第38話 お釈迦様が見てる

 お寺だ。

 同い年の吹奏楽部員、宝木咲耶たからぎさくやの家は、寺だった。

 湊鍵太郎みなとけんたろうはその寺の敷地内に入り、辺りを見回した。

 立派な本堂。大きな柳の木。

 おそらく大晦日には突くであろう、鐘。

 そして当然のように、墓。

 生まれたときから墓の隣で暮らすというのは、どういう気持ちなのだろうか。

 咲耶の年不相応の落ち着きは、このあたりから来ているのかもしれない。


「まさか、本堂で練習するの?」


 仏像前で楽器を吹くというのは、なんだかバチがあたりそうな気がするのだが。そう思って訊くと、さすがに咲耶は首を振ってくる。


「違うよ。本堂の裏に小さい建物があるから、そこで練習するの」


 言われて彼女と一緒に本堂の裏に回れば――そこには小さな家のような建物があった。

 かすかにトランペットの音も聞こえる。先に来ている千渡光莉せんどひかりが、中で練習しているのだろう。

 古いが、しっかりした造りだ。扉を開けて中に入る。


「遅かったじゃない」


 楽器から口を離して、光莉が言ってきた。言葉のわりに顔は嬉しそうだ。こいつは本当に、楽器吹くのが好きなんだなと思う。


「これでも急いだほうだ」


 光莉から急かすようなメールが来て、かなり急いでやって来た。時間の短縮のために咲耶と自転車の二人乗りもしてきたくらいだ。

 その甲斐あってか、光莉はそんなに怒っていないようだ。咲耶にイスを勧められて、座る。


「それにしても……自分の家にこんな練習場があるなんて、すごいな」


 周りを見渡す。小さいながらもピアノがあって、イスや譜面台も置かれている。メトロノームもある。


「おじいちゃんが趣味で建てたんだよ。秘密基地でも作りたかったのかな」


 あ、おじいちゃんはお坊さんなんだ、と咲耶は言った。


「でも、お肉も食べるしお酒も飲むよ。お付き合いも大変だし、今時そんな戒律守れないと思う」

「な、なるほどな」


 神社仏閣も商売だ。世俗と離れられないのだろう。咲耶はさらに、盆に載せられた菓子を差し出してきた。


「お彼岸でもらったお菓子がまだあるんだ。よかったら食べて」

「おおー」


 盛られた中から、チョコパイを取って食べる。秘密基地。世俗から離れたここで、楽器を吹けてお菓子も食べられる。

 なんということだ。


「ここは……楽園か!?」

「うちの職業的に、そこは極楽浄土って言ってほしいなあ」


 お寺だけに。咲耶はそう言って、続けた。


「あ、でも、お寺っていっても、うちはそんなに堅苦しいところじゃないよ。おじいちゃんもそんな人だし、私自身も仏教徒ってわけじゃない。まあ、そりゃ人よりは詳しいけど、こういう生まれだから、嫌でも耳に入ってくるだけだよ。普通の人と一緒。みんなと変わらない。そう。変わらない」

