第36話 新しい先生
吹奏楽部の顧問の車は、赤いスポーツカーだった。
「……学校の先生が乗っていいんですか、こんな車」
「うっせえ。趣味だ趣味」
「ともかく、乗った乗った」
促されて、鍵太郎と吹奏楽部の部長、
「先生のお知り合い……どんな方なんでしょう」
期待と不安を織り交ぜて、美里がつぶやいた。
本町の知り合いだという、吹奏楽部の新指導者。
その人物に会えるということで、鍵太郎は先生と部長にくっついてきていた。
本来ならば一年生が行くのは遠慮すべきなのかもしれないが、乗りかかった船であるし、なにより鍵太郎自身がその人物に会ってみたかったのだ。
先生も部長も、むしろついて来いという感じではあるし。この人たちと同じフィールドに立てて嬉しいというのもある。
車は夜の街を走っていく。
部活も終わった時刻だ。あたりは暗い。ところどころ街灯が点る中を、車は進んでいく。
鍵太郎は本町に、これから会う人物のことを尋ねた。
「結局その外部講師の先生っていうのは、どんな人なんですか?」
本町の知り合いで、プロの演奏家。
優しい人。そのぐらいしか情報がない。
先生は運転しながら、鍵太郎の問いに答える。
「アタシの音大の後輩でな。楽器で身を立てられた、数少ないやつで――まあ、なんだ。ちょっと変わってるけど、いいやつだ」
「先輩の予想した、『気のいい変な人』、そのまんまじゃないですか……」
「あはは……」
吹奏楽部に入ってからというもの、鍵太郎の周りは個性の強い部員で埋め尽くされている。これから会う人物もそうだと思うと、妙な安心感はあるものの――そろそろ普通の人、いないんですか? と思ったりもする。
音楽に触れると気が触れる。それがなんとなく、わかってきた。
自身もそうなりつつあるのだが――鍵太郎を乗せた車は、夜道を駆けていく。
「前に、他の学校の指揮もしてたことがあるから、腕の方は心配しなくていい。ああ、おまえらが気にしてたのは、そいつの性格の話だったか。うーん。やっぱ、いいやつとしか言えないな。あー、そうだな。誤解を恐れず言うなら」
赤信号で減速して止まってから、本町は言った。
「音楽が好きで好きで――子どものまま大人になっちまった、不器用なやつ、ってとこかな」
「……いい人ですね」
「だろ?」
顔は見えないのに、本町が笑ったのがわかった。
車がまた動き出す。
「口で説明するより、会った方がわかりやすいやつだからな。挨拶してくといい」
車は、駅の近くのファミリーレストランに入っていった。
駐車場に車を止め、降りる。「もう来てっかなあ」と本町が店の入り口へと視線を送った。
すると、先生が止まる。
「……どうしたんですか?」
その反応に、鍵太郎が先生の後ろから店の入り口を見れば――
そこにはボサボサの髪と無精ヒゲを生やした、丸メガネのうさんくさい男が立っていた。
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「……せめてヒゲくらいは剃ってこいと言ったろうが、ボケ」
「いや、まさか生徒さんまで一緒に来るとは思わなくて」
「アタシ相手ならいいってのか!? 見上げた根性だな、オイ!?」
「ま、まあまあ。喧嘩はよくないですよ」
大人同士の小競り合いに、なぜか美里が仲裁に入っていた。男は決まりが悪そうに、手ぐしで髪を申し訳程度に整えている。
立ち姿を見れば、少し背が高いことがわかる。丸メガネの奥の瞳は優しげに細められていて――よくよく見れば、かなり容姿は整っているのがわかった。
だが、ボサボサの髪と無精ヒゲ、少し曲がった丸メガネにヨレヨレのシャツ、といった格好のせいで、彼の全てが残念な印象にランクダウンしている。
「場所が急に、居酒屋からファミレスになったのはそういうことですか。来るなら来るって言ってくれればいいのに……」
「未成年者を居酒屋に連れて行けるか。職を失うわ。あとヒゲっつうのはな、普通は毎日剃るもんなんだよ――城山セ・ン・セ・イ?」
「うう。これからは先生らしい格好をしますよ。せんぱ……いや、本町先生」
本町の後輩だというこの城山という男性は、やはり先輩には頭が上がらないらしい。
なるほど、と鍵太郎は納得した。気のいい変な人だ。
髪を整えヒゲを撫でつけ。
城山は、初めて会う生徒二人に頭を下げた。
そこだけは、舞台に立ち慣れた者の仕草で――思わず見入るほど、洗練されている。
「はじめまして。こんな格好ですまないね。挨拶しようか。
僕の名前は
「川連第二高校吹奏楽部、部長の春日美里です」
「一年生の、湊鍵太郎です」
二人でぺこりと頭を下げる。礼儀正しい生徒に、城山は微笑んだ。「当然だ。うちの生徒だぞ」と本町が言う。
「ここで話し込んでいてもしょうがない。中に入って、なにかつまみながら話すか」
「ビール、飲みたかったなあ……」
「おまえ、未成年者より子どもだぞ」
ジト目の本町を先頭に、一行はファミリーレストランに入った。
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「……まあ、ここまでの流れで、なんとなくこいつのことはわかったんじゃないか」
「そうですね……」
四人掛けの席にについて、メニューを見ながら本町はそう言った。鍵太郎としても、失礼ながらそう答えざるを得ない。
