第35話 秘密強化計画
「外部講師を呼ぶ?」
五月の連休も明けた、放課後の音楽準備室。
吹奏楽部部長の
外部講師。学校の音楽の先生ではなく、演奏のために校外から呼ばれた、指導者のことだ。
怪訝そうな美里に、吹奏楽部顧問の
「ああ、そうだ。今までのコンクールはアタシが指揮を振ってきた。けどな、今年はもう一段階レベルを上げようと思うんだよ」
「そう……ですか」
突然の顧問の提案に、美里は歯切れ悪くそう言った。
吹奏楽の甲子園とも言うべき夏の大会、コンクールは、部活の集大成ともいえる行事だ。
三年生にとっては最後の大会となる。これまで積み重ねてきた全てをぶつけたいと、みなは思っているはずだ。
「……その人、どんな人なんですか?」
そんな大事な大会を、よくわからない人に振ってほしくない。そんな思いから、美里は本町に質問した。
顧問の先生は「心配すんな」と笑って、部長の問いに答えてくる。
「アタシの知り合いでな。プロの演奏家としても活躍してるやつだ。腕は保障する」
「……はあ」
本町の性格は、美里もこの二年強でわかっている。口は悪いが生徒思いの先生だ。
それは、わかっているのだが。
返事をしない部長に、本町は訊く。
「不満か?」
「いえ、そんなことは」
「言いたいことがあるならはっきり言えよ」
美里の僅かな迷いに切り込むように、先生は言う。
「おまえは優しい。だけどそれだけじゃ、やっていけないときもある。今、まさにそんなときなんだよ」
「よく、わかりません……」
「それをわかってもらうために、外部講師を呼ぶんだ」
本町の目は真剣だ。
今ここがまさに、この部活の岐路だと言わんばかりの目つきで――美里の不安が、さらに増す。
「……少し、考えさせてもらえませんか?」
自分の考え方から離れたところで、話が進んでいる。
そう思った美里は、部長としてこの場での判断を保留した。
###
「どんな人なんでしょうね、その先生」
先輩から外部講師の話を聞いて、
音楽準備室から帰ってきた美里は、ひどく浮かない顔をしていた。その表情は、彼女の友達が吹奏楽を辞めてしまったときと少し似ていたのだ。
なのでそれ以上そんな顔をさせたくなかった鍵太郎は、事情を聞いてみたのである。
「……先生のお知り合いだそうですので、変な人ではないと思います。いや、変な人かもしれませんが、気のいい変な人だと思います」
「まあなんというか、否定はしませんが……」
その言いように、鍵太郎の頬から一筋の汗が流れちた。吹奏楽部は先輩たちを筆頭に、個性の強い面子ばかりだからだ。
気のいい変な人の集団である。音楽というものに触れると、なぜか個性が強化されるらしい。
「でも、だったらそんなに心配することないんじゃないですか?」
それはつまり、本町に近い考え方の人が来るということではないか。鍵太郎はそう言った。
たまに厳しくズバズバ言ってくるときもあるが、あの先生の指摘は的を射ている。本町は、悪い人ではない。
美里にもそれは分かっているはずだ。なのに、なにをそんなに悩んでいるのだろう。
「……余計な心配かもしれません。なので、湊くんは気にすることありませんよ」
美里は一人で納得して、悩みを飲み込もうとしていた。部活の音を全部を支える先輩は、その低音楽器の特性そのままに、なんでも自分で背負いこんでしまう。
それが鍵太郎は嫌だった。自分もその楽器を吹いている一員だというのに、隣で全部支えられてしまっているのが嫌だった。
この間、その荷物を一緒に持つと誓ったばかりなのに。これではまた頼りにならない後輩扱いだ。
いつまでも初心者じゃない。自分だって少しは成長している。
