第39話 クラスチェンジ

 中間テストが終われば、すぐに衣替えの季節がやってくる。

 梅雨寒と蒸し暑さが代わる代わるやってきて、なにかを羽織ったり脱いだりと忙しい。

 今日は比較的蒸し暑い方だ。ブレザーを脱いだ吹奏楽部の部員たちが、音楽室に集まってきている。


「目のやり場に困る」


 そう言ったのは湊鍵太郎みなとけんたろうの先輩、三年生の滝田聡司たきたさとしだ。

 これから部活を始めるので、鍵太郎と聡司はその準備をしている。

 大きなティンパニをごろごろと転がして運びながら、先輩はぶつぶつとつぶやく。


「暑くなると露出が増える。胸元を扇ぐな。スカートバサバサするな。髪を上げるな首筋見える」

「先輩、そういうこと言うからキモいって言われるんです……」


 そのあまりにあんまりな本音に、さすがに鍵太郎も突っ込まざるを得なかった。先輩だからと気を遣って今まで言わなかった、キモいという言葉まで使ってだ。

 しかし、聡司の魂の叫びはそんなものでは収まらないらしい。彼はどんよりとした目つきで鍵太郎に、「後輩よ……」と呼びかける。


「オレがキモいんじゃない。あいつらが酷いだけなんだ」

「と、言うと?」

「あれを見ろ」


 言われて、聡司がわずかに顎をしゃくった方を見れば――聡司と同い年、鍵太郎と同じ楽器の先輩の春日美里かすがみさとが、他の女子部員に絡まれているのが見えた。


「うーん。やっぱりミサティー、胸おっきいですねえ」


 ブレザーを脱いでワイシャツになって、よりその大きさがわかるようになった胸を、同じく三年生の美原慶みはらけいがじっと見つめている。


「い、いや、そんなでもないですよ」


 それに困ったようにたじろぎながら、美里が言った。

 その一瞬の隙を突いて、慶は美里に手を伸ばす。


「えい」

「ひゃうッ!?」


 胸を掴まれ、美里が悲鳴をあげた。

 その大きさを直接確かめた慶は、自分の手を見つめ、むぅとうなる。


「不公平です。ナニを食ったらこんなになるんですか」

「ひ、ひどいですけいちゃん……」


 涙を滲ませて訴える美里。慶はわきわきと指を動かしながら、友人に怒りの眼差しを向ける。


「ひどいのはミサティーのほうです。スレンダー体型のワタシに対する嫌がらせでしょうか。『大きいから肩がこるんです』とか言っちゃうんですか」


 完全に八つ当たり発言である。しかし人間というのは、自分が持ってないものを欲しがるものなのだ。

 そして持っている者にはその気持ちがわからない。だから美里は、正直に真実を口にする。



「た、確かに楽器吹くのに苦しくて、たまにブラジャーのホック外したりはしてますが……」



 ぶっハ。

 遠くで鍵太郎が噴きだした。

 しかしそんなのはお構いなしに、二人の暴走は続く。


「うわあ。ナンですかそれ。自慢ですか? アピールですか!? キーッ!?」

「だ、だって息が吸えないんですもん、しょうがないじゃないですか!」

「まだ言うか!? 生意気なのはこの口か!? この胸か!? うらうらうらぁッ!!」

「きゃああああああッ!? いやあああああッ!?」


 美里は慶の魔の手から逃れるべく、必死の形相で逃げ出した。

 その様子をティンパニの影から見ていた鍵太郎は、すぐに己の間違いを認める。


「……先輩、俺が悪かったです」

「だろう。わかってくれるか」


 男子部員への配慮が皆無だった。横暴で無神経で理不尽だった。

 吹奏楽部の少数派である男子部員は、圧倒的多数の女子部員に囲まれると、いないも同然の扱いをされることがある。


「先輩がキモいんじゃないです。あの人たちが酷いんです。すごく、よくわかりました……」

「ああ。おまえなら理解してくれると思ったよ。でもな、さらに酷いことに――オレがあの茶番を止めようとすると、さらにキモいと罵倒されることになるんだよ……」

「くっ……!」


 反論すら許されないのか。その事実に、鍵太郎は涙した。

 マイノリティはいつまで経っても、虐げられる運命なのか……!


