第37話 お嬢様疑惑

 湊鍵太郎みなとけんたろうは、高校一年生である。

 川連第二高校、吹奏楽部に所属。いつもは放課後の音楽室で活動中。

 だがその活動もしばらく、お預けになる。

 この学校は進学校である。


 そう――中間テストがあるのだ!



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「明日から、部活は休止期間に入ります」


 吹奏楽部部長、春日美里かすがみさとは後輩にそう告げた。

 テスト期間と、その準備の期間合わせて一週間ほど。

 どの部活も強制的に休止期間に入り、もちろん音楽室も使用できなくなる。音を出せば一撃でバレる部活なので、素直に休むしかない。

 学生の本分は勉強だ。まして、高校に入って初めてのテストだ。

 楽器を吹けなくなるのはきついが、成績が落ちたら元も子もない。真面目な話をすれば、そういうことだ。

 それは正論なのだが――鍵太郎にとって、一番重要なのはそこでなはい。

 会えなくなるのだ。一週間。

 大好きな先輩に。


「はぁ……」


 思わずため息を吐く鍵太郎に、美里はうんうんとうなずく。


「わかります。コンクールに向けて曲が配られたこの時期に、しょうがないとはいえ一週間も楽器が吹けない。これはつらいことです」

「……ええ、そうですね」

「『一日休めば三日後れを取る』と言われるくらい、毎日の練習の積み重ねは重要です。そうなるとわたしたちは、二十一日間もロスをすることになるのです」

「そうですね……」


 二十一日間、先輩と会えないのと同じことですよね。

 それは俺の人生において、とてつもないロスです――と、虚ろな眼差しで鍵太郎は思った。


「そこでです。湊くんにこれをプレゼントします」

「……プレゼント?」


 なんだろうか。鍵太郎の目に生気が戻る。

 ドキドキしながら待っていると、美里は鍵太郎に一枚のCD‐Rを差し出してきた。


「大会で演奏する『シンフォニア・ノビリッシマ』の参考音源です。楽譜を見ながらこれを聞くだけでも、なにもしないよりはだいぶ違うと思います」

「イメージトレーニングってやつですか」

「そうです」


 なるほど。吹けないなら吹けないで、別の角度から練習すればいいということだ。

 CDをありがたくいただく。他にも何曲か入っているようで、曲名を何行か書いた紙が挟んであった。

 それはなにかのメモ帳を切り取ったものなのか――ピンク色の紙の隅に、うさぎのマスコットが印刷されている。

 そこにはふきだしが書かれ、中に「がんばりましょう!」と手書きしてあった。うさぎが言っている。

 そのうさぎが美里に思えてきて、鍵太郎の頬が緩んだ。

 かわいいなあ。先輩、かわいいなあ。

 ほっこりとした気持ちで、CDをカバンにしまう。これはいいものをもらった。


「ありがとうございます先輩。聞いてみます」

「はい。わたしおすすめの曲も入れてありますので、ぜひ」

「わかりました」


 先輩に会えない無聊は、これで慰めよう。陰鬱なテスト期間も、これなら乗り切れる。

 部活が休止になっても、心までは止まらない。



###



「ほんと、なんで休止になんてなるのよ」


 口を尖らせて、鍵太郎と同い年の部員、千渡光莉せんどひかりが言った。

 彼女は中学のとき吹奏楽の有名校にいた。そのときはそうではなかったのだろうか。そう思って訊いてみると、光莉はうなずく。


「うちの中学は、吹奏楽部がすごい力を持ってたから。テスト前もあそこは特別、みたいな感じで練習が許可されてたわ」

