、他の人とは違いますと心の中で思う。これで美里まで同じ反応をしていたら、それこそ城山を三階の音楽室から投げ落としていたかもしれない。
当の城山は、女子高生たちのあまりの元気のよさに、引きつった笑いを浮かべているが。
「え、ええと」と気を取り直して、彼は言う。
「今度のコンクールは、僕が指揮を振ります。本町先生とはクセが違いますが、だんだん慣れていくと思います。
チューニングは……済んでるんだっけ。じゃあさっそく合奏に入りますか。先生、この曲を合わせるのは、今日が初めてですか?」
後半のセリフは、本町に向けての質問だ。顧問の先生はそれに、肩をすくめて答える。
「ほぼ初めてだ。すまんが、この間までテスト期間だったもんでな。あまり練習時間は取れてない」
「なるほどなるほど。いいです。それはそれで一緒に始めていけばいいんです」
城山はそう言って、電子メトロノームのスイッチを入れ、テンポの確認をした。
「じゃあ、最初だから少しゆっくりめにやってみようか」
最初は押され気味だった城山も、調子を取り戻してきたらしい。楽しげに笑いながら、指揮棒を取り出す。
「長々と自己紹介するより、こっちを見てもらった方がいいだろうからね。だからきみたちも僕に自己紹介するつもりで、思い切りきてほしい」
音はその人そのもの、と言った城山だ。ごちゃごちゃと言葉を重ねるより、その方がわかりやすいのだろう。
「『シンフォニア・ノビリッシマ』かあ。いい曲だね」
合奏が始まる。
部員たちを見渡すと、彼はすっと指揮棒を構えた。
鍵太郎も楽器を構える。なんだろう、確かに本町先生とは構えが違う、と城山を見て思う。
とりあえず、この曲は一番最初の音が高すぎるのが問題なのだ。美里でも難しいというこの曲を、どこまでできるかはわからないが――今は、信じてついていくしかない。
城山が動いた。
今までの穏やかな口調からは考えられないほど、振りが大きい。そして予想通り一発目は音が出なくて、鍵太郎は音が下がってきたあたりで美里と合流した。
なかなか本心が言えない、というところがひょっとして、こういうところに出ているのだろうか。
先輩、ごめんなさい。
どうしてもまだ、言えません。
そんな思いをよそに、曲は進んでいく。
城山の指揮は、本町のものより情報量が多いように感じられた。拍を出す打点と打点の間にある単なる一振りが、大量の指示を含んでいる。
部員たちのほとんどはそれについていけてないけど、でも、できる限りを詰め込んでいこうとしていた。
溜めて溜めて――頂点に向かって響かせて、走りだす。
テンポが変わった。最初の旋律が、よりスピーディになって各楽器に受け継がれる。めまぐるしくバトンタッチされていく役割に、切り替えがうまくいかない人間が続出した。各所で事故が起こり、バラバラと合奏が乱れていく。
それでも音が止まらないのはなぜだろう。
指を必死に動かしながらも、どこか遠いところでそう考えている自分がいた。
城山はそんな全員に目を配り、視線と、右腕と左腕全部を使って合図を送っている。もちろんそれは鍵太郎にもで――珍しい低音楽器による旋律の直前で、先生と目が合ったような気がした。
たった十秒程度の主役。
なにを言おうかなんて考えられないうちに、速やかに出番が終わる。
取り繕う余裕なんてない。普段のまま吹いてしまって、はっとなったのは退場してからだ。
自分の考えていることは、やはり全部ばれてしまったのかもしれない。
どんどん他の楽器が重なってきて、埋没していく低音楽器。これが普通だ。主張なんて他のメロディー楽器に任せておけばいいのに、なんでこの曲の作曲者は、こんな風に楽譜を書いたんだろう。
こんなちっぽけな自分に、なにを言わせたいんだろう。
不思議だった。楽器を吹いていると、特にこんな風にみんなで合わせていると、普段考えないようなことばかりが次々と浮かんでくる。
