第28話 暴れん暴走将軍
『福寿荘』に、赤とんぼの合唱が響いている。
老人ホームであるここに、川連第二高校の吹奏楽部は演奏にやって来ていた。
演奏に合わせて、入居者たちが歌を口ずさんでいる。
最初は呆けたように宙を見ていたおじいさんが、目をこちらに向けて口を動かしている。
遠くて声が出ているのかは分からないけれど、それでもその動作だけで『届いている』ということが感じられた。
それが、嬉しかった。
キクさんはどうなんだろう。
先ほどそれらしい人を発見した。彼女はここの入居者で、車椅子に乗っている。キクさん、というのは苗字なのか名前なのかはわからない。
先輩に聞いたところによると、彼女は昔、音楽の教師をやっていたらしい。
なので、キクさんだけは手拍子ではなく指揮を振っている。僅かな休みに少しだけ目をやれば――彼女は歌うこともなく、にこにことしながらやはり、両手を動かしていた。
観客なのか演奏側なのか、非常に曖昧な位置にいるが、少なくともキクさんもこの場で音を共有していることは間違いない。
指揮は正確で、たまに微妙にテンポが揺れるところも一緒に合わせてくる。きっと昔は、こんな風に生徒たちを指揮していたのだろう。
それはきっと、彼女にとっての『たからもの』なのだ。
最後の伸ばしの音を切るとき、顧問の左手が円を描くように動いて、きゅっと握られた。きっとキクさんも同じようにしていたはずだ。
楽器から口を離して見れば、曲が終わったキクさんは手を動かすのを止め、笑顔でうんうんとうなずいていた。
きっと彼女の目には、鍵太郎たちが自分の生徒のように見えているのだ。
「……さて、楽しい時間はあっという間で、次が最後の曲になってしまいました。最近はテレビで時代劇をあまり見なくなりましたが――」
曲のつなぎに、顧問の先生の司会が入る。鍵太郎は次の楽譜を譜面台に広げた。『時代劇メドレー』。銭形平次に始まり、水戸黄門を経て、暴れん坊将軍で締める。
ほとんど時代劇を見たことのない女子高生が、ネットで動画を見て曲作りに取り組んだものだ。
同学年の女性陣たちと、携帯で動画を見たのが思い出される。あのときは浅沼に押しつぶされて大変だったなあ、と鍵太郎の脳裏に二週間ほど前の記憶がよぎった。六人で一つの携帯を覗き込むなんて、傍から見たら変な集団だ。
でも、今から思えばそれもなぜか楽しい。
そして、そのとき自分の隣で携帯を見ていた、トランペットの
本番前、彼女は緊張で唇まで真っ青だった。この曲の八小節の、トランペットソロ。
たったそれだけかと思うかもしれないが、光莉は過去にソロに失敗したトラウマを抱えている。それを乗り越えるために、再び楽器を手にしたということだったが――
狭い会場の中で、本番は励ましにも行けない。顔も見られない。
鍵太郎にできるのは、せめて祈ること――そして低音楽器として、精一杯彼女を支えることだけだった。
約束したんだ。
がんばれ、と心の中で光莉にエールを送る。顧問の先生は司会を終え、部員たちへと向き直った。
少し間をおいて、指揮を構える。
右見て左見て、いくぞと言うように、ひとつうなずく。
小さく、振りはじめる。その通り小さなところから始まって、最初のひと盛り上がりの後、
ここもまったく無伴奏の、プレッシャーのかかる場面だ。しかし優は後輩から鬼軍曹と呼ばれるだけあって、非常に上手い。難なくクリアして、次の場面に移る。
次はバスクラリネットの高久広美のソロだ。飄々とした感じを、あのおっさん女子高生はとてもらしく出している。
ソロが終わったとき、広美がニヤリとシニカルに笑ったのが鍵太郎にはわかった。今は後ろ姿しか見えないが、練習のときにいつもそうしていたのを覚えている。
