第29話 キクさん

 キクさん、と呼ばれる女性がいる。

 湊鍵太郎みなとけんたろうが通っている学校の近くにある、老人ホーム『福寿荘』に入居している女性だ。

 聞くところによると、キクさんは昔、音楽の先生をしていたということだった。

 吹奏楽部の慰問演奏でみなが手拍子をする中、ひとりだけ指揮を振っているという、とても目立つ存在。

 キクさんというのが苗字なのか名前なのかもわからない。ただそう呼ばれて、部内に語り継がれているおばあさん。

 鍵太郎が吹奏楽部に入っていなかったら、生涯会うことはなかっただろうその人。

 彼女は足が悪いようで、本番のときも車椅子で演奏を聴いていた。

 今は彼女はそれを押して、鍵太郎と千渡光莉せんどひかりの元にやって来ている。

 もう演奏は終わっていた。二人は片づけに向かう途中で、キクさんはもう会場から自分の部屋へと引き上げたはずだ。

 今二人に、一体なんの用だろうか。

 光莉は慌てて目を拭いている。彼女は過去の失敗から、楽器を吹くことを恐れるようになっていた。今回のソロも本人としては満足いかない出来であり、本番が終わってもこうして悔やんでいる。

 もう、楽器を吹くのをやめてしまおうか――そんな話をしていた彼女を止めるため、鍵太郎は光莉と話していたのだ。

 キクさんは本番で演奏を聞きながら指揮を振っていたときと同じく、にこにこと笑っている。

 戸惑う鍵太郎と光莉の目の前にやってきて、彼女は二人に向けて口を開いた。



「ありがとう」



「――!」


 ちゃんと聴いていたよ――楽しかったよ。

 そんな言葉を全部詰め込まれて言われたような気がして、鍵太郎はなによりも先に衝撃を受けた。

 その後にぶわりと、嬉しさががこみ上げてくる。「あ、あの、こちらこそ、聴いていただいてありがとうございます――!」と、しどろもどろになりながらキクさんに頭を下げる。

 初心者の鍵太郎の、初本番だ。こうしてお客さんに直接感想をもらうのはもちろん初めてで――来てよかった、と心の底から思う。

 キクさんはうんうんとうなずいて、それから呆然としている光莉の手を取った。

 それを両手で包んで、しっかりと握る。



「また来てね」



 光莉も驚いて、目を見開いた。

 本番の音だけで、この人には全てお見通しだったのではないか――そんなことすら思わせる、温かい言葉と、手のひら。


「あ、あの――」

「ああ、こんなところにいた!」


 光莉がキクさんになにかを言おうとしたところで、誰かがこちらに走ってきた。施設の介護職員であろう、男性だ。

 キクさんを探していたらしい。男性は車椅子の脇に立ち、目当ての人物を見つけてため息を吐く。


「ちょっと目を放した隙に、こんなところに……まったく、徘徊するのもいい加減にしてくれよ……」


 ぶつぶつと文句を言いながら、車椅子を押してキクさんを連れていこうとする。

 聞こえた単語の意味を、鍵太郎はしばらく理解できなかった。


「徘、徊……?」


 それだけを、おうむ返しにつぶやく。それでは、まるで――

 介護職員の男性は、こちらを振り返って鍵太郎たちに言ってきた。


「ああ、今日の高校生たちね。こんなボケ老人のために、わざわざ済まないね。今日はおつかれさま」

「ボケ、てる……?」


 キクさんが?

 本当に?

 信じられない気持ちで、キクさんを見る。彼女はわかっているのかいないのか、全く表情を変えない。

 先ほどと同じように――ずっと、にこにこしている。

 職員の男性は、「そうだよ」と言った。


「この婆さんはもう、だいぶボケちまってるよ。ほんの少し前に言ったことも、覚えてりゃしない。まったく、苦労かけやがって」

「でも本番のときは……演奏に合わせて、指揮を振って」


 否定したくて、そんな言葉が鍵太郎の口から漏れる。「ああ、それね」と男性職員は面倒くさそうに言う。


「こいつは昔、音楽の先生だったって話だよね? 年寄りっていうのは、昔のことばっかりよーく覚えてるからな。昔やった曲なんだろ。聞こえてる演奏に合わせて指揮してたわけじゃないよ」