だから先輩、もっと俺を頼って。
もっと、俺を見て。
そんな思いに突き動かされるままに、声が出る。
「……先輩は少し前に、俺に言いましたよね。初心者だからって遠慮しないで、言いたいことは言っていいって」
それは鍵太郎が、初めてこのチューバという楽器を教わったときだ。
そのとき言われたことがある。全員の意思が乗った音が出て、はじめて音楽というのは作られる、と。
「『誰か一人が遠慮して自分の思ったことを言えないなんて、そんなのは一緒に吹いてるとは言えない』って」
「――あ」
思い出したように、美里が声を上げた。そう、これは彼女自身が鍵太郎に教えたことだ。
「今の先輩は、すごい遠慮してませんか? それは、変ですよ。一人で悩んで、それじゃつまらないって、先輩が言ってたじゃないですか」
「……むぅ。これは湊くんに一本取られました」
ぺしん、と美里が自分の額を叩いた。
自分の過ちを後輩に指摘されて、苦笑ながらも彼女に笑顔が戻る。そのことに少し安心した。
「先輩。……よかったら、なにが不安なのか話してもらえませんか?」
鍵太郎の言葉が呼び水となる。美里は「うーん、まあ、わたしの心配し過ぎなのかもしれませんが……」と前置きし、悩みを話してくれた。
「その外部講師の方が、厳しすぎる人でないかが、少し心配ですね」
「厳しすぎる、ですか?」
「はい。わたしが中学校のときに教わっていた先生が、そんな感じでした」
あの、美里の腹を殴ったというやつのことか。顔をしかめる後輩へと、美里は続けた。
「合奏以外のときは、普通の人なんですよ。むしろ気を遣ってくれる先生という感じで……。けど合奏になると、ものすごい怒鳴ったりするんです。殴ったり、叩いたり……落差がすごくて、最初はものすごい怖かったです」
「……本町先生が、そんな人に頼みますかね」
少なくとも鍵太郎が知る限り、あの顧問の先生が生徒に手をあげたことはない。そんなことを許すとも思えない。
疑問を浮かべる対して、美里は先ほど不安に思った言葉を並べた。
「本町先生は言っていました。『今年はもう一段階レベルを上げる』、『優しいだけじゃやっていけないときもある』と」
「……確かに少し、不安になるセリフですね」
今までとはやり方を変えて、厳しくする、きつい先生を頼む――ということを連想する。かつてそんな行いを受けた美里なら、なおさらだろう。
そう考えて呼ぶ先生なら、多少生徒に手をあげることも、本町は目をつぶるかもしれない。
「怒るのは、理由があるからです。音楽性に不備があって、それを人前で演奏するのは、いけないことです。無意識に出てしまうそんなほころびに気づくためには、そんな指導が必要だったかもしれません。ですが……」
「……また殴られるのは、嫌ですよね」
そんな恐さの下で吹いて、なんの楽しさがあるのだろう。またそんな指導が始まることを、美里は危惧しているのだ。
そう思って言った言葉は、他ならぬ美里自身に否定された。
「違います」
「……へ?」
予想外の返事に目が点になる。となれば美里は、なにが心配なのか。
彼女の答えは――鍵太郎の予想のはるか上をいっていた。
「わたしは、みんながそれについていけるかどうかが不安なんです」
「……」
こんなときまで。
人を気遣うか、普通?
絶句する鍵太郎に、美里は言う。
「わたしは、そういう指導には多少耐性があります。そりゃあ、怖いけど……先生がなにを言いたいかは、わかります。だから、大丈夫です。
けど、他の、特に高校から初心者で始めた子が、いきなりそんな先生に当たったら――」
なんだかわからにうちに怒られて。
殴られて、叩かれて。
辞めてしまうのではないか?