銭形平次が始まって、トランペットの一発目のメロディーが回ってきた。緊張しているのか、学校でやったときのような伸びがあまりなかったけれども――大丈夫大丈夫。ちゃんと聞こえてきてる。
本人がどう思っているかどうかはともかく、鍵太郎の耳には、ちゃんと入ってきていた。
次の曲に変わる。しばらく進むと、ここはもう完全に光莉一人だけのところがある。大丈夫だ千渡、そのまま行け! と必死に祈った。
旋律が一本だけなので、気を遣って回りも少し音量を下げる。それを恐ろしく思わないでほしい。むしろおまえを応援してるんだと、そう捉えてほしい。
光莉の出番がやってきた。息が震えているのか唇が震えているのか、めろめろっとした音が聞こえてくる。
うわあああ、と心の中で絶叫するが、支えてやろうにもこれ以上出したら光莉を潰しかねない。とにかくがんばれ、がんばれ千渡! と思い続けて、ベースを刻む。
ギリギリの低空飛行を重ねた光莉は、それでもなんとか音を落とさず吹ききった。ほんの八小節が恐ろしく長く感じられた。
旋律を吹く楽器が増え、安心して鍵太郎も音を大きく戻す。乗り切った……と自分のことではないのに、ひどくほっとした。
これで光莉も、部からいなくなるなんて言い出さないだろう。今みたいにみんなで一緒に、楽器を吹けばいいのだ。
しかし、安心するのにはまだ早い。曲はまだ終わっていない。
最後の暴れん坊将軍のイントロに入った。ゆっくりだったテンポを、ティンパニの越戸ゆかりが引っ張る。
それを聞いて、あれ? と鍵太郎は思った。聞き慣れたものよりちょっと早い。
こちらもソロのようなものだ。初めての本番で緊張していたのは鍵太郎だけではなかった。
彼女もまたパニックになっていたのか、いつもより早く打音が進んでいく。
曲は盛り上げていく場面なので、テンポを落とすこともできず、そのままブレーキをかけずに突っ込んでいってしまう。
そして――事件は起こった。
ゆかりに煽られたトランペットが――光莉が、大暴走しだしたのだ。
「うおおおおおおっ!?」
早い。練習とは比べ物にならないくらい、テンポが速い。
鍵太郎だけではなく、他の部員も心の中で叫んだはずだ。
早い。早すぎる。
ちょっ、光莉さん!? と思いつつ、もう誰にも止められない。将軍を振り落としかねない勢いで、白馬が暴走していく。
他の部員も必死で、演奏の崩壊という致命傷だけは避けようと彼女についていく。
鍵太郎は正直もう、振り落とされていた。ただでさえここのベースは、細かくて大変なところだ。ましてこんなテンポでなんて吹いたことがない。
細かい動きは全部潰れてしまって、それでもとにかく支えだけは失わないように、それ以外の音は大きく出して――めちゃくちゃだ。
今朝広美が言っていた、「メロディー楽器が暴走したときにカオスになる」という言葉そのままだった。
旋律と和音とリズムが、わけがわからない渾然一体となって突き進んでいく。
普段使ってない脳の部分が覚醒して、妙に気持ちよくなってきた。ああ、太鼓の達人を叩きすぎたあの先輩が、笑いを止められなくなったのはこのせいか――と、どこか遠くにいる自分が納得している。
制御が利かない。でも気持ちいい。
酸欠でかかる負荷も、異常なこのテンポも、おかしくてしょうがない。
畳み掛けるように後奏に入り――さんざん周りを引きずり回してようやく、将軍は止まった。
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「すみませんでした!!」
演奏が終わって、控え室で光莉が頭を下げた。
それにトランペットのパートリーダー、
「いいよいいよ! おもしろかった! あんな暴れん坊将軍、聞いたことないよ!」