ふとソロが聞こえてきて、きれいだなあと思う。ちょうど休みの部分だったので、聞き入った。優しい旋律だ。
吹いているのはサックスの三年生、
ほんとは優しい人なのだろうか。本人に言ったら笑われそうな気もするけれど、別に悪いことじゃないんだから、素直にそう思ったっていいだろう。
素直、といえば――以前に別の先輩に「きみは素直だね」と言われたことがあった。しかし鍵太郎自身はそうは思っていない。
ふとした瞬間にぼんやりすることはあるものの、普段はむしろいろいろ考えて、考えすぎてしまう人間だと思っている。
素直な子は上達するとも、そのとき言われた。なにも考えずに素直に吹いた方が上達もして、心も伝わるということなのに、今の自分はなんなのだろうか。
どこまで隠したまま、上手くなれるだろうなんて。
そんな姑息なことを考える自分が、どうして素直だというのか。
隣で同じ楽器を吹いている先輩は、相変わらずみんなを支えるように、深い響きを保ち続けていて。
隣にいるのに、はるか先にいて。
肝心なことは、なにひとつ伝わらない。
追いかけて、追いかけて、それでも伝わる保証はないけれど、それでも追い続けるしかなかった。
休みが終わる。美里につられるように、音を出す。
教わって、真似をして。
差を縮めて、隣に立って。
そうすればもう、恥ずかしくないのかもしれない。
あまりに差が開きすぎていて、なにも届かないというのなら。
せめて楽器を吹いているときだけは、素直になろう。
恥ずかしくても、追い続けよう。
最後の部分に向かって始まる旋律は、低音から。
このあいだ教わった厚い音で、床を揺らすくらいに響かせる。
隣にいるのにずいぶん遠くにいる、先輩のところまで。
それに導かれるように次の旋律が始まり、積み重なって雪崩れていく。
最後の最後は全員で同じタイミング。――の、はずが、バラバラッ、バラバラッと全員がズレて、そのままドミノ倒しのように曲は終わった。
「あはは、ここ難しいよねえ。僕ももうちょっと、はっきり振ったほうがよかったかな」
指揮を終えた城山が笑ってそう言う。鍵太郎を含め部員たちはヘトヘトで、改めてこの曲の難しさを思い知っていた。
###
ペラペラと楽譜をめくりながら、城山はうなずく。
「初合わせだからみなさんそれぞれ課題が見つかったと思うんですけど――前で聞いてて、いろいろ言わせてもらうと、あれかな。ちょっと慣れてきたら、周りを見るようにしたほうがいいかな。
自分と同じことを、他の誰かがやっている。その瞬間がわかるだけでも、ぐっとアンサンブルしやすくなるよ。あとは前のメロディーの歌い方をよく聞いて、同じようにリレーしていくのがいい。前半起こった事故の大半は、それで整理されていくはず」
城山は、あ、それとここだ、と言った。
「低音さん」
「はい」
まさか、やっぱり全部ばれてるのか。
しかし鍵太郎のその不安は、杞憂に終わった。
「何回かある主旋律は、もっとはっきり出したほうがいいな。ただでさえこもって聞こえる楽器だから、かなり意識していかないと、もったいないことになる」
内心ほっとする。しかし、安心したものつかの間、言われている内容は「もっとはっきりしろ」だった。
「ええと……結構がんばったつもりなんですけど、もっとですか」
「もっとだね」
にっこりと、「そうしないと聴いてる人に届かないからね」と城山は言った。
やっぱりバレてるんじゃないかこれ。一抹の不安がよぎったが、これはあくまで技術指導だろう。たぶん。
他の楽器にもいくつかの指導をして、城山は楽譜を閉じた。
「ところでこの中で、この曲のタイトルの意味を調べた人っているかな?」
部員たちが顔を見合わせる。「じゃあ、ヒント」と城山は言った。
