第31話 水色の魔法

 演奏会なんて、自分には縁がないものだと思っていた。

 吹奏楽部に入って楽器を吹くようになってからも、それは同じで――なんだか気取ってて、恥ずかしくないのだろうか、という思いは抜けない。

 でも、先輩が行こうというなら、きっとそれはいいことで。

 だからみんなで電車に乗って、こうしていち観客としてここに来ている。



###



 湊鍵太郎みなとけんたろうは進んでいく行列の流れに乗って、ゆっくりと歩いていた。

 隣には吹奏楽部の部長、春日美里かすがみさと。鍵太郎と同じ楽器の先輩で、二つ上の三年生。

 のんびりとした雰囲気とロングスカートが似合う、優しい先輩だ。

 それに勉強熱心でもある。今日の川連第二高校吹奏楽部は、美里に連れられて他校の演奏会にやってきていた。

 このあいだ鍵太郎たちは、部の行事として老人ホームへの慰問演奏を行ったばかりだ。そのときの観客は三十人程度。

 対してこの、富士見が丘高校というところの演奏会は、並んでいる人数だけでもそれを軽く超えている。

 会場となるホールには千人以上入るというのだから、規模の違いは一目瞭然だった。

 県下トップレベルの高校だと、こうも違うものなのか。会場に吸い込まれていく人たちを見ながら、鍵太郎はそう思っていた。

 単純に数だけで比べるものではないだろうけど、たくさんの人たちを集められるというのは、やはりそれだけですごいことだ。

 初めての演奏会に複雑な心境ながらも、並んでいる今となっては楽しみな気持ちの方が強い。入り口でパンフレットを受け取って、ごった返すロビーを美里とはぐれないように歩いていく。

 扉を開けてホールに入れば――そこにはテレビでしか見たことのない広い観客席と、光に照らされた舞台があった。


「うわー……」


 天井が高い。二階席まである。鍵太郎たちはそのまま観客席の右側、上手側に座った。

 部内のみなが、そこに座ったはずだったが――


「春日先輩、サックスのみんながいません」

「……けいちゃんまで」


 人で埋め尽くされたロビーで、サックスパートがはぐれてしまったらしい。遅刻して来る三年生もおり、決して一丸とはいえないこの部活をまとめる美里は、額を押さえて「まあ……どこかで聴いてるでしょう」と捜索を放棄した。


「わたしは先生に頼まれた差し入れを、受付に出してきますので。みなさんはここにいてください。あ、トイレ行くなら今のうちですよ」


 そう言って、美里は紙袋を提げロビーに向かおうとする。しかしそのまま階段につまずいて転び、「へぶっ!」と声を上げた。


「い、いたいですー……」


 ロングスカートが大胆にめくりあがっている。黒ストッキングに覆われた脚を見ないようにしながら、鍵太郎は先輩を助け起こした。


「す、すみません。わたしったらどうもドジで……」

「いや、大丈夫です」


 これがいつもの制服姿だったら、公共の場で大惨事を起こすところだった。初めて会ったときも、美里は鍵太郎とぶつかって転んでいる。「きっと縞パンだ」というそのとき一緒にいた友人の声が、脳内で蘇った。あいつ俺の記憶に余計な単語を刻みやがって。後で覚えてろ。

 開演までは、まだしばらく時間がある。鍵太郎は席に座り、舞台やパンフレットを見て時間を潰すことにした。

 隣に座るちょっとぽっちゃりしたユーフォニウム担当の先輩が、舞台を見て感嘆の声をあげる。


「何人いるんだろ……すごいね」


 舞台には、所狭しとイスや譜面台が置かれている。五十脚はあるだろうか。鍵太郎たちの部活の、二倍近くの人数だ。


「こういう強豪校だから、この部目当てに入学する子もいるんだよね。だから実際の部員数はもっと多いよ」

「何人くらい?」

「……百人くらい?」

「分けてもらいたい!!」


 口々に部員たちが喋りだす。こんなのが百人もいたら、まとめる部長は大変だろうなあ、と鍵太郎は心の中で思った。その部長はまだだろうか。また転んでないだろうか。人ごみに潰されてないだろうか。ついていった方がよかっただろうか。心配が尽きない。どっちが先輩かわからない。


