第34話 リップクリーム

「ああ。そういうときは、リップクリームを使うんですよ」


 先輩の春日美里かすがみさとは、湊健太郎みなとけんたろうにそう言ってバックからリップクリームを取り出した。

 唇がカサカサする。

 吹奏楽部に入って楽器を吹くようになってから、鍵太郎はそう感じるようになっていた。

 鍵太郎の吹く金管楽器というのは、楽器についているマウスピースというところに口をつけ、唇を震わせることによって音を出す。

 唇は、身体の中でも皮の薄い部分だ。毎日楽器を吹いていたら荒れもする。そのままにしておけば皮が割れてしまう。

 そうなれば振動させるどころの話ではない。最近カサカサがひどくなってきた気がしたので、対処法を美里に訊いてみたのだ。

 その質問に対する答えが、先ほどのものである。

 楽器を吹いて少し赤く腫れた唇に、美里がリップクリームを塗っている。

 あまり気にしていなかったが、周りを見ればそうしている部員たちが結構いた。


「練習の後に塗っておけば、荒れ具合もだいぶ違いますよ」

「なるほど」


 日ごろのケアが大事ということのようだ。

 先輩はなにを使っているんだろうと、美里の手元を見てみる。


「これですか? 普通のリップクリームですよ。あ、でも買うときに気になったので、桃の匂いのするやつにしてみました」


 言われてみればふわりと、桃の香りがする。甘い匂いにくらりとした。

 ぽけーっと先輩の唇を見ていたら、いつものようにそれが笑みの形を作る。


「湊くんもひとつ買いましょう。安いものでいいんです。駅の近くにドラッグストアがありましたよね? そこで買えばいいと思います」


 学校から駅に行く途中に、チェーンのドラッグストアがある。なるほど、帰りにそこに寄ろうと鍵太郎が思ったとき、美里は聞き捨てならないセリフを口にした。



「わたしのを貸せればいいんでしょうけど、さすが抵抗があるでしょうし」



「気になりません!」


 むしろ塗ったくってほしいくらいです!

 先輩の唇に触れたそのリップクリーム、今すぐ俺に使わせてください!

 カッと目を見開いて、鍵太郎は心の中でそう絶叫した。


「いや、さすがに他人の使ったものですし、汚いですよ」


 美里はそう言って苦笑する。先輩には青少年の心の叫びが聞こえない。

 いやいやそんなことはないです、先輩そのリップクリームに今どれだけの価値があると思ってるんですか!?

