第5幕 コンクールって何ですか
第33話 戦う理由
大会でやる曲の、楽譜が届いた。
吹奏楽コンクール、という大会が夏にある。それで吹奏楽部は上位入賞、県代表、マンガの世界では日本一まで目指すわけだが。
初心者の
けど、今は知りたいと思っているのだ。
戦う理由を見つけるために。
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「……難しい!」
その曲――『シンフォニア・ノビリッシマ』という曲の譜面を渡されて、鍵太郎はうなった。
まず、一発目からしてありえない高さに音符が書いてある。
先日は老人ホームで演奏会をやったが、そのときはこんなに高い音は出てこなかった。今の鍵太郎に、まずこの音は出せない。
そして楽譜の先にはこれまた細かい動きが入り、楽譜が黒く染まっている。小回りの利かない大きな楽器、低音楽器のチューバとしては、「できるかこんなもん!」とテーブルをひっくり返したくなる内容だ。
「あはは。なにごともチャレンジですよ湊くん」
隣の席にいる先輩、同じ楽器をやっている
「正直これは、わたしでも難しい曲ですもん。そう思うのは当然です」
「先輩に難しいって言われたら、俺はどうすればいいんですか……」
「がんばってくださいー」
「意外にスパルタですよね先輩って!?」
のんびりした笑顔で千尋の谷に突き落とされた。ただ美里のいいところというか悪いところというか、彼女はそこで登攀のためのロープだけは下ろしてくれるのだ。
「大丈夫ですよ。わたしがわかるところはちゃんと教えますし。なんだか先生も、秘密強化計画があると言ってましたし」
「秘密強化計画?」
あの、たまに悪の総統みたいな雰囲気を出す顧問にそう言われると、嫌な予感しかしない。
「わたしも詳しくは聞いていないのです。なんなんでしょうね?」
部長である美里にも言っていないということは、本格的に秘密裏に話が進んでいる。あの教師、いったいなにを企んでいるのだろうか。
「まあそれはともかく、これからコンクールに向けてこの曲をやり込んでいくことになります。あと数ヶ月、おつきあいいただければ幸いです」
「そのことなんですけど、先輩」
鍵太郎はかねてから疑問だったことを、美里に訊いた。
「吹奏楽コンクールって、なんですか?」
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同じ質問をクラスメイトの
「……まあ、あんた楽器始めたばっかりだもんね。いいわ。教えてあげる」
中学のとき吹奏楽の強豪校にいた光莉は、たまにこうして癇に障る言い方をするときがある。
最初に比べればそのトンガリが丸くなってきたものの、やはりすぐには治らないらしい。
「吹奏楽コンクール。全国の吹奏楽をやっている団体が腕を競い合う、いわば吹奏楽の甲子園ね。野球をやってたあんたなら、これでなんとなくわかるでしょ?」
「わかる」
鍵太郎は小中と野球をやっていた。中学三年で足を怪我して辞めざるを得なかったとはいえ、その考え方は身に染み付いている。
「野球の勝ち負けは点数で決まるけど、そのコンクールはどうなんだ?」
「同じ。得点制」
五、六人程度の審査員が各校の演奏を聞いて、それぞれ二十点の持ち点から点数をつける。その総合得点で順位が決まる。
上位団体のいくつかが金賞、その金賞の中で点数が高いチームが、上の大会への出場権をもらえる。
本番一発勝負の勝ち抜き戦。
県大会予選に始まり、県大会、支部大会(鍵太郎たちは東関東大会)、その先がはるか天上、全国大会、となる。
日本一の高校を決める、吹奏楽の甲子園。
文化部でありながら熱い戦いを繰り広げる、ひと夏の青春の場。
しかしながら鍵太郎は、それをどうしても一歩引いた目線で見てしまう。
他の部活から転向してきた、初心者の目線で。
一度戦いの場から脱落した者として。
戦いのルールそのものに、疑問を感じる。
「音楽に得点ってつけられるのか?」
前衛的な芸術作品に目が飛び出るような値段がついても、鍵太郎にはその価値がわからない。
同じように、先日の富士見が丘高校の演奏会を点数で評価しろと言われたら、とても困ってしまう。
つけたら逆に失礼ではないかと――価値に変えられないものがあるのではないかと、そう思ってしまうのだ。
そう言われた光莉は、渋い顔をして言った。
「つけられるのよ。審査員たちは、みんな音楽のプロよ。不正も行われないようにシステムも組まれてる。客観的な目線で、初見で演奏を聞いて、点数をつけるのよ」
審査員の持ち点二十点のうち、十点は技術点、もう十点は芸術点だ。
その言葉では表せない表現の部分は、芸術点でカバーするのだという。
「だってそうでもしなくちゃ、誰が一番かなんて決めようがないでしょ」
「そうじゃなくて。そうじゃなくて……」
もどかしいぐらい伝わらない。
誰が一番だとか。
それを決めようとしたから、おまえは楽器を辞めそうになって、あの夏見という人はいなくなってしまったんじゃないのか?
