第32話 シング・シング・シング
お祭りでよくある、ぱきりと折ると蛍光色の光を発するあれだ。それは先ほど、このホールで配られたものだった。
他校の吹奏楽部の演奏会。自分たちの何十倍も観客を集めたそのイベントは、大盛況のまま幕を閉じた。
初めて来た演奏会というものに、鍵太郎はただただ圧倒されていた。演奏もさることながら、このライトを使った演出や、音楽に合わせた動きなど、ほとんどエンターテイメントの域に達している。これで本当に五百円でいいのかと思ってしまう。
ケミカルライトをカバンの中にしまった。光の入らないカバンの中で、その水色だけがはっきりと光っている。
「あ、わたし友達に挨拶してきますね」
隣にいた部長の
少し迷ったが、美里についていく。
彼女の中学時代の友人が、この学校の吹奏楽部に入っていると聞いていた。美里と同じ歳なら、三年生だ。
お互い最後の大会に向けてがんばろう、とか、そんな話をするのだろう。
その友人を、
「今年もすごかったです、富士見が丘高校の演奏会! いいなあ、うちの学校もこんなことができるようになりたいです!」
「……そう。ありがとう、美里」
興奮気味の美里に対して、夏見は本番の疲れからか、声に張りがない。
そんな友人の様子に気付いたのか、美里は気遣うように、「おつかれさまです」と言った。夏見はそれに苦笑――したのだろうか。舞台からのライトが陰になって、よく表情が見えない。
「演奏会が終わったので、そちらはもう、コンクールに向けて一直線ですか? 課題曲もお見事でしたし、日にちは違いますが、お互いがんばりましょうね!」
「……そのことなんだけどさ、美里」
暗い声音に、鍵太郎はぞわりとした。
なにか、嫌な予感がする。
あの、夏見の纏う雰囲気は――まずい。
昔の自分があんな感じだった気がする。試合で足を砕き、松葉杖をついてグラウンドを見ていた、あのときの自分に。
友人からひどく心配された、あのときの鍵太郎は――
「美里。ごめんね」
夏見の声が聞こえる。聞こえるのに、まだ鍵太郎は近くに辿りつけない。
ホールから去ろうとする人ごみが邪魔で、美里の近くにいてやれない。
「私、コンクール出ないんだ」
「――え?」
呆けたような、先輩の声。こちらには背を向けているため、表情はわからない。
「私、この演奏会で一足早く、引退する」
夏見の言葉が止められないのは、鍵太郎は、よくわかっている。
だからせめて――美里の隣で。これから彼女が聞くに堪えない、そんな言葉を聞いても、隣で先輩を支えてあげられるように。
近くに。
人を掻き分けて進む鍵太郎の耳に、夏見の空虚な声が聞こえた。
「ごめんね美里。私、音楽が嫌いになっちゃった」
舞台から降り注ぐスポットライトが、夏見の顔に真っ黒い影を作っていた。
###
とぼとぼとロビーを歩く美里の隣を、鍵太郎は歩いていた。
「夏見は……すごい子でした」
ぽつり、ぽつりと先輩は言う。
「中学校のときの厳しい練習も、がんばって一緒に乗り越えて……。富士見が丘高校の吹奏楽部に入って、すごい演奏をするんだって、卒業のときは言ってました。なのに、なんで……」
――音楽が、嫌いになっちゃった。
「
大切にしていた『たからもの』を投げ捨てて、どこか遠くに行ってしまう――別れの言葉。
夏見は最悪の形で、美里に別れを告げた。
「心が、折れたんですよ」
かつては自分もそうであったろう、
「なにがあったかは想像するしかありませんけど――つらかったんでしょうね。弾いても弾いても、どうにもならなくなって」
心を、病んだ。
舞台の上で精一杯笑い、観客を楽しませるパフォーマンスをし、魔法のような光の中にいた彼女の。
これが、舞台裏。
「強豪校で脱落する人間がいるのは、よく聞く話です。まして彼女はそれがわかってて、富士見が丘に行っている。そこはもう、自己責任です。……だから、先輩が気に病むことはありません」
最後の一言がなければ、鍵太郎は光莉に怒鳴ってしまいそうだった。「おまえだってああなるかもしれなかったんだろ」と。
光莉も楽器を捨てそうになるくらい苦しんでいた。鍵太郎の言葉もあって、ギリギリのところで彼女は踏みとどまったが――夏見は、そうではなかった。
脱落。
その言葉が、鍵太郎の頭の中にこだまする。
どうしても考えてしまう。
彼女はどうして、音楽を嫌いになってしまったのだろう。
自分が好きになり始めたこれを――夏見はなぜ、投げ捨ててしまったのだろう。
具体的な引き金はわからなくても、理由だけなら、鍵太郎にはなんとなくわかる。
「……戦う理由が、わからなくなったんだ」
なんのために歌うのか。なんのために吹くのか。
なんのために、音を出すのか――わからなくなった。
心が、折れた。
かつての自分と、同じだ。久しぶりに右足がずきりと痛む。
ただひたすら次に向かって、足だけでなく心も折った、あのときの怪我。
勝ちだけを狙って走り続けていた、あのとき。
でも、今は違う。
それは美里が教えてくれたことだ。
「俺は――好きですよ。楽器吹くの」
美里に向かって、鍵太郎は言った。
大げさでもなんでもない。先輩を元気付けるための嘘でもない。
本当に、まじりっけない、本音の言葉だ。
「初心者で、ヘタクソで、今日みたいな演奏なんて全然できないですけど」
それでも、俺は好きですよ。
みんなが大好きだ、っていう先輩が、大好きですよ。
「だから先輩、泣かないで」
歩きながら泣いている美里に、鍵太郎はそう言った。