 ほとばしる情熱。焼け焦げそうな理性。

 好きな人のリップクリームを目の前にすると、どうして人はこんなにも、狂うのだろうか――人類に与えられた永遠の謎だと、鍵太郎は思った。

 壮大に無意味な疑問を抱えている後輩に、美里は言う。


「うっかりしてました。もっと早くに言えばよかったですね、リップクリーム用意したほうがいいって。あーあ。こんなに荒れちゃって」


 少し皮のめくれた唇に、先輩の指が触れた。


「うん。今日の帰りに絶対、買いに行ってください。いいですね?」

「はい……」


 指の感触と先輩の笑顔に押し切られ、ぽやんとした口調でそう答えた。

 ガサガサした唇に、先輩の愛が沁みる。例えそれが自分の求めるものと少しずれていても、その瞬間鍵太郎は幸せを感じていた。

 傍から見てそれがどう見えるかはとりあえず、置いといて。



###



「は!? あんたリップ塗ってなかったの!?」


 音楽室から帰り際、同い年の千渡光莉せんどひかりが驚いた顔で言ってきた。彼女も金管楽器、トランペット奏者なのだ。


「あ、ほんとだ。カサカサじゃない」


 荒れた唇を見て、そう言われる。少し心配そうなその様子に、鍵太郎は苦笑して光莉に言った。


「これからその辺のドラッグストアで、なんか安いの買ってくるよ」

「まったく、これだから初心者は」


 中学からそれを吹いている光莉は、練習の後にリップクリームを塗るのが当たり前になっているらしい。

 既に塗ってあるのだろう。言われてみれば少し彼女の唇には、つやがあるように見えた。


「リップクリームくらい用意しておきなさいよ。金管楽器にとって、唇は命とも――」

「ねえねえ二人とも! なんか口がすごいカサカサするんだけど、これなんだと思う!?」

『おまえもかッ!?』


 会話に割り込んできた浅沼涼子に、思わず二人で突っ込んだ。

 涼子も金管の、トロンボーン奏者だ。鍵太郎と同じく初心者で入部してきた一年生で、ならばリップクリームのことを知らなくても当然だろう。

 ただ、女子なら吹奏楽部でなくても、一本持っててもおかしくないんじゃない? と鍵太郎は思うのだが。

 まあそこは彼と同じく、運動部より転向の涼子だ。内からはじけるような元気が、今までそれを必要としていなかったのだろう。

 彼女は鍵太郎と光莉を見て、首をかしげた。


「え? なに、二人ともそうなの?」

「いや、こいつだけよ涼子ちゃん」

「……涼子ちゃん?」


 光莉のセリフに鍵太郎は違和感を覚えた。この間まで彼女は涼子のことを、浅沼さんと苗字で呼んでいたはずだ。

 光莉は照れくさそうに、ぶっきらぼうに答える。


「……涼子ちゃんには、老人ホームの本番の前に、励ましてもらったでしょ。あれ以来、結構話すようになって……なんか、苗字で呼ぶのが変な気がしてきたのよ」

「千渡……」


 プライドが高く、人にきついことを言いがちな光莉が――こんな風に。

 そう思った鍵太郎は、軽く目頭を押さえた。


「よかったな千渡……トモダチ、できたんだな……」

「なんで泣きそうなのあんた!? ムカつく!?」


 こんな性格だから、鍵太郎がこの部に引っ張ってきたときは、馴染めるのかと心配になったものだ。

 なんとなく浮いていた彼女を、連れてきたものの責任として面倒を見ていたのだが――


「よかった……これで俺が構ってやらなくても、もう大丈夫だな」

「な!? なに言ってるのよあんた!?」

「もう一人でも、歩いていけるだろう……?」

「なに無駄にいい感じのセリフ吐いてんのよ!? べ、別にあんたなんかいなくても、平気なんだから!?」

「うん……成長したな千渡……」

「なんなのその保護者目線はっ!?」


 気持ち的には本当に保護者だ。隣で光莉がなにやら「保護者ならむしろ、私のほうじゃない。私がついてなきゃだめなのは、あ……あんたのほう、じゃない」とか納得いかないことを言っているが、そこは保護者としての寛大な心で許そうと思う。