「さっき……また来てねって」

「若い子を見れば、年寄りは誰でもそう言うよ。面会に来た家族にも、職員にも。誰が誰かなんて、わかって言ってるわけじゃない。もう君たちのことも、覚えていないさ」

「……そんな」


 違う。キクさんはさっきの演奏を聴いて言ってくれたんだ。「ありがとう」って。


「こいつはもう、さっきの演奏なんか忘れちまってるよ。ボケちまってるからな。

 ほら、こんなこと言っててもこいつ、ずーっと笑ってるだろ? 聞こえてないのか、聞こえたそばから忘れちまってるのか――ま、どっちでもいいけどな」


 キクさんの表情は変わらない。

 最初から最後まで、ずっと、笑ったままだ。

 さっきかけられた言葉は――なんだったのか。


「じゃあ、今日はおつかれさま。こんなとこにいないで、早く学校に帰りなさい。――ほら、行くぞ婆さん」


 キクさんが連れて行かれる。

 本当に聴いていたんですよね――と、問いかけるより先に。

 ありがとう。また来てね。

 たった二言の、この言葉が――


「――待ちなさいよ」


 隣から、押し殺したような聞こえてきた。

 その声音にぎょっとして見れば、光莉がものすごい顔で、男性職員を睨みつけている。

 振り返った男性職員へ、彼女は鬼気迫る表情で言い放った。


「その人には全部、聞こえてる。さっきの演奏も。今のあなたの言葉も」

「なにを言って――」

「謝りなさい!」


 突然の大音声に、鍵太郎も男性職員もびくりと震えた。

 キクさんだけが相変わらず――笑顔のままだ。


「謝りなさい! その人に! あなたの言ったひどい言葉を! この人は全部分かってる。分かってて許してる!」

「なにわけのわからないこと言ってんだ、てめえ――」

「千渡!? ストップ! ストーーップ!?」


 一触即発となりかけたその場へ、鍵太郎は割って入った。光莉を制止して、その場を収める。さすがに女子高生相手に暴力沙汰にはならないだろうが、部の行事として来ている立場で喧嘩はまずい。