ぼろぼろとこぼれ続ける涙をぬぐって、美里はうなずいた。
###
家に帰ってカバンを開けると、演奏会でもらった水色のライトが見える。
それは本番中と変わらない光を放っていて、周囲を照らし出していた。カバンから出して、机の上に置いて寝る。
朝起きたらもう、それはただのビニールの輪っかになっていた。
水色の光の中、笑顔で去っていったはずの女の子の顔が、思い出せない。
魔法は、解けてしまった。
###
「暗ぇ」
音楽室で、打楽器の
鍵太郎と美里を半眼で見て、そこだけ沈んだ空気を感じ取ったらしい。
彼はドラムをドンドンと叩きながら、二人に向かって言う。
「お通夜か。暗いわ。だいたいの事情は聞いたけど、おまえら落ち込みすぎだろ。ていうか、なんで直接関係ない湊まで沈んでやがる」
「いや、なんか……」
あまりに華々しかった舞台と、影の部分の落差が激しすぎてしまって。
その明暗についていけなくて、少し疲れてしまっている。
「だから言ったろうよ。規模がでかすぎて参考にならないって」
演奏会前に、聡司は確かにそう言っていた。あれは勉強になるというより、純粋に楽しむべきものなのだと。
観客が見るべきなのは光の部分だけであって、舞台裏なんて本来、見なくてもいいところだ。
自分たちの舞台で落ち込む人がいるなど、富士見が丘高校の人間が見たら発狂しかねない。
夏見も、それは望んでいない、はずだ。
「だーっ!! もう! 湿気てんだよ、この空気は! ホレ! 春日!」
聡司が知らないリズムを叩き出した。規則正しく叩かれる低いビートに、美里がピクリと反応する。
「お。『シング・シング・シング』だ。懐かしいね」
トランペットの三年生、
「えーっと、去年の学校祭の譜面ならこの辺に……あった!」と、楽譜を引っ張り出す。なにやら、去年やった曲らしい。
「お。やるか」
トロンボーンの
「フッフー。ジャズをやるならサックスは必須でしょ」
サックスの
それがどんどん広がって、気がついたら合奏になっていることもある。
頭数が揃ったところで、聡司がカウントを始めた。早い。けれど、淀みない。
基本ビートを聡司が刻み続ける中で、奏恵と陸の直管コンビが吹き始めた。楽譜がないというのに、陸の動きは迷いがない。覚えているというのは本当らしい。
奏恵の音はいつもにも増して荒々しかった。先日の演奏会で聴いた音とは違う、濁音混じりの吹き方。けれども、曲の雰囲気にぴったりで――粗野ながらもカッコイイ。力強い音だった。
慶の旋律が始まる。流麗に始まるそれに、陸と奏恵が合いの手を入れる。聡司は安定してずっとリズムを刻み続けている。
「ホレ、春日。ベースが足りねえぞ」
言われた美里は、弾かれたようにファイルを漁りだした。鍵太郎と美里のやる楽器は、低音楽器のチューバだ。
ここでベースを入れないで、なにがジャズか。目当ての譜面を探し出した美里は、大急ぎで楽器を持ちライブ合奏に参加した。低音が加わって、安定感がぐっと増す。
聡司が笑った。「そう来なくっちゃな!」と言い、他の三人も楽器を吹いているため言葉はないが、それぞれ口の端を吊り上げたり、音を大きくしたりして歓迎している。
そう、ただひたすらに、
悲しかろうが苦しかろうが、全部詰め込んで。突き動かされるように演奏し続ける、
変わらぬ思いを刻み込むように、音を出し続ける。なにがあっても、ずっと。
曲が終わっても、しばらく笑いは止まなかった。
「いやー。吹いた吹いた。やっぱり楽器吹くとすっきりするねえ」
奏恵が晴れ晴れとした顔で言った。最後はキュー、というか、ピー、みたいな高音を出していた。トランペットってあんな音が出るのかと、鍵太郎は驚く。
「なにがあったかは知らんが、とりあえず吹いとけば全部解決する。問題ない」
「お上品な演奏会もいいですが、こんな風にワイルドにやるのもワタシ好みですよん。ウフフ、やっぱりジャズはいいですね。サックス目立つし」
「……ま、そんなとこだ。オレらはどこにも行かねえから、心配すんなよ春日」
少し照れたように斜に笑う聡司。それに、「おまえが言うな!」と女子部員からの突っ込みが入った。
「一回辞めそうになったくせに!」
「どの口が言うか、この口か!」
「かっこつけんな、相変わらずキモいぞ!」
「なにこれ!? いいこと言ったつもりなのになんでオレ怒られてんの!?」
全員から罵倒される先輩に、鍵太郎は訊く。
「……先輩、辞めようとしたことがあったんですか?」
「オレだって色々あったんだよ。大丈夫だよ、今はそんなこと毛ほども思ってねえ」
自分の知らない物語を、先輩たちは共有している。
それが鍵太郎にとっては寂しくもあり、羨ましくもあった。
「みんな……ありがとう」
美里は調子を取り戻してきたようだ。まだ少しその笑顔には曇りがあったが、それはこれから自分が一緒に晴らしていけばいい。
自分も、この人とこれから、物語を作っていけばいい。
隣にいる大好きな先輩は、それを望んでいる。
「さて、そろそろコンクールの楽譜も届きます。わたしたちはわたしたちで、それの練習をがんばりましょう!」
『おーう!』
部長の号令に、部員たちの返事が響いた。どんな上手な学校を聴いても、自分たちの音の本質は変わらない。
川連第二高校吹奏楽部は、今日も変わらず平常運転で――疾走し続けていた。
第4幕 他所の学校は、何してる?〜了
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