「その、今回演奏しない部員たちはどうしてるんですか?」

「舞台補助だよ。さっきの受付の子とかもそう。あとは演出で踊ったりする」

「……楽器は吹かないんですか?」

「よっぽどうまい子じゃなければ、一年生のうちに本番では吹かせてもらえないだろうねえ」

「なんのために吹奏楽部に……」


 野球部のときもそうだったが、文化部である吹奏楽部でも、熾烈なレギュラー争いがあるらしい。

 初心者で本番に出た鍵太郎とはえらい違いだ。来る途中で先輩にも言われた。「規模がでかすぎて参考にならない」と。


「いやあ、ひどい目にあいました」


 美里が戻ってきた。よほどロビーが混み合っているのか、長い髪がボロボロだ。手で直しながらイスに座る。


「人がいっぱいです。りくちゃん入れるかな? まだ連絡はありませんが」


 遅刻してくる三年生、永田陸ながたりくを先輩は心配しているようだ。ひょっとしたら立ち見になるかもしれない。美里を困らせている人物に、少し嫌味が出てしまう。


「まあ、自業自得なんじゃないですか」

「む。だめですよ湊くん。そんなこと言っては」


 先輩に「めっ」とされた。


「確かに遅刻はいけませんが、りくちゃんは聴きたいと思って来るんですから。それをないがしろにしてはいけませんよ」

「はい……」


 普段あまり怒らない人から怒られると、結構心にくるものである。

 鍵太郎はしゅんとして下を向き、それ以上しゃべるのも気まずかったので、パンフレットを見ることにした。

 知らない曲が並んでいる。同い年の経験者である千渡光莉せんどひかりなら「あんたこんなのも知らないの!?」などと言いながら積極的に解説してくれそうではあったが。

 次のページからは部員によるパート紹介が並んでいる。写真も載っていて、全員が笑顔で楽器を構えていた。男子部員も結構いて、このくらいいれば居心地も悪くないんじゃないかと思う。

 しばらくするとホールにアナウンスが流れた。「携帯電話の電源はお切りになるか、マナーモードに――」という映画館などでおなじみのものだ。開演が近いらしい。


「『魔法使いの弟子』ですか。なにをするんでしょうねえ」


 同じくパンフレットを見ていた美里が言う。確かに第二部の欄にはその曲名が書いてあった。


「ええと……なにを『する』?」


 どんな演奏をする、じゃなくてか。首を傾げた鍵太郎に、美里は言う。


「ただ演奏するだけじゃ、絶対に終わらないですよ。ましてやディズニーです。必ずなにかやってきます」

「またディズニー……」


 女子のディズニー好きというのは、どこから出てくるのか。永遠の謎だ。

 ざわざわと騒がしい客席を鎮めるように、ホールの照明が暗くなっていく。反対に舞台の照明は光度を増し、富士見が丘高校の吹奏楽部員たちが入場してきた。全員が白ジャケットを着ている。


「なんか、うまいとこって感じだよねえ……」


 なんだろう蝶ネクタイとか。高校生がつけていいのだろうか。揃いのステージ衣装に圧倒されて、誰かがそう言った。

 指揮者が入場してきて、拍手が起こる。タイミングがわからない鍵太郎は、とりあえずそれに合わせて拍手をしておいた。部員全員が立ち上がって、観客に向かって礼をする。さらに拍手が大きくなった。