当の城山は、ノンアルコールのビールの欄を未練がましく見ている。しかしやがて諦めたらしく、「コーヒーにします……」と、がっくりと肩を落としていた。
なんかもう、いろいろ残念な人だ。人格についてはもう心配していなかったが、こうなると逆に腕のほうが心配になってくる。
「あの、いつもはどういったお仕事をされてるんですか……?」
まさか、仕事のときもこんな格好だとは思えないが。気になったので、鍵太郎はそう訊いてみた。
城山は鍵太郎の質問に、丁寧に答えてくる。
「最近は、遊園地で吹いたり、バーで吹いたりしてるよ。音楽教室の先生をやったり、その他にも呼ばれれば、いろんなところに行ったりする」
「うわあ……」
思ったよりちゃんと仕事をしている。なんだかんだいって、相手は大人なのだ。
そのもう一人の大人は、相変わらずジト目で後輩に突っ込む。
「……まさか仕事のときも、そんな格好じゃないだろうな」
「し、シツレイな。ヒゲはちゃんと剃ってますし、本番は髪も整えるなり縛るなりしてます」
「……じゃあ、今度
その格好で校舎に入ったら、不審者扱いでつまみ出されるぞ、と本当にあり得ることを本町は言った。
困ったように笑いながら、城山が頬をかく。子どものまま大人になった、不器用なやつ。そう本町が評じたのも、なんとなくわかった。
本町がおごってくれるというので、鍵太郎と美里は夕飯を食べることにした。
楽器を吹くと、とても腹が減る。二人ともハンバーグを頼んだ。さらにチョコパフェでも頼みたいくらいだったのだが、先生の手前遠慮しておく。
ぼんやりとそんな二人を見ていた城山が、今度はこちらに訊いてきた。
「二人とも、楽器は?」
「チューバです。わたしも、こちらの湊くんもそうです」
美里の言葉に、「チューバかあ。いいねいいね」と城山が笑う。城山のトロンボーンも、二人が担当するチューバも、同じ金管楽器だ。音域も近く、合奏上絡むポイントも多い。親近感を覚えやすい楽器同士と言える。
プロ奏者でもある城山は、二人の知らないことを口にした。
「チューバは『第二の指揮者』とも言われる楽器だ。テンポ、ハーモニー、バンドのカラーまで、その音で全てを左右することができる。
柱であり、土台であり、背景であり、構造そのもの――世界を根本から変えられる、素敵な楽器だ」
『……』
「おい、匠。匠」
ぽかんとする二人を見て、本町が助け舟を入れた。よほど焦っているのか、呼び方が城山先生ではなく、普段の呼び方に戻っている。
「おまえのその独特の言い回しは、初めて聞くやつらにはひどく難解だ。これからは、もうちょい噛み砕いた言い方を心がけてほしい」
「これが、僕にとっての普通なんですけど……」
「おまえの常識は世間の非常識なんだよ」
「ええー」
口を挟めない生徒二人の前で、漫才のような会話が繰り広げられている。鍵太郎は胸中で、城山の言葉を繰り返した。
柱であり、土台であり、背景であり、構造そのもの。
世界を根本から変えられる――。
本町は言っていた。『そいつはおまえらを、さらにもう一段階引き上げてくれる』。
この地味で、目立たない低音楽器を。
城山は、素敵な楽器、と言ってくれた。
「……嬉しいです」
隣で美里が、本当に嬉しそうに笑っている。鍵太郎も嬉しかった。
初心者で、まだまだなにも任せてもらえないけど。
きみには世界を変えられる力があるんだ、と言ってもらえたような気がして。
「さて、なんだっけ。僕のことをもっと知ってもらえればいいんだっけ」
「いや、もう十分です」
城山の言葉に、鍵太郎は首を振った。技術も心も、この先生は兼ね備えている。
少し世間とずれているところはあっても――それすら臆せず口にして、人の心を動かす表現者。
まだ会ってからさほど経っていないのに、それだけはとても伝わってきた。
この人は、どんな音を出すんだろう?
「あれ?」と首を傾げる城山に、「ほれ見ろ。生徒らのほうが呆れちまったよ」と本町が突っ込んでいる。
それがおかしくて、鍵太郎と美里は笑った。
「ううん。僕なにか変なこと言ったかな?」
「いいえ。逆ですよ――これからよろしくお願いします。城山先生」
「うん。うん? あ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
美里に言われ、城山が釣られるようにして頭を下げる。隣で本町が苦笑していた。
今年の夏の大会は、この人と一緒に出られるんだ。そう思うと、少し楽しみになってきた。
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「……いい人でしたね」
会食を終えて、車の中で鍵太郎はそうつぶやいた。
「だから言ったろ。いいやつだって」
運転席から顧問の声が飛んでくる。まあ、最後の会計のときに「てめえにおごる金はねえ」「そんな、先輩殺生な!?」というやり取りはあったものの、それはご愛嬌というものだろう。たぶん。大人の世界は厳しい。
隣で美里も、「そうですね」と笑っている。
「わたし、心配しすぎでした。ご指導をお断りしなくてよかったです。あの先生だったら、うちの部もきっとやっていけます」
「そうですね」
がんばりましょう。鍵太郎はそう言って、先輩と顔を見合わせて笑った。
この
素敵な先輩と一緒に。根本から世界を変えられるよう――そう願って。
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