美里の中学のときの友人、夏見のように。
音楽が嫌いになった、と言って、いなくなった少女のように。
「この部の全員がそうだとは限りません。けど、何人かは確実にいなくなると思います。
残った人たちはいいですよ。中学のときもそうでした。でも部に残った人が、『あいつらはわからないから辞めてったんだ』って言ったとき――わたしはすごく、悲しくなったんです」
辞めていったかもしれない。
『たからもの』を投げ捨てていってしまったかもしれない。
でも、だからって――そんなことを言って、いいものだろうか。
居場所に踏みとどまった者なら、居なくなった者になにを言ってもいいのか。
心が折れて逃げた者は、なにを言われてもしょうがないのか。
「誰がいいとか悪いとか。そんな問題ではないんですよ。誰も悪くもないまま、なんのせいにしていいかもわからないまま、音楽に、果てのない表現に振り回されて、ここが――この部活が、空中分解してばらばらになってしまわないか。わたしはそれが、心配なんです」
ひたすら上を目指すのは、スペースシャトルを打ち上げるがごとく、燃え尽きていく作業だ。
不要な部品は剥がれ、地に落ち――空の果てには、届かない。
どんな声も、届かない。
「俺、は――」
鍵太郎だってそんな練習についていけるかと問われれば、正直、絶対大丈夫とまでは言い切れない。
美里はそれを心配しているのだ。
この、弟みたいに思っている、守らねばならない存在までもが。
部から去ってしまうのではないか――そんなことを。
「弟じゃ……ないです」
自分がなりたいものは、そんなもんじゃ、ない。
だから、もう一歩踏み出す。はるか先に行ってしまっている、先輩の元へ。
「先輩が思ってるほど、俺は――俺たちは、ヤワじゃないです」
「湊くん?」
「このあいだ、先輩たちが言ってました。『オレたちはどこにも行かない』って」
あのときのそう言えた三年生たちが、鍵太郎は心底羨ましかった。
傷ついた美里を勇気付けられる先輩たちが、羨ましかった。
だから怖くても――もう一歩。
「初心者で、この先なにがあるかわからないけど、俺だって、どこにも行かないです。俺だって――先輩と一緒にいたいんです」
「……湊くん」
「……はっ!?」
言ってから、今のがかなり際どい言葉だったことに気づいた。「あ、その、変な意味でじゃないですよ、これは――」と手をわたわたさせて美里に言う。
気づいてほしいような、でも気づかれたら気づかれたで、とても困るような。
鍵太郎にとって永遠とも取れる沈黙を挟んで、美里は言った。
「そう、ですね。部長のわたしがみんなを信じられないで、どうするんでしょうか」
「……」
気づいて、ない。
たぶん。
瞬間、どっと汗が出てきて、鍵太郎はイスにへたり込んだ。こんなんだから信頼されないんだ、と自分で自分が嫌になる。
「そうです。中学のときとは違います。高校なら、もう少し大人ですし――いざとなれば、わたしが先生とみんなの仲介役になれます」
「そう、ですね……」
「ありがとうございます、湊くん。あなたがわたしに気づかせてくれたんです」
「はは……それはよかったです」
――肝心なものだけが、伝わらないのはどういうことだ。
内心、そう思わないでもなかったが。少なくとも美里はやる気になったようだ。ヘタレの自分の、そこだけは褒められたところかもしれない。
美里は、真剣な顔でうなずいた。
「では、そうですね。本町先生とお話をしてみます。その人がどんな先生か、もっと詳しく聞いてみる必要があります」
「そのことなんですけど、先輩」
へたりこんだイスの上から、鍵太郎はへろへろと手を挙げた。
「その話、俺も隣で聞いてていいですか?」
###
「……なんで湊がいるんだ」
「えーと。本人たっての希望です」
音楽準備室にて。顧問の本町と、部長の美里と。
さらに鍵太郎が、その場に参加していた。
「俺のことは気にしないで、話を続けてください」
「……まあ、いいか」
本町は相変わらず、自分の机に両手を組んで座っている。眼光鋭く、雰囲気は厳しく――たまに見せる、悪の総統スタイルだった。