 光莉は納得いかなそうな顔で男性職員を睨みつけていたが、とりあえずおとなしくなった。

 鍵太郎に謝られた男性職員は「なんなんだ、まったく……」と言って、キクさんを連れて去っていく。

 車椅子に乗った、少し丸くなった背中。

 彼女はなにを思って、二人の元にやってきたのだろうか――

 連れられていく彼女を見送る。その隣で、光莉がつぶやくのが聞こえた。


「……また、来ます」


 来年も、また。

 強い意志が込められたその言葉を、鍵太郎は確かに聞いた。

 この老人ホームへの慰問演奏は、吹奏楽部の毎年恒例の行事だ。

 それに、次回も光莉が参加するということは――


「え!? 千渡、うちの部入ってくれるの!?」

「ま、まあね」


 鍵太郎の問いかけに気まずそうに目をそらして、光莉は言う。


「あんな風にお客さんに言われちゃったら、そりゃ、やるしかないでしょ」

「やった! すげえ嬉しい!」


 諦めかけていた光莉が、もう一度、楽器を吹くことを決めてくれた。

 キクさんの言葉は、折れかけていた心を、もう一度奮い立たせてくれたのだ。


「べ、別にあんたのために入るんじゃないんだからね!? あの人のためよ、あの人のため!」

「そうだよ! それでいいんだよ!」


 確かに聴いてくれていた人のために。それに少しでも、心を動かしてくれた人のために。

 光莉はもう一度、楽器を手に取る決心をしてくれた。

 もう見えなくなった車椅子のあの姿へ、心の中で叫ぶ。「ありがとう、また来ます!」それだけを。

 また来年、光莉と一緒に届けにこよう。

 少し経てば忘れてしまう思い出も、音を聴けば何度でも甦る。

 彼女がかつて、自分の生徒たちと一緒に過ごしていた、その日々と共に。

 来年もまた、キクさんは指揮を振ってくれる。


「先輩たちに言いに行こう! みんな絶対、喜んでくれる!」

「え、あ、ちょっと――」


 光莉の手を取って、連れて行く。後ろから「き、気安く触らないでよ!」と文句が聞こえてくるが、振りほどかれる様子はない。

 大丈夫だ。本番で失敗しようが、大暴走をかまそうが、みんな光莉を責めはしない。

 そんな些細なことなんて気にしない。

 だから、この手を離さない。



###



 光莉の入部は、もちろんみなに受け入れられた。


「光莉ちゃん、ありがとー!!」


 彼女と同じトランペットの豊浦奏恵とようらかなえが、喜びのあまり光莉に抱きついている。元々トランペットは人が足りなかったのだ。これでかなり助かることだろう。

 鍵太郎と同じ楽器で部長の春日美里かすがみさとも「よかったですねえ」とのほほんと笑っている。


「キクさんのおかげなんですよ」

「キクさんの?」


 鍵太郎は美里に、先ほどあった出来事を話した。「そうでしたか……」と先輩は言って、未だ奏恵に振り回される光莉を見る。


「彼女もやはり……そんな過去がありましたか」


 美里も中学の時には、吹奏楽部でかなりつらい思いをしていたらしい。

 自分と同じような過去を、彼女も持っているのではないか――と、前に美里は言っていた。


「でも、よかったです。彼女もわたしと同じ。新しい家族に会えたんですよ」


 ここでまた、楽器を吹くことができる。

 知らない人たちに、自分の音を届けることができる。


「ありがとう、湊くん。湊くんが彼女を連れてこなかったら、きっと――」

「あ、いえ、俺じゃなくて。すごいのはキクさんですよ」


 光莉を踏みとどまらせたのは、あのおばあさんだ。鍵太郎の言葉だけでは、どうにもならないところだった。

 きっとあの人も、昔は色々あって――それを乗り越えてきたのだろう。

 じゃなければあんなに楽しそうに、指揮は振らない。


「そうですか……では、キクさんはわたしたちの、大先輩ということですね」

「そうですね」


 どんなことがあったのかは分からないし、もう彼女もはっきりと覚えていないのかもしれないけれど。

 自分たちの演奏がその『たからもの』を掘り起こせたなら、それはとても、嬉しいことだ。

 わざわざお礼を言いに来てくれたことが、なによりの証拠だ。

 しっかり音は、届いていた。

 そう、思った。


「ねえねえ! 片付け終わったら光莉ちゃんの歓迎会しよう!」


 奏恵が目を輝かせて、そう言い出した。「お、いいねえ」「ファミレスにする?」「カラオケー!」と、周りからも賛同の声があがる。当の光莉は奏恵に首をホールドされてダウン寸前だったが、まあそのくらいの歓迎は許してやれよ千渡、と鍵太郎は生暖かく彼女のことを見守った。


「おーい、じゃあ早く楽器を上げてくれよ……」


 トラックの荷台の上から、打楽器の滝田聡司たきたさとしが弱々しく言ってくる。女子連中が騒いでいるのを制止することは、少数派の男子部員にとってかなり気後れすることだ。

 「はいはい、動く動くー!」とホルンの海道由貴かいどうゆきが手を叩いて、みなを動かす。


「はい、では楽器を片づけて帰りましょうか。帰るまでが本番です」

「校長先生……?」


 真面目に言っているのかなんなのかよくわからない美里に、遠慮がちに突っ込んでから、鍵太郎も楽器の撤収に動き出した。


 老人ホーム『福寿荘』。

 その名の由来となった黄色い花と同じく、施設の壁は黄色に塗られている。

 雪解けの中から春を告げる、目の覚めるような黄色。

 その花にまつわる言葉は――思い出。そして、永久の幸福。


「がんばってね」


 高校生がトラックの周りで騒がしくしている様子を、車椅子の老婆はそこから笑顔で見守っていた。


第3幕 聞いてくれてる人がいる〜了

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