「『シンフォニア・ノビリッシマ』。シンフォニア、はそのままとして、ノビリッシマは英語のnobleの最上級だ。さて、nobleの意味はなんでしょう?」
「……『気品のある』?」
「その通り!」
ぽつりと
「その最上級となれば――さしずめ、『高貴な』ってところだね。だからこの曲は、『高貴なるシンフォニア』という曲なんだ」
「……高貴?」
美里が、城山が登場したときに黄色い歓声をあげた部員たちを見渡す。
「高貴……?」
「先輩、それ以上言わないでください。悲しくなります」
今のが合奏の、どこが高貴だったのか。自分自身のこともあって、鍵太郎は美里にそう突っ込んだ。
城山が笑っている。
「いやあ、最初からそんな音が出たら、僕が教える必要はないよ。だから、きみたちはきみたちの『
だから、もっとイメージしてみてほしいんだ――と、城山は言う。
「楽譜に書いてある記号を調べたり、作曲者のジェイガーがこの曲をどんなつもりで作ったかを調べて、考えてみたり。そうすれば、まただいぶ変わるはずだから」
じゃ、これは次回までの宿題ね、と言われた。
さっきの合奏中も、なんで低音にこんなメロディーがあるのかと鍵太郎は思ったばかりだ。
それはちゃんと意味があって――なにかの思いを込めて書かれたものなのだと、先生は言った。
「みんな元気いいよねえ。それはいいことだ。でもこれは、そういう曲じゃないんだ。
曲には曲の個性があって、作曲者がなにを言いたいのかがちゃんと入っていて、それを僕たちプレイヤーが表現するんだ。それが伝われば、こんなに楽しいことはないよ」
なんだか、あの残念イケメンがものすごい先生らしいことを言っている。あの人も一応大人だったんだな、などとちょっと失礼なことを思ってしまった。
曲の由来。調べてみよう。この難解な曲はなぜ作られたのか。
城山匠との初合奏は、そんな風にして終了した。
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「湊くん湊くん。さっそく調べてみましたよ」
部活終了直後に、美里に話しかけられた。調べたというのは先ほどの、曲の由来のことだろう。
鍵太郎は招かれるままに、美里の携帯を覗き込んだ。そこには曲の解説が表示されている。
「――作曲者のジェイガーが、婚約中のルシルに捧げた曲」
「そうです。つまり、あれは奥さんへの愛が詰まった曲なのですよ!」
鍵太郎は衝撃を受けた。
七分間だ。
つまりあの曲は七分間、婚約者が好きだと言い続けるものなのだ。
「……バカップルじゃないですか」
五十年前の名曲に秘められた、衝撃の事実だった。とにかくうちの嫁が好きだと周りに言いふらしまくる曲、『
「高貴……?」
自分でつけたのかこのタイトル。だとしたら、凄まじいにもほどがある。
「そんなこと言ってはいけませんよ。奥さんに曲を捧げるとか、ロマンチックではないですか」
「まあ……そうかもしれませんけど」
外国人の考えることはよくわからん。そう思っていると、美里が納得したようにうなずいた。
「つまりはいろんな楽器を使って、いろんな言い方で、奥さんに大好きだと言っている曲なのですね!」
「……」
もっと、はっきりと。
大好きだって言いなさい。
そうしないと、聴いてる人に届かないからね。
「……本当に気づいてないのか、あの先生」
もごもごと、それこそこもるようにつぶやく。隣から美里が訊いてきた。
「なんですか?」
「なんでもないです!」
そこだけははっきりと――悲しいほどにはっきりと、鍵太郎は答えた。
誰も彼もが、せっついている気がする。なんなのだ。もう少し待ってほしい。
不思議そうに首を傾げる美里へ、少し拗ねながら鍵太郎は言った。
「……やっぱり、この曲難しいです」
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