そのまま、美里に言う。
「――で? 結論は出たか春日」
「いえ、まだですが」
美里も、部長としてのしゃんとした立ち姿だ。
なにもないところでずっこける、いつものドジな先輩ではない。
「もう少し、詳しく話を聞きたいと思いまして。その人が、わたしたちがついていってもいい指導者なのか。いえ――」
美里はそこで、ちらりと鍵太郎を見た。すぐに視線を本町に戻す。
「わたしたちに――相応しい指導者なのか」
「……」
大きく出た。普段の美里からは考えられない強さだ。
全員を背負うと、こんなに強くなれるのか――鍵太郎は改めて、先輩のすごさを思い知った。
果たして本町は、なにを言うのか。鍵太郎と美里が固唾を呑んで待つ中、本町は口を開く。
「春日よ。おまえ、そんなこと言えるようになったんだな」
「……はあ」
予想外の言葉に、美里が首を傾げる。鍵太郎も同じようにしていたが、本町のくれた一瞥に固まった。
「んー、湊よ。おまえが春日にここまで言わせたのか?」
「そ、そうなん、ですかね……」
「ほー」
鍵太郎にホルンからチューバに楽器を換えろと言ったときよりさらに、本町はきつい圧迫感を出している。まさに蛇に睨まれた蛙のような心境だ。
返事をすると、本町は視線を外してくれた。だがその視線は、そのまま美里に向かう。
「春日。さっきおまえに言ったな。優しいだけじゃやっていけないことがあると」
「……はい」
本町の眼光が、美里を射抜く。
「あれは、おまえそのままのことだ。おまえは優しい。正直度を越して、優しすぎる」
人に気を遣い、心を砕いて。
あまりに人に――尽くしすぎる。
「それがまんま、おまえのプレイスタイルになっている。テンポを人に譲る。メロディーに合わせすぎる。他の楽器に引きずられて、おまえの意思は、どこにいった?」
ただの土台で、踏まれてるだけじゃ低音楽器じゃねえんだよ、と本町は言った。
「……」
美里は自分の無意識の行動を指摘されて、苦しそうな顔になった。
がんばれ、先輩がんばれ、と鍵太郎はそれだけを願う。
本町はそんな二人をじっと見ていた。
次はなにを言われるのか。そう構えていると――先生は、ふっと笑う。
「けどな――優しくなきゃ、音楽なんてやってらんねえんだよ」
「……え?」
突如軟化した雰囲気に、二人はぽかんとした。先生は、いったいなにを言いたいのか?
「優しくなきゃ、見ず知らずの他人に音を届けることなんざできねえよ。おまえのそれは特上のもんで――誰にも真似できねえすげえもんさ。ただ、今はちょっとばかり使い方を間違えてるだけだ」
「先生……」
「なーんか、変な心配してんな? 二人とも」
わかっていたろうに、人が悪くも笑って、顧問は言う。
「アタシが、このアタシが。大切な生徒を預けるのに、変なやつを選ぶと思ったのか? バーカめ」
『……』
これが大人の物言いだろうか。
ただ、言っていることは間違いではない。本町はニヤリと笑って、続けた。
「もう一段階レベルを上げるっていうのは、そういうことだよ――無意識におまえらが封じてるそのプレイスタイルを、ちっとばかりこじ開けることになる。
それはきついことかもしれんが、おまえらにとって重要なことだ。そんな繊細な問題を、とんでもないやつに預けてたまるか」
だから今度呼ぶそいつは、アタシが全幅の信頼を置いているやつだ。
おまえらをさらにもう一段階引き上げてくれる――うん、優しいやつだ。心配すんな。
本町はそう言って、立ち上がった。
「なんなら、会ってみるか?」
「え?」
「ちょうど今夜、そいつと打ち合わせすることになってたんだよ。そんなに気になるなら直接会って、話してみればいい」
鍵太郎と美里は顔を見合わせた。このときばかりは二人とも、完全に同じことを思っていた。
すなわち――
『行きます!』
「おっしゃ、んじゃ、部活終わったらもう一回アタシのとこまで来い。連れてってやる」
そう言って本町は、愉快そうに笑った。
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