 そんな風に彼女のことを温かい眼差しで見守っていたら、顔を赤くした光莉がいきなり腕を掴んできた。


「ほ、ほんとにもう、だめなんだから! ほら、行くわよ!」

「い、行くってどこへ!?」


 光莉に引きずられて、音楽室を出る。彼女はこちらを振り返って、猛然と叫んできた。


「あんた馬鹿なの!? リップクリーム買いに行くに決まってるでしょ!?」

「確かに行くけど、なんで俺が怒られなきゃいけないんだ!?」

「え!? なになに!? ま、いーか!」


 後ろから、涼子も事情を飲み込めないままついてきている。そのまま三人で校舎を出て、ドラッグストアに向かった。



###



 光莉は少し頭が冷えたのか、腕を離してくれた。ためらいながらも訊いてくる。


「……あのさ。こないだ言ってたことって、ほんとなの? あの……足の怪我の話」


 鍵太郎が野球を辞める原因になった、怪我の話だ。あまり口外する類の話ではないが、なりゆき上彼女には話してしまっている。

 「本当だよ」と言葉少なく肯定した。あまり多くを語りたい話ではない。

 勝利のために狂っていた自分の、痛い昔話だ。


「……そう」


 あまりつつく気もなかったのか、光莉もそれ以上は言ってこなかった。代わりに、光莉は違う話をしてくれる。


「なんかさ。意外とみんな……いろいろ思って楽器吹いてるんだね」

「あんまり考えてなさそうなやつも、後ろにいるけどな……」

「なになに? なんか難しい話してる?」


 涼子が後ろから二人に言ってくる。感性が豊かで、楽器を吹くセンスもある涼子だ。しかしたまにこう、「……馬鹿?」と言いたくなるような言動も多い。

 考えながら吹く鍵太郎や光莉とは対照的だ。本当は肩肘張らずに、こいつみたいに楽しめたらいいのになあ、なんて彼女を見ていると鍵太郎は思ったりする。


「難しい話じゃないさ。なんで楽器吹いてるんだろうって、そう思っただけ」

「難しい話じゃん!」


 涼子はびっくりしたように言ってきた。うん、やっぱり考えてなかったかこいつ。


「けど、おまえの場合はなんも考えてないのが、逆にいい気がするんだよな……」

「やっほう! 褒められた!」

「うん……馬鹿でいいなあ、おまえは……」


 なんだろう。最近重い話ばかりしていたせいか、心が和む。

 美里とは違う意味で癒される。そう思っていると、光莉が涼子に問いかけた。


「涼子ちゃんは、なんで楽器やることにしたの?」


 中学のときはその高い身長で、バレー部にいたという涼子だ。

 それがあればまたバレー部で活躍できたろうに。光莉でなくても疑問に思うところだろう。同じ運動部からの転向組として、鍵太郎もそこは興味があった。

 訊かれた涼子は、いつものように明確に答える。


「おもしろそうだったから。あの伸びる楽器が」


 トロンボーンの構造に興味を持ったらしい。そういえばこいつ、初めて会ったときも好奇心旺盛に周りを見てたな――と、初対面のときを思い出す。


「バレー部は? なんで入らなかったの?」

「あー。うん。なんかさ。身長だけでレギュラー獲ったって言われるのが、ちょっと嫌になってきてさ」

「羨ましい話だな……」


 小柄ゆえにこすい手段に走っていた野球部時代の鍵太郎とは、まるで逆だ。身長さえあればと思ったことは、数知れない。


「どんだけがんばってもさ。そう言われちゃったらなんか虚しくなっちゃったっていうか。ああ、もういいかなあって思っちゃったんだ」

「……大きいやつには大きいやつなりの、悩みがあるもんなんだな」


 最近ようやく、そう思えるようになってきた。

 あれは身体が大きいとか小さいとかの問題ではなく、それで本人がどう思うかの問題だったのかもしれない、と。

 涼子はあまりその辺は考えていなさそうだが――それでも、目を輝かせて言う。


「だからさ、高校はなんか違うことやりたくて。そしたら、なんかおもしろいことやってる人たちがいるじゃん? これやろう!! って思ったんだ」


 そんだけだよ。涼子はそう言って、ニッと笑った。


「意外におまえも苦労してたんだな、浅沼……」

「いやあ、照れるなあ」

「褒めてないんだけどね……」


 相変わらずのアホの子で、和む。

 そんな風にしているうちに、三人はドラッグストアの前にやってきていた。



###



「色々あるもんなんだな」


 リップクリームが陳列された棚の前で、鍵太郎はつぶやいた。

 これまでリップクリームなんて自分で買ったことはない。だから光莉と涼子がいるのは、実は結構ありがたかったりするのだ。どれがいいのか訊いてみる。


「別に安いのでいいんだよな。これなんかどうなんだ?」


 二個セットで安くなっているものを手に取る。どこにでもある、よく見かける緑色のリップクリームだ。


「浅沼の分もこれにしてさ。二人で割り勘にすれば安く済むし」

「わーい。湊とお揃いだ」

「ちょ……お揃いとか!」


 そう言いかけた光莉は咳払いして、その二個セットにしてはいけない理由を滔々と説明し始める。


「それって、スースーするやつでしょ。練習の後は口の皮が薄くなってるから、あんまり刺激のありそうなのはダメよ。安いからって騙されないで。その二個セットは資本主義の罠よ」

「……そうか?」


 そこまで言うなら、これはやめておこう。棚に戻して、他のものを物色する。


「じゃあこの、青いやつ。刺激が少ないって書いてあるし、値段も普通だし。こんなもんかな?」

「まあ、いいんじゃないそれで」

「これにするか」


 その商品を手に取る。容器の色は青だし、無香料だ。これなら別に、男子部員としても違和感がない。ともかく口が保護できればいいわけで、それ以外は別になんでもいい。


「浅沼は、どれにする?」

「あたしはそうだなー。これかな」


 涼子は鍵太郎が選んだものの隣に置いてある、黄色のリップクリームを指差した。シリーズが同じで、こちらははちみつの香りがついているというものだ。価格も同じで、性能も大差ないだろう。鍵太郎はうなずいた。


「いいんじゃないかそれで」

「け、結局お揃いなのね……」


 なぜか光莉が引きつった顔をしてこちらを見ている。ややあって視線を棚に動かした彼女は、ボソリとつぶやいた。


「……私も、新しいの買おうかなー」


 光莉はちらりちらりとこちらを伺いながら、口笛でも吹きそうな感じで棚に手を伸ばした。手に取ったのは、今二人が選んだものと同じシリーズの、こちらは赤い色のものだ。サクランボの香り、と書いてある。


「別に? 今使ってるのがそろそろなくなるだけだし? 新しいの買わなきゃーって思ってたとこだし?」

「なんでもいいから早く買おうぜ」

「うんうん。はちみつの匂い嗅いでみたい」

「この二人、意外と気が合うのが納得いかないところよね……」


 三人でぞろぞろとレジに向かう。会計を済ませてドラッグストアの駐車場でそれぞれ、リップクリームの包みを開けた。


「はちみつ」


 嬉しそうに涼子が口にそれを塗る。鍵太郎と同じくガサガサだった彼女の唇に、少しだけ潤いが戻った。

 鍵太郎も塗ってみた。あまりつけすぎてベタベタするのも嫌だったため、薄めに滑らせる。これで少しはマシになるだろうと思う。


「うむ。これから楽器を吹いた後は、毎回それを塗るように!」


 光莉はもう塗った後だろうに、今買ったものをさらに上塗りしていた。「ちょ、ちょっとサクランボの香りに興味があっただけよ、悪い!?」と、訊いてもいないのになぜかそう言われた。


「私たち金管楽器は、唇が命! ガサガサ唇なんてもってのほかよ」

「まあ、口切れるのも嫌だもんな……」

「あれ?」


 涼子がきょとんと鍵太郎と光莉をを見た。


「最近口が荒れてたのって、楽器のせいだったの?」

『気づいてなかったこいつ!?』


 二人は愕然として、涼子を見返した。


「いやあ、ずーっと、なんでリップ買いに行くんだろうって思っててさ」


 いつものように照れたように頭をかいた涼子は、二人に笑って言った。


「でも、よかったね! みんなでお揃いのやつ買えてさ!」

『ぐ……っ』


 真っ直ぐな笑顔でそう言われ、二人とも突っ込みを封じられる。

 そんな二人の前で、好奇心旺盛なトロンボーン吹きは楽しそうに笑った。

 はちみつの香りのする、少しだけ潤った唇で。

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