 指揮者が演奏者側を向き、部員たちが座って楽器を構える。

 一瞬の間。

 弓を引き絞るような緊張感の後に、大きく息を吸う音が聞こえ――

 衝撃波のような音が、鍵太郎を貫いた。



###



「いやあ、やっぱうまいとこは違うねー」


 第一部が終わって休憩に入り、クラリネットの先輩が、伸びをしながらそう言った。

 人数の差だけでは到底ない、個々人のレベルの差。

 ホール全体に響き渡る音に、ただただ圧倒される。

 この部目当てに入学する子もいる、というのも納得するくらい、それは迫力と自信のある演奏だった。


「どうですか? 湊くん」

「あ……はい、やっぱり生演奏だと迫力が違うというか」


 なんというか。自分の表現の稚拙さが、言葉にも出ている。それを汲み取ってくれた美里が「うん。言いたいことはわたしにもわかります」とうなずいてくれた。


「CD聴くのとは違いますよね。今この人たちにしか出せない音で。すごいなあ夏見なつみ……」


 夏見、というのは美里の中学のときの友人だろう。

 きつい練習を一緒に耐えてきた仲間がこうしてさらなる高みにいるのを、美里は眩しげに見つめていた。

 休憩時間は十五分だ。長いのか短いのかもわからないが、きっと「なにを『する』」の仕込みの時間でもあるのだろう。

 あの演奏からさらに、なにを仕掛けてくるのだろうか。気になった鍵太郎は、パンフレットの曲目解説を読んでみた。


 『魔法使いの弟子』


 見習い魔法使いは、師匠に水汲みを命じられます。けれど水はとても重い。そして甕は、何度も往復しないといっぱいにはなりません。

 困った見習い魔法使いは、こう考えました。「あのホウキに魔法をかけて、代わりに水を運んでもらおう!」

 さっそくホウキに魔法をかけ、水を運んでもらう見習い魔法使い。けれど甕がいっぱいになっても、ホウキは水を運ぶのをやめません。

 ホウキを止められないうちに、甕からは水が溢れ、床はびしょぬれ。弟子はホウキを割りましたが、二つに分かれたホウキはそれぞれ、また水を汲み始めます。

 ホウキはどんどん増えていき、水の勢いは増すばかり。洪水のようになったそこに師匠が現れ、魔法を使ってホウキを止めました。

 見習い魔法使いは師匠に大目玉。今回はそんなストーリーを、演奏に合わせてお届け致します。


「演奏に合わせて」


 ストーリーはわかった。それをどう、音と絡めてくるのか。

 首をひねっているうちに、第二部開始五分前の予ベルが鳴った。

 また白ジャケットを着た部員たちが入ってくる。しかし、少し前とは様子が違った。全員なにかを被ったり、つけたりしているのだ。

 指揮者も同様だ。魔法使いのような三角帽子を被って出てきて、会場から笑いが漏れる。客席のライトが消えて、そして、舞台上のライトも消える。


「え、楽譜見えなくないですか?」

「たぶん、全部覚えてるんでしょうね」


 美里がそう言った瞬間に、蛍光色の光が舞台上を照らし出した。特殊な光を当てると発光する塗料。ブラックライトだ。

 ぼんやりと光る舞台上で、演奏が始まった。やがて、一人の人物が歩み出てくる。

 ローブを着て、帽子を被った――魔法使いの弟子。

 音楽に合わせて、バケツを持った人物は歩みを進める。バケツを重そうに持ち、ゆっくりと。

 舞台中央でバケツを下ろした見習い魔法使いは、ぽんと手を打った。そうだ、魔法を使えばいいんだ!

 見習い魔法使いが指揮に合わせて腕を振る。すると、ホウキの格好を模した人物が一人、袖から出てきた。

 ホウキはバケツを持ち、袖に引っ込むと――バケツいっぱいに、水色に光るものを入れて戻ってきた。


「ケミカルライトです。お祭りでよくある、ポキっと折ると光りだす、あれですね」


 美里が教えてくれる。暗い中で、その水色はよく目立って見えた。

 その水を見た見習い魔法使いは、大げさにうなずいた。やあ、こりゃいいや。引き続きボクに代わって、水を運んできておくれよ!

 ホウキも礼をすると、また袖に引っ込んだ。すると、見習い魔法使いの立っていた場所が、スポットライトでより青く照らされる。

 左右両方の袖から、ホウキの格好をした人物が歩み出てきた。見習い魔法使いは左右に慌てふためいてホウキを止めようとするが、跳ね除けられてしまう。

 魔法使いの弟子が頭を抱えたところで――鍵太郎の後ろの席が、ざわっ! と騒がしくなった。

 なんだなんだと後ろを見れば、舞台上のホウキ役と同じ格好をした人が、何人もホールの入り口から客席に向かって歩いてきていた。

 全員バケツを持って、中のケミカルライトを客席に撒いている。

 鍵太郎の近くにも、ホウキはやってきた。輪になった水色のライトが飛ぶ。それは客席全体に広がって――ホール全体が水浸しなるように、客席を光で埋め尽くしていった。

 曲に合わせてホウキたちは踊り、会場は水色でいっぱいになる。それを見た見習い魔法使いは頭を抱えて、座り込んでしまった。

 そこに現れたのは、長い長い白髭をした、魔法使いの師匠だ。

 師匠は舞台を見て大げさに嘆き、杖を振った。

 指揮も、演奏も、踊りも、全てを合わせて杖が振られる。

 今までで最大の音量が水浸しのホールに響いて――ピタリ、とホウキたちの動きと演奏が止まった。

 呆然とする弟子を、師匠が杖で殴る。そのおどけた様子に、観客席から笑いが漏れた。

 師匠と弟子が礼をすると、ホウキたちが笑顔で手を振りながら客席を退場していった。観客が拍手でそれを見送る。

 そして鍵太郎の手には、魔法のように光る水色のライトだけが残された。


「……え、これ、全部高校生がやってるんですか?」


 突然のパフォーマンスに、そんな言葉が口をついて出る。「そうですよー」と美里が返事をした。


「部員のみなさんが考えて、衣装も作って。照明も踊りも演奏に合わせて考えて。すごいですよね」

「プロじゃないですか」

「ええ、プロですね」


 人を楽しませる、ね。美里はそう言って、水色の光をいじった。


「みんな楽しんでるんですよ。この楽しさを伝えたくて、一生懸命――届けようとして。すごいですよね、本当」


 本当に高校生なの? と思って、鍵太郎は一番近くにいたホウキの格好の部員のことを思い出す。自分とそう変わらない背丈の、女の子の姿。

 水色の光の中を、笑顔で去っていった少女。

 楽器を吹かなくてもその笑顔は、眩しいものだった。

 さらに恐ろしいのは、これが第二部の『一曲目』ということだった。プログラムには、あと何曲も曲名が記されている。

 水色の魔法にかけられたホールの中で、さらなる演奏が始まった。

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