周りの部員も、「どうなるかと思ったけど、楽しかった」「あれはあれでアリ」「本番はやったもん勝ちだ」などと、口々に声をかけている。それでも自分が許せないのか、光莉はため息をついて肩を落とした。
「うー……。ほんとにすみません……」
「気にするなって」
鍵太郎も声をかける。いつものように睨む元気もないのか、光莉は頭を抱えたままだった。
撤収のため、部員たちが会場の片づけに向かう。せめてそれを手伝おうと、顔を上げた光莉はそれについていく。鍵太郎も一緒に行った。
「そうは言ってもさ。ソロだって吹けてただろ」
「ビビりすぎて、ビブラートがビビラートになってたわよ。あんなの、吹けてたなんて言えないわ……」
本人としては納得がいってないらしい。あれはあれでよかったんじゃないかな、と鍵太郎は思うのだが。光莉は自分に厳しすぎる。
「でも、全部音出ただろ?」
「出た、けど……」
「けど?」
「……すごい怖かった。音が出ないことじゃなくて、出なくて、みんなから責められることが」
吹奏楽の強豪校出身の光莉は、最後の大会でソロの音が出なかったと言っていた。
その口ぶりから察するに――
「私は、許されてないの。あのときのメンバーに。まだあいつらに、ずっと責められてる。『おまえのせいで東関東大会に行けなかった』って」
「千渡……」
ソロ恐怖症の本当の原因は、それか。
そのとき誰も、光莉を支えなかった。彼女は楽器を捨てるかどうかまで悩み、結局封印したままここにやってきたのだ。
けど、今は――
「みんな、おまえを責めないよ」
「……」
さっきだってそうだ。先輩なんて逆に笑っていたじゃないか。「楽しかった」と。
鍵太郎だってそうだ。
「俺もすごい楽しかった。おまえがやりたかったこととはちょっと、違ったかもしれないけど……あれで、よかったんだと思う」
「……そう、なの?」
「浅沼が言ってたじゃないか。『本番はやったもん勝ち』だって」
トランペットとトロンボーンは、調子に乗ってナンボだと――笑顔で言っていた、同い年の馬鹿の姿を探す。きっとあいつも言うのだろう。満面の笑顔で、「楽しかった!」と。
「だからさ、これっきりじゃなくて――これからも一緒に吹こうよ。できるとかできないとかじゃなくて、責めるとか責めないとかじゃなくて――そう、一緒にさ」
うまい言葉が見つからない。初心者の鍵太郎には、上級者同士のそんなやり取りなんて想像がつかない。
光莉はそういう世界で生きてきたのだろうけど――ここは、違うのだ。
レベルが低い?
吹けないほうが悪い?
そういうんじゃ、なくて。
それ以外にも大切なものはあるんじゃないかと思うのだ。どんなに上達したって、捨てちゃいけない『たからもの』があると、鍵太郎は先輩から教えられた。
殴られても責められても捨てられなかったその気持ちを、光莉はまだ、持ち続けている。
「もう、吹きたくない?」
鍵太郎の問いに、光莉はぶんぶんと首を振った。
「吹きたいよ……!」
「じゃあ」
「でもさ……!」
光莉の傷は、鍵太郎の予想以上に深かった。
「消えないんだよ! 『おまえのせいだ』って声が! この先、ずっとこれが続くなんて、嫌……!」
「……千渡」
光莉は制服のスカートをぎゅっと握り締めて、泣くのを必死で我慢していた。本番の前と一緒だ。
下手になにか言えば一気に崩壊してしまいそうな、そんな姿。
俺も浅沼みたいに、馬鹿みたいに突っ込んで、こいつを元気付けたいのに――彼女の天性の明るさを、心底羨ましく感じる。
どうすればいい――と思っていると、二人のところに、車椅子を押した誰かがやってきた。
白髪の、柔和な笑みを浮かべた女性。
キクさんだった。
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