第27話 「がんばって」

 老人ホーム『福寿荘』。

 学校近くのその建物に、川連第二高校の吹奏楽部員たちはやってきていた。

 遠目にも分かる黄色に塗装された建物は、施設の名から取られているのだろう。

 雪解けの中から春を告げる、目の覚めるような黄色。

 今日はここで、演奏を行うのだ。楽器を始めたばかりの湊鍵太郎みなとけんたろうにとっては、これが初舞台となる。

 駐車場には、打楽器を積んだトラックが既に到着していた。顧問の本町瑞枝ほんまちみずえも、自分の車で先に入っている。


「一、二年は楽器を中に置いたら打楽器搬入を手伝え。三年は会場のイスと譜面台の設置に回れー」

「おいっすー」


 各人がそれぞれ、役目を果たすために散っていく。鍵太郎の楽器であるチューバは、その大きさゆえトラックに乗っている。受け取りのためにトラックに向かった。

 トラックの荷台には所狭しと楽器類が積んである。隙間ができないようにきっちりと配置されたそれらを押さえるようにして、黒くてでっかいケースが手前に置いてあった。

 打楽器の三年生、滝田聡司たきたさとしが荷台からその楽器を下ろしてくる。


「手ぇ、離すぞ。大丈夫か?」

「大丈夫です」


 十キロを超えるその楽器とケースを、両手で受け止める。ずしりとした重さがかかるのも、そろそろ慣れてきた。

 楽器を地面に下ろすと、同じ楽器の先輩、部長の春日美里かすがみさとも同じように楽器を取ろうとしている。身長があるとはいえ、女性である美里にこの重さはつらいだろう。

 そう思って、鍵太郎は美里の分の