「さすが有名校……」


 学校からの特別扱いまでされてたのか。

 そんなところで毎日練習できたら、そりゃ上手くもなるよなあと思う。一日サボれば三日差がつく、となれば、その差はどれほど開くのだろうか。

 そう思っていると、音楽準備室からクラリネットの宝木咲耶たからぎさくやが出てきた。手には楽器を持っている。

 咲耶の持っているのは、学校の備品ではなく自分の楽器だ。

 兄のおさがりだというその楽器を、彼女はたびたび持ち帰っているのを見かける。

 鍵太郎の視線に気づいた咲耶は、いつものようににこりと笑って言ってきた。


「持ち帰って練習しようと思って」

「いいなあ木管は。家で練習できて」


 光莉の楽器はトランペットだ。あのつんざくような音量のまま自宅で練習したら、とんでもない近所迷惑となる。

 その点、木管楽器であるクラリネットはそこまで音が大きくない。部屋を閉め切れば自宅での練習も可能だろう。

 光莉から羨ましげに言われた咲耶は、「う……」と気まずそうに笑顔を引きつらせた。


「ねえ。腕が鈍るわ。一週間も吹けないと」

「うぅ……」

「だよなあ。『一日休めば三日後れを取る』って、先輩も言ってたし」

「ううー……」

「せっかくコンクールの譜面もらったのに。こんなんじゃ金賞なんて取れないわよ」

「うううー……」


 なにやら咲耶がうなり続けている。なんなんだろうと彼女を見れば、咲耶は珍しく渋面でなにか悩んでいた。

 やがて彼女はなにを決意したのか――二人に向かって、おずおずと口を開く。


「……うち、練習場があるんだけど、来る?」

『は!?』


 鍵太郎と光莉は、揃って驚きの声を上げた。

 家に練習場がある!? なんだそれは!?


「あの、うちね。離れみたいなところがあって。そこは防音されてるから、吹いても大丈夫だよ」

「すごい! 行く!」


 光莉が二つ返事をしていた。彼女も自分の楽器持ちだ。場所があるとなれば、喜んで行くだろう。


「おい、まさか毎日行く気じゃないだろうな」


 光莉のこの勢いならやりかねない。熱心なのはいいが、さすがに高校生活最初のテストに惨敗するわけにもいかない。そう思って言うと、「毎日じゃないわよ。テスト勉強の息抜きに、少しだけ」と返された。とりあえず安心する。


「そうねー。今度の土曜日とかどう? 宝木さんち、大丈夫?」

「たぶん大丈夫。おじいちゃんに訊いてみるね。もし駄目だったら連絡する」

「ありがとう! ……ねえ、あんたも来るでしょ?」

「え、俺も?」


 鍵太郎は困惑した。光莉と咲耶は自分の楽器を持っているが、鍵太郎は持っていない。

 彼の使っているチューバという楽器は、もちろん学校の備品である。あれを持ち帰るとなれば、顧問の許可が必要だ。許してくれるだろうか。

 それに、チューバは重い。重さ十キロの金属塊、ケースは棺桶とまで言われたあれを家にいったん持ち帰ってまた咲耶の家まで持っていくというのは、かなりの重労働だ。あの大きさだと、電車の中でえらい邪魔になるだろうし。

 渋る鍵太郎に、「じゃあ、マウスピースだけでも持ってきなさいよ」と光莉が言った。

 マウスピースというのは楽器に息を入れる部分で、取り外しができる。タオルに包んで持ち運べるくらいの大きさだから、それだけなら持ち運びも楽だ。

 マウスピースだけで練習するバズィングという練習法もある。これだけならいちいち顧問に許可を取る必要もないだろう。「いいぜ、好きなだけ持って帰れ」という顧問の声が聞こえてきそうだった。