「ここは……なんて残酷な世界なんだ」

「オレたちはこの過酷な環境を……強いられているんだッ!!」

「そこの二人!! ふざけてないでとっとと楽器運んでくださいッ!!」

『はーい』


 他の女子部員に怒られて、二人は素直に楽器運びを再開した。

 吹奏楽部の男子部員の従順さは、こうして鍛え上げられていく。



###



「中間テストも終わりました。今日から本格的に、練習再開です」


 先輩、今ブラジャーのホックは外してますか?

 とは口が裂けても訊けない鍵太郎は、美里の言葉に素直にうなずいた。

 たぶんしばらく頭から離れない。本当に酷い話だと思う。


「今日はリハビリをしましょう。一週間吹けなかったので、感覚を取り戻さないと」

「はい」


 ブラジャーの話はとりあえず置いておくとして、テスト明けの久しぶりの部活だ。

 マウスピースだけ持ち帰って吹いていたとはいえ、楽器本体に触るのは一週間ぶりとなる。

 試しに吹いてみればやはり感覚が変わっていて、どんな風に吹いていたっけと首を傾げる。とりあえず思い切り息を入れてみると、出た音は割れてきつい感じになった。

 こうじゃない。眉間に皺を寄せていると、美里がアドバイスをくれる。


「リハビリです。思い出していきましょう。息は入れるんですが、スピードを落として、量を優先しましょう」


 このチューバという金管楽器は、とにかく息を大量消費するんだった。そうだ、思い出してきた。

 腹式呼吸で、背中が膨らむくらい大きく息を吸う。


「口の中を広く取って、響きを作ります。息はお腹で支えて、お腹から声を出すように。真っ直ぐ吹き込んでください」


 言われた通りに吹いてみた。すると、テスト前の響きに近くなっている。

 そう、これこれ。さっきまで教えてもらったことが、自分の中から全部抜けてしまったような気がしてすごく不安だった。それが消えていく。

 よかった。先輩から教えてもらったことは、まだちゃんと俺の中にある。

 テストで会えないうちに、美里がくれた部分まで消えてしまったのではないかと、不安だったのだ。そんなことはないと先輩は教えてくれた。

 美里はふむと考えて、リハビリを続ける鍵太郎に新たな領域を示す。


「この際ですから、リハビリで音を戻すというより、新しいものも入れてしまったほうがいいのかもしれません」

「?」


 どういうことだろう。怪訝な顔をする鍵太郎に、美里は「いうなればクラスチェンジですかね」と言った。


「今まではほんとに基礎の基礎しか教えてきませんでした。ですが、これからはコンクールに向けて表現の幅を増やしていきましょうか」

「おおー」


 よくわからないが、なにやら新しいことを教えてもらえるらしい。なんだろうとわくわくしていると、美里は自分の楽器を構えた。


「息を楽器に大量に入れるというのは教えました。これからはそれを使って、出す音に変化をつけるんです」

「はあ」

「一番基礎に結びついててよく使うのは、『厚み』ですかね。今度コンクールでやる『シンフォニア・ノビリッシマ』でも、これを使ったほうがいいところがあります」


 音に厚みをつけるというのは、どういうことだろう。「では、実際にわたしが吹き分けてみましょう」と美里が言った。


「まずは、なにも考えずに普通に吹きます」


 ぼー、という低音の響き。普通の音だ。「では次に、『厚み』を加えます」と言い、美里は息を吐いて、目を見開いて大きく息を吸った。

 練成した息を楽器に注ぎ込む、という感じで――美里は、音を響かせる。


「――う、わ」


 音楽室の床が震えた。密度の濃い音に、鍵太郎の立っている地面が細かく震えている。ベルが上を向いているこのチューバという楽器で、なぜ床が震えるのか。物理法則を無視しているのではないか。

 そんな音を息の限り続けて――美里は楽器から口を離し、おいしそうに酸素を吸う。


「――と、まあこんな感じです。息の使い方を変えて、表現のバリエーションを増やす。こういうのはメロディー楽器の専売特許のように思われがちですが、むしろわたしたち低音楽器に求められることのほうが多いです」

「バリエーション……」


 カードの種類を増やす。

 絵の具の色を増やす。

 そんな風にして、息によって表現の多彩さが作られていく。

 今まで鍵太郎はとにかく、「息をたくさん吸ってたくさん吐け」としか言われなかった。それが全ての元になるからと。

 それは、こういうことだったのだ。原料である息がなければ、表現するもへったくれもない。

 先ほどの物理法則に沿っていないような現象とあいまって、それはまるで魔法のようだった。息という魔力を練り上げて、炎や雷を放つ――そんな魔法じみた表現。それを行使することを、自分は許された。

 さながら、『見習い魔法使い』にクラスチェンジしたようなものだ。まだまだ大きなことはなにもできないけれど、目の前の師匠は既にそんな魔法を操っている。


「『厚み』ができるようになれば、荘厳さが出てきます。『シンフォニア・ノビリッシマ』の冒頭部分は、薄い音だと貧弱になってしまいます。なので、湊くんはまずこの『厚み』を習得しましょう」

「はい」


 なにこの初級魔法講座。そう思いつつ、鍵太郎は自分の楽器を構えた。先ほどの美里の真似をして、思い切り吸って大量に息を楽器に入れていく。


「口の中を広く。力は入れない。重心を低くして、楽器をうまく共鳴させてください。そうすれば音は上へ行きますが、響きは下へと流れます」


 わかるような、わからないような。けれど初めて楽器を教わったときだって、最初は言われていることがさっぱりわからなかった。

 だからよくわからないこれも、できるようになるだろう。

 隣には立派な師匠がいる。それを信じてついていけばいい。

 何度かやっているうちに、がちりとなにかが嵌ったような気がした。

 音に厚み。響きに幅。細かった線の中心に、柔らかくて力強い振動が加わる。

 共鳴する。太さが増す。

 これ、か――? 鍵太郎はこの感覚を忘れないように、息を吐き続けた。

 このまま、このままだ。

 床は、震えているか?

 これが、先輩がくれた新しい魔法――。

 肺の中の息が尽きて、音が止まった。一瞬の感覚をもう一度味わうように、鍵太郎は息を吸って、吐いた。酸欠で少し身体の末端が痺れている。

 ぱちぱちぱち、と小さな拍手の音が聞こえた。見れば美里が隣で、弟子のがんばりをねぎらうかのように拍手している。


「そうですそうです。今のはよかったですよ湊くん! その調子でがんばりましょう!」

「よかった……」


 合格点だ。幸先がいい。

 しかし一発やっただけで、結構な疲労感があった。練習をして熟練度を増して、本格的に使えるのはまだ当分先のことだ。

 しかしそれでも、なんとなく掴めたことは大きい。これでまた少し先輩に近づける。

 休憩したらまたやって、慣れていこう。楽器を下ろして呼吸を整える。

 美里は後輩の成長が嬉しかった模様で、手を上下させながら話している。


「やっぱり男の子は違いますね! わたしより音が力強い! すごいです!」

「はあ……この楽器、そんなに男女で違うもんですか?」


 女性とはいえ、美里は170センチと身長が高い。正直鍵太郎より背が高いので、それほど差があるとも思えないのだが。

 美里は、「体格の差なんですよ」と言った。


「男性と女性では使える筋肉の量が違いますから。パワー勝負になったら、わたしはまず勝てません。女性プレイヤーでもうまく練習していけば、強い音は出ますけど、最大値は届かないでしょうね」

「でも先輩には、俺に出せない音が出る」


 鍵太郎が割り込んできたので美里はきょとんとしたが、すぐに笑った。


「ありがとうございます。その通りです。純粋な力勝負だけでは、この楽器の音の価値は決まりません。むしろいかに力まず自然な状態で吹けるかで、決まるといっていい。その点男性奏者は力に頼りがちなところがあるので、女性のが有利と言えます」