強豪校と言われる吹奏楽部を、「音楽が嫌いになった」と言って去ってしまったひとりの少女。
夏見の影は、鍵太郎にひとつの決断を下させていた。
「競争がよくないってこと? それこそナンセンスね。いくらあんたでも、演奏の上手い下手くらいは分かるようになってきたでしょ? 例えば
それは、わかる。
客席で圧倒的な力の差は味わった。
「あれは競争の中で、彼らが腕を磨いてきたからこそよ。目指すものが元から違う。『勝つための音楽』。金賞を取るっていう大きな目標があるからがんばれるの。
点数は、がんばった結果を客観的に表した指標。その点数を並べて、実力をランク付けしていく。がんばれば金賞をもらえる。銀賞だったら、次にどうすればいいか考えればいい。そうじゃなきゃ、努力したって報われなきゃ、みんなやる気にならないでしょ?」
技術向上。
勝つための練習。
光莉の言うことは、嫌になるくらい正論だった。
みんな並んでゴールテープを切るなんていうのには、鍵太郎だって違和感を覚える。
努力したら、報われたい。
評価されたい。
そうじゃなければ、それは単なる自己満足だ。
がんばろう。そうしたら、認めてもらえる。
けど――それは、なんのために?
「そこなんだ」
戦う理由を履き違えれば。
自分はまた、間違うことになる。
最後の最後で間違いを突きつけられて、心を折ることになる。
夏見のように。
「俺はもう、あのときみたいな思いはしたくないんだ」
「あのときって……あんたが足を怪我したっていう、あれ?」
「そう」
中学三年の、野球の練習試合にて。
一塁から二塁への盗塁をした鍵太郎は、右足に怪我をした。
いや、正確にはそうじゃない。
「怪我したんじゃない」
完治したと言われながら、なぜかまだ痛む怪我の理由に。
最近になって、ようやく気付いた。
「怪我、させられたんだ」
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「――させられ、た?」
美里はそのセリフに、眉をひそめた。
「今まで他の人に言ったことはありませんでした。野球部の友達にも。だってこれは俺の問題だって、ずっと思ってたから」
けど、もう自分だけの問題ではない気がしてきたのだ。
がむしゃらに勝利を求めて、破滅する。
それを今回もやってしまえば、先輩をまた泣かせてしまうから。
そんな美里をもう、二度と見たくなかった。
「練習試合をやっていました。当時俺は足と小技で相手に揺さぶりをかける選手で、そのときも盗塁を狙っていました」
ここまではいい。
問題だったのは、その時の思想だ。
勝ちだけにしか興味のなかった、鍵太郎の思想だ。
「俺は小柄だから、そんな戦い方しかできなかった。そうじゃなきゃ、身体の大きいやつに敵わなかった」
小兵が大きな敵を倒す。ざまあみろ、と言いたくなるようなそんな勝ち方に酔っていたのだろう。
「だから色々やってました。投げるのが嫌になるようなファウルでカットするバッティング。守備妨害に近い走塁。挙げ句の果てに、サイン盗み」
そうじゃなきゃ、勝てなかった。
ずるかろうがなんだろうが、勝てばよかった。
ルールスレスレの行為を、平然と行ってきた。
そうじゃなきゃ、勝てなかったから。
「だから俺、対戦相手には結構評判悪かったと思います。あいつは汚いって、噂にはなってたかもしれません。でも、別にそんなことはどうでもよかった」
勝てればよかった。
だから、なんだというのだ、とまで思っていた。
得点さえ取れれば、なんでもよかった。
だからだ。
「そんな噂のせいだったのか、対戦相手は、俺の足を潰しにきました」
「……!」
美里が息を呑んだ。
鍵太郎は不安になった。これは、自分が一番見られたくなかった、最も暗い部分だ。
ひょっとしたら、嫌われてしまうかもしれないという思いが、彼の口をつぐませる。
けどたぶん――わかってくれるんじゃないか、という期待も同じくらいあった。
この部活の音、全部を支える
広い心で、全部を受け入れてくれると。
隣でそれを見てきた鍵太郎は、そう思っていた。
これを告白をする代わりに、あなたの隣で一緒にそれを支えることができたら。
それがきっと戦う理由なんだと、思うことができそうだったから。
だから、続ける。
「走塁して二塁スライディングしたとき、相手の選手はベースではなく、俺の足を思い切り踏み砕きました」
「そんな、ひどい……」
美里は同情してくれた。やっぱり優しい人だ。嬉しかった。
この事件の最奥を――話すことができる。
「そのときその相手の顔は――笑ってました」
「……」
言葉も、なかった。
美里は顔を青ざめさせて、鍵太郎の言葉を聞いていた。
「よくわかりました。こんなことをやっていたら、もっと汚いやつに潰されるんだって。