「ね、ねえ。一人で家で練習するより、みんなで練習したほうが張り合いがあるでしょ? その方が……きっと、楽しいわよ?」

「あー。うん。わかった」


 なにやら光莉が、あらぬ方向を向いて小さくガッツポーズをした。そんなに自分は練習しなさそうに見えるのだろうか。そんなことはないのだが。

 やる気があるところを見せようと思って、鍵太郎はCDを取り出す。


「大会の曲の参考演奏、先輩にもらったんだ。よければ土曜日持っていくけど」

「そんなのあるなら早く言いなさいよ!」

「そうだね、それは聞きたいなあ」


 やはり二人とも聞きたいようだ。忘れないように持っていかないといけない。

 しかし鍵太郎には少し引っかかることがある。咲耶は自分の家のことを前に、「ちょっと変な家」と言っていたのだ。

 練習場があることといい楽器を持っていることといい、咲耶の家は確かに、少し他の家とは違うのかもしれない。

 お金持ちの家なのかな、とその潤沢な設備を聞くと思う。咲耶の歳のわりに妙に落ち着いた雰囲気も、育ちのよさといえばそうなのかもしれない。

 あれ、じゃあ手土産にお菓子とか買っていったほうがいいのか? と鍵太郎は思った。

 そんな上流階級の家に、手ぶらで行くのもなんだか、申し訳ない。練習場を使わせてもらうのなら、咲耶の親族には挨拶をしておいたほうがいいのかもしれない。

 そう思って咲耶に訊いてみると、「お菓子なら家にいっぱいあるから、気を遣わなくていいよ」と返された。

 お菓子が家にいっぱいあるとか。どんな家庭か。ますますお嬢様疑惑が深まる。


「じゃあ、決まりね。今度の土曜日にみんなで練習。楽しみね」


 本当に楽しそうに、光莉が言った。こいつ、そんなに楽器吹けるのが楽しみなのか、と彼女の練習熱心さに関心する。

 一人では張り合いがない。光莉の言うとおりだ。でも、三人でもまだ寂しいかもしれない。

 他の部員にも声をかけようかなと思ったとき、後ろから元気な声をかけられた。


「なになに!? 三人でなんの話してるの!?」

『おまえは家で勉強してろッ!!』


 相変わらず好奇心旺盛なアホの子、浅沼涼子に全員で突っ込む。こいつは普通に成績が心配だ。かわいそうだが今回はご遠慮願おうと思う。



###



 土曜日。学校の最寄り駅にて。

 鍵太郎は咲耶のことを待っていた。

 彼女の家は、学校に近い。自転車通学をしているくらいだ。なので待ち合わせ場所は自然と駅になった。

 どうも光莉は先に行ってしまっているようで、「早く来なさいよ!」という内容のメールが既に送られてきている。あいつ、どれだけ張り切ってやがるのだろうか。

 それで慌てて家を出て、CDを忘れそうになっていったん戻ったため、さらに時間を食っている。なんか着いた瞬間怒られそうだな、と鍵太郎は思った。練習の時間を無駄にするなとか、なんとか。顔を真っ赤にして怒鳴るのは、いい加減止めてほしいと思う。

 咲耶が自転車に乗ってやってきた。淡い色のカーディガンに、ふわりとしたスカート。清楚ながらもかわいらしくて、お嬢様に見えなくもない。

 彼女は鍵太郎の前で止まり、「待った?」と訊いてきた。


「いや、そうでもない」

「そこは『今来たとこ』って言うとこだよ――よっ、と」


 咲耶は自転車を降りて、鍵太郎の隣に来た。一緒に歩き出す。


「千渡、先に練習してるんだな」

「うん。なんか張り切ってた。すごい練習熱心だよね。湊くん早く来ないかなあって言ってたよ」

「マジでなんなんだ、あいつは……」


 歩きながら額を押さえる。これは、遅れれば遅れるほど光莉の機嫌が悪くなる感じだろう。

 時間がもったいない――そう思った鍵太郎は、咲耶にある提案をした。


「宝木さん」

「うーん。さんはいらないと前にも言ったと思うけど」

「あー。ごめん、まだちょっと外すのに違和感がある。ええと、それは置いといて、ひとつ提案があるんだけど」

「なに?」

「二人乗りしよう」


 鍵太郎のその提案に、咲耶の足が止まった。きょとんとこちらを見返す彼女に、再度言う。


「二人乗り。俺がその自転車こぐから、宝木さん後ろに乗って」

「えーと。怒られないかな?」

「パトカーでも走ってない限りは大丈夫だと思うけど。これ以上千渡を待たせたら、俺なに言われるかわからない」

「ああ、なるほどね」


 納得してくれたらしい。咲耶はハンドルをこちらに渡すと、後ろに移動した。ちょこんと横向きで座る。


「よし、じゃあ――いくよ」


 思い切りペダルをこぐ。幸い、それほど重くなく、二人を乗せた自転車はゆっくりと動き出した。


「大丈夫? 重くない?」

「大丈夫」


 元野球部なめんな、というところだ。痛みが怖くて右足はあまり使えないけれど、代わりに左足に力を入れる。それで、自転車は快調に走り出した。


「あはは。早い早い」


 後ろから咲耶の楽しそうな声が聞こえてくる。急な坂道がなければ、このままいけそうだ。

 以前に、咲耶と帰り道に分かれたところまで来た。ここから先は、鍵太郎の知らない道だ。「そのまま真っ直ぐ」と咲耶のナビが入る。


「少し行くと三叉路があるから、それを右」

「はいよ」


 言われた通りに右に入る。それから指示に従って走るうちに、鍵太郎は一軒の施設の前にたどり着いた。


「これって……」


 家、ではなかった。

 大きな門と、瓦が立派な建物。それは本堂と呼ばれるもので――


「ようこそ湊くん。私の家へ」


 自転車から降りた咲耶が、その門の中に入って、振り返った。

 鍵太郎の反応を見た彼女は、少し悲しそうに笑う。


「そんなに規模の大きいところじゃないから、そうかしこまらないでほしいな」

「ごめん、ちょっと驚いただけ」


 確かに、お金はあるかもしれない。お菓子もたくさんもらうだろう。

 咲耶がこの歳にして落ち着いている理由も、なんとなく察せられた。

 鍵太郎は咲耶の後について、その敷地に入った。

 そこは、寺だった。

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