 だから湊くんも、力まず自然な奏法をするように心がけてください、と師匠は言った。

 どんな音が要求されているかを楽譜から読み取り、自然に歌っていく。

 楽器を吹くのに筋力はいるが、純粋な力勝負ではない、という。どうりで吹奏楽部は女性だらけのはずだ。


「でもまあ男子校の演奏とかは、それはそれで迫力があってすごいものです。だからそんなに気にすることはないのかもしれませんが」


 やはり人間、自分が持っていないものは羨ましく感じるのだ。そこで先ほどの美里と慶のやり取りを思い出してしまって、鍵太郎はぶんぶんと頭を振った。

 美里はそれに気づかず、「体格かあ……」と浮かない顔をしている。


「やはり腹筋背筋を毎日ちょっとでもやるのがいいのですかね。中学のときは毎日やってたんですけど」

「本当に体育会系文化部ですね……」


 筋トレをする文化部。なんだかもう、いろんな領域を超えてしまっている。いい音を追求するのにみんな貪欲すぎだろう。まあ、気持ちはわかるのだけれども。

 俺も筋トレするかなあ。そう思っていると、美里の表情がさらに暗くなる。


「いや……筋肉をつける以外にもうひとつ、体格で音をよくする方法はあるんですが」

「なんですか?」


 鍵太郎が訊くと、美里は沈痛な表情で、重々しく答えた。


「……脂肪をつけることです。太ればいいんです」

「……」


 なにも言えなかった。言ってはいけない気がした。

 音を取るか。乙女心を取るか。

 吹奏楽部の女性にとって、それは重要な問題だ。


「オペラ歌手とか、ふくよかな方が多いですよね。あれと一緒で、ふくよかな人は身体も楽器の一部として使うことができるので、重層的な響きを作ることができるんです」


 だから外国のチューバ奏者、結構メタボが多いです。悲しそうに美里は言った。


「いい音はほしい……だ、だからと言ってふ、太るのはちょっと……で、でも……ううう」


 いい音と乙女心の狭間で、先輩が頭を抱えている。鍵太郎は一般論として、そう、あくまで一般論として、男性の意見を美里に言ってみた。


「あの……男の人って、多少ぽっちゃりしてても気にしませんから……」

「そういう問題ではないのですッ!!」


 今まで見たこともないような険しい顔で、先輩が叫んだ。


「女性にとって、男性からどう見られているかなどどうでもいいんです! 今自分がどのくらいの体重なのかが問題であって、敵は常に自分自身です! 例えばそう、制服のスカートがちょっときついかなーなんて思った……り……」


 いきなり言葉に力がなくなって、美里はまたどんよりとした表情に戻った。

 だいたいの事情は察せられた。それはつまり――


「……そのスカートきついって、もしかして先輩が太っ」

「とにかく! いい音を出すため、わたしはこれから毎日腹筋背筋をするんです!!」


 鍵太郎のセリフを遮って、怒りの力で美里は宣言した。


「湊くんもやりましょう! 腹筋背筋、毎日百回ずつです!」

「百回!?」

「そのくらいしなければ、いい音は出ませんよ!? いいですね!!」

「は、はい……」


 師匠のお達しだ。守らないわけにもいくまい。

 さて、野球を辞めて多少鈍ったこの身体で、百回もできるだろうか――と考えた鍵太郎は、ふとある考えに思い至った。

 太った。スカートがきつい。

 脂肪がつく。いい響き。

 思い切り息を吸えない。

 そんな、まさか――。


「湊くん、どうかしましたか?」


 衝撃の結論に息を呑んだ後輩に、美里が声をかける。

 鍵太郎は「な、なんでもないです」と頭を振った。自分が今至った結論を、悟られるわけにはいかない。


「そうですか? では休憩が終わったら練習を続けましょう」

「は、はい」


 今日の美里はテスト前よりも少しふくよかで、いい響きを出していた。

 少し締め付けがきついはずなのに、思い切り息を吸い込んで――


「まさか、な……」


 ぼそりと鍵太郎はつぶやいて、頭を振った。

「ひょっとして先輩、今『外してる』んじゃ……」――という考えを、頭から追い出すために。

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