おまえは間違ってるんだって言われたみたいで――痛み入りました」
その選手も、鍵太郎がここまでの重傷を負うとは思っていなかったらしい。
後に家まで謝りに来たその選手の、事の重大さに怯えた様子を見て――鍵太郎は、戦う理由を見失った。
なんのために戦っていたのか、わからなくなった。
怒りが湧かなかった。
むしろ、哀れにすら感じた。
自分があそこまでこだわっていた勝利とは、なんだったのか。
わからなくてずっと――松葉杖をついて、グラウンドの片隅でぼんやりしていた。
楽しそうに野球をやる、友達の姿を見ていた。
乗り越えられなくて、治った足は、痛みだけが残った。
「だから今回は、そうなりたくないんです。コンクールが勝つための場所だっていうんなら、俺はまた、戦う理由を探さなくちゃいけない。そうじゃなきゃ、俺はまた、おかしくなる。勝つためにいろんな手段を使って、その結果心を折って」
先輩を泣かせる。
『たからもの』を投げ捨てて、どこか遠くへ――。
「だから、教えてほしいんです。吹奏楽コンクールって、なんですか?」
金賞を取ろう。
全国に行こう。
みなが軽々しく言うその言葉は、どこから来ているのか。
わからなくて、勘違いしそうだったから。
自分が今やろうとしていることの、本質を知りたかった。
もう一度、同じ過ちを繰り返さないように。
自分が今どこに立っていて――どこへ向かおうとしているのか、自覚しておきたかった。
先輩はなんのために戦っているのか、理由を知りたかった。
果たして美里は、なにを言うのか。鍵太郎は語り終え、先輩のことをじっと見た。
美里は後輩の突然の告白に、困惑した様子で口を閉ざしている。
彼がなにを言いたいのか咀嚼して、考えて、そして――
「……コンクールは確かに、戦いの場です」
「……」
大丈夫。これは前置きだ。
鍵太郎は黙って、次の言葉を待つ。
「金、銀、銅賞は決まります。そうでなければ、逆に公正ではありません。それを取るためにがんばるのも、間違いではありません。ただし――それはあくまで、後からついてくる結果です」
「後、から」
「そうです」
美里自身も考えながら言っているのか、その言葉はたどたどしかった。
「わたしは――わたしの、家族は、そんなもので評価はされません。他人から見て点数はつけられても、わたしには、それ以上の価値があると思っています。いいえ、価値とかそういう、そんなものじゃなくて。わたしは」
頭を振って、言う。
「わたしの家族は――すごいんだぞ、って、舞台の上でみんなに自慢したいんです」
点数ではなく。
価値でもなく。
ただ幼くも、その『たからもの』を。
見せびらかしたいだけ。
「すごいんですよ、うちの
結果なんてどうでもいい、とは言えないけど。
少なくとも、この家族のことだけは認めてもらいたい。
すごいね、って言って、もらいたい。
大会に出ることに疑問を挟む後輩なんて、普通はいないだろう。
競い合うのは「当たり前」で、点数がつくのも「当たり前」。
けど、その奥にある大切な『たからもの』を。
先輩はなによりも、大切にしている。
「えっと。ええっと――あのですね。ん、んうー? ぅう。なんだか、うまく言えません……」
考えたこともないような鍵太郎の問いを、美里は精一杯考えて、答えてくれた。
それで、十分だった。
先輩を困らせてしまったことを恥じて、鍵太郎は「先輩、もう大丈夫です」と美里に言った。
そう。もう大丈夫。
戦う理由が、ようやくできた。
「
うちの部長は――
誰よりも優しいんだぞ、って。
「ホールに集まってる人全員に、言ってやりますよ」
この人が大切にしているものを。
一緒に持って、響かせるだけ。
それが他人に受け入れられたら――きっと、最高だ。
「俺、がんばります。難しい曲だけど、やってみせます」
後輩に言われて、それ以上言葉が出てこず思い悩んでいた美里は、きょとんとした。
「……えーと? こんな、感じでいいんでしょうか? なんかこう、もっと先輩としてちゃんとした答えを……」
「あはは。先輩は十分先輩ですよ」
美里らしくて、先輩らしくて。
大好きな、そんな人だ。
まだ不思議そうに自分を見ているその人へ、鍵太郎は笑って言う。
「じゃあさっそく――練習しますか。先輩この高い音、どうやったら出ます?」
「……え? あ、ええっと、高い音を出すにはですね――」
後輩のやる気に動かされる形で、美里はいつものように、鍵太郎に音楽について教えてくれた。
自分が後輩に与えたものの。その『たからもの』の価値を、自らは知らぬまま。
コンクールまで、あと三ヶ月。
かつて足と心を折った少年は、大好きな人と一緒に、また走ることを決めた。
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