「……宝木さん?」


 なんだか、咲耶の様子がおかしい。

 いつもはみなの近くでにこにこしているだけの彼女が、今日はいやに饒舌だ。

 鍵太郎の声にはっとした咲耶は、いつものように笑った。


「ごめん、なんでもない。あとさん付けはやっぱりいらない」

「うー」


 この不思議な風格のある少女相手だと、どうしても敬称がついてしまう。

 本人がそれを望んでいないのならもう外すべきなのだろうが、まだそれに鍵太郎は違和感があった。

 こいつみたいに、言いたいことをズバズバ言ってくればまた違うのに。そう思って光莉を見ると、「なに見てんのよ」とにらまれた。

 理不尽だ。


「じゃあこいつも来たことだし、さっそくCDを聞いてみましょっか」


 光莉が言った。鍵太郎のカバンの中には、今度の大会で演奏する曲の、参考音源CDが入っている。先輩にもらったものだ。


「楽譜見ててもCD聞いても、これすげえ難しい曲なんだけど……」

「そりゃそうよ。コンクールでそんな簡単な曲吹いてたまるもんですか」

「あ、オーディオセットはこちら」


 咲耶がクローゼットを開けると、中には大きなスピーカーを備えた機器が、どすりと鎮座していた。


「……すごいわね、ここ」

「ほんとに秘密基地みたいだ……」


 二人がそれを見て驚くのを、咲耶は困ったような顔で見ていた。



###



 CDも聞き、マウスピースだけの練習にも疲れた。


「宝木さん。本堂にはやっぱり、大仏とかあるの?」

「あるよ。金色のやつ。法事とかあると、檀家さんがそこに入る」

「へー」

「……興味ある?」

「少し」


 社会見学みたいな気分だ。秘密基地のような離れといい、寺の裏側といい、普段なら見られないものばかりで鍵太郎はちょっと楽しかった。

 休憩も兼ね、少しだけ見てみたいと咲耶に言う。すると、微妙な顔をされた。


「……湊くんて、変わってるね」


 普通は気味悪がって近付かないもんだけど。そう彼女には言われた。いや、そこまで言わなくてもいいだろうと思う。


「知ってるでしょ。俺が時代劇好きだって」

「ああ、そういえばそうだったね」


 老人ホームでの演奏では役に立った趣味だ。あのときは光莉に変な目で見られつつも、みんなで動画を見た。

 少し変わった趣味なのは自覚している。けど、そのくらいは許してくれないかなあと思う。ああして役にも立ったし。


「人と変わった趣味でもさ。好きなんだから別にいいじゃないか」

「そう、だね」

「千渡は行くか?」

「私はいい」

「あ、そう……」


 まあ、興味はないだろうと思ってはいたが。すげなく断られて、鍵太郎は少し残念に思いながらも咲耶とともに離れを出た。


「今日は法事なにもないから、大丈夫でしょ」


 咲耶はそう言って、本堂へ続く扉を開ける。檀家の控え室であろう畳の部屋を抜けると、床が古い板張りのものに変わった。

 奥に進んでいけば、そこには黄金色に輝く大仏が座っている。

 大きさはさほどでもないが、そこ自体が――


「超金色」


 大仏の上には同じく金色のシャンデリアみたいな飾りがあり、他にも大きな金色の蓮のなどが飾られている。隅の方には咲耶の祖父が座るのであろう、金糸の縫い取りがある座布団もあった。


「キンキラだなあ」

「極楽浄土のイメージなんだろうねえ」


 昔の人はこんなイメージを持っていたのだろうか。

 でも今の鍵太郎にとって、極楽浄土はあの秘密基地だ。このキンキラではない。


「あ、木魚」


 リアル木魚だ。結構大きい。そう思っていると咲耶が棒を持って、木魚をぼんと叩いた。大きさのせいか、かなり迫力のある音だ。咲耶が言う。


「吹奏楽でも、曲によっては木魚を打楽器として使うんだって」

「へえ。和風な曲とか?」

「うん。うちのこの木魚を持っていこうとして、お兄ちゃんがおじいちゃんに怒られてた」

「商売道具だもんね……」


 確かに本職の道具は、いい音がしそうだが。それを持ち出すということは、咲耶の兄というのも、だいぶ吹奏楽にのめり込んだ人間であるらしい。


「きっと楽しかったんだね。宝木さんのお兄さん」


 家の大事なものを持ち出すほど。音楽や仲間に囲まれて楽しかったのだろう。自分と一緒だ。


「楽しそうだった。……お兄ちゃんは、楽器を吹き始めてから変わったよ。私もびっくるするくらい」

「だから、宝木さんも始めたんだ?」

「そう」


 兄がああなった理由を知りたい。それが分かれば。


「諸行無常のこの世にて、苦より逃るることも――」


 そこまで言った咲耶は、ぴたりと口を閉ざした。


「……宝木さん?」


 鍵太郎の呼びかけに、咲耶はふっと笑う。


「……なんでもない。ごめんね変なこと言って」


 こんなところで育ってるから、たまに専門用語が出ちゃうんだよ。彼女はそう言って、肩をすくめた。


「普通の人と同じだって思ってても、やっぱり決定的に始点から違うんだね、私は」


 そう諦めたようにつぶやく彼女は、いつもみんなの中でにこにこしている、彼女の顔ではなかった。

 たぶんこれが――宝木咲耶、本当の顔。

 直感的に、そう思う。


「ねえ、変わってる湊くん」

「……なに?」

「人と変わったところがあっても、好きになればそんなのは関係ないのかな」

「……?」


 なん、だろう。

 咲耶が、なにを言いたいのかがわからない。

 彼女がいつもの自分をかなぐり捨てて、自分になにかを伝えようとしているのはわかるのに――彼女がなにを言いたいのか、それが全くわからない。

 誰で、どれで、なんなのか。

 範囲が広すぎて、鍵太郎には追いきれない。


「好きになれば。そんなのは全部、関係ないのかな。なにを言ってるのか分からなくても、最初から生きている世界が違っても。そんなのは全部飛び越えて――人はつながることができるのかな」


 どうなのかな。と。

 普通とは少しずれた世界に生まれてしまった少女は、金色の仏様を見上げて、そうつぶやいた。

 静かで悲痛な叫びに仏像はなにも答えず――ただ、下界を見下ろすのみ。

 咲耶の言葉をしばらく頭の中で繰り返した鍵太郎は、頭を抱えて言うしかなかった。


「ごめん……宝木さん。俺には、よくわからない」


 なんのことを言いたいのかわからない。

 どれを指しているのかがわからない。

 誰が、なにを好きになったら――そうなるのか、わからない。

 頭を押さえてうなる鍵太郎を見て、咲耶は悲しそうに笑った。


「……いいよ。そうやって理解してくれようとしただけで。私は、満足だよ」

「……理解」


 できない、のか。

 わかるようで、わからない。

 いつだって、そうだ。根本的に理解し合えない。

 肝心なものだけが、伝わらない。

 先輩が大好きなのに――その思いだけは、伝わらない。

 そうだ。少し、わかってきた。


「……伝わらないのは、つらいよな」

「……湊くん?」


 咲耶が怪訝そうに訊いてくる。うまく言える自信はないけれど――少し、形にしてみる。


「思ってることが伝わらなくて、誤解されたり、笑われたり、……ひょっとしたら、拒否されたり。そういうのは、俺もそうだから、わかる。……少し、わかってきた」


 たどたどしく、思考を言葉に変換する。それは楽器で音を形にする作業にも似て――ひどく、繊細な作業だった。


「そう。好きなら、関係ない。どういうところで生まれて、どういう風にここまで来て、それを知らなくても、いま」


 いま。現在。

 好きなら、関係ない。


「言葉でわかってもらえない。形にならなくて、わかってもらえない。けど――どうしてか知らないけど、心だけ、通じることがある」


 鍵太郎の初めての本番。学校近くでの老人ホームで、会ったこともない人たちの前で演奏したとき。

 あの車椅子のおばあさんはなんて言った。そう、あのとき――


「『ありがとう』って言われたことがある」


 そうだ。しゃべったこともない人から、お礼を言われたことがある。


「言葉にしなくても、伝わったことがある。気持ちだけが、伝わったことがある。音で――人が、つながったことが、ある」


 初心者で、初めての本番で怯えていた自分に。

 わざわざお礼を言いに来てくれたお客さんがいた。

 光莉は、それに救われた。


「きっと、伝わるときがくる。気持ちが、届くときがある。――きっと」


 先輩にも、伝わる時が来る。

 そう、思いたかった。


「宝木さんのお兄さんは、それがわかったんじゃないかな。言葉にしなくても、演奏で心が通じるって知ったから。だから――もっと伝えるために、本格的な木魚まで持ち出そうとした」


 楽しかったのだ。

 伝えられることが。


「だから――そうだ。好きなら、つながれる。そう、戻ってきた」


 一息つく。膨大であやふやな思考の海から、水を一滴だけ出すような、頭を使う作業だった。

 甘いものがほしい。あの秘密基地に戻って、もう一個チョコパイをいただきたい。


「……うん。そんな感じ」


 どんな感じかと言われれば、鍵太郎にもう一度同じことを言える自信はないが。

 ただこの拙い言葉が、少しでも咲耶の慰めになればと――


「……宝木さん?」


 そう思って隣を見れば、咲耶はその目を見開いて、呆然としていた。


「……そうなのかな」

「え?」

「わかって、もらえるのかな」

「あ、うん……」


 なんだろう。またわからなくなってきた。

 彼女が誰を好きで、心をつなぎたいのか――。

 咲耶はトコトコと仏像の前に行き、手を合わせる。


「苦たる輪廻の現世に生まれた魂を、十二の縁起より超克し、正しき道へと導きたまえ」

「……アーメン?」

「そこは南無阿弥陀仏と言ってほしい」


 振り返った咲耶は、いつものにこにことした顔に戻っていた。

 なんだかよくわからない。戸惑う鍵太郎に咲耶は「冗談だよ。仏教ギャグ」と言った。ますます意味がわからなくなる。


「人と人とがつながれるというなら、まだ私にも可能性があるということだね?」

「うん? なんだかよくわからないけど、そうなんじゃない?」

「ふふ。そうか、お兄ちゃんもこんな気持ちだったのかな――」

「はあ」


 元気になったのなら、いいことだ。しかし女の子というのは一体どこで機嫌がよくなるのか、全然わからない。


「修行が足りない、ということかね。――ふふ。やだもう咲耶。お釈迦様が見てる」

「あの……宝木さん?」


 なにやら、咲耶が暴走し始めている気がする。こんな彼女は初めて見るが――悪い気分ではない。多少不気味ではあるが。


「だからもう。さんはいらないのに」

「宝木……さん」


 だめだ、まだ外せない。ため息をつくと、なぜか笑われた。


「いいよ。まあ。そのうちに――ね」

「うん」


 そのうち、もう少し咲耶と親しく、話せる日が来るだろう。そのとき自分は、彼女とどんなことを話すのだろうか。

 できればその際はもう少し――頭を使わないで済む話題をお願いしたい。


「じゃあ、戻ろうか。光莉ちゃんが待ってるよ」

「あ、やべ。早く戻らなきゃ」

「……ふむ? もう少し見学してく? 詳しく解説できるけど」

「今はもう、勘弁してくれ」

「あはは」


 冗談だったようで、咲耶は歩き出した。さっきの仏教ギャグというやつなのかもしれないが――冗談なのか本気なのかわかりづらいので、今後は使用を控えてほしい。


「さて、戻ったらまた練習だね。音で心が通じるなら、こんなに素敵なことはないもの」

「うん……?」


 光莉に続き、咲耶までなにやらやる気になっている。

 彼女たちはどうしてこんなにがんばれるんだろうと――自分のことを棚に上げて、鍵太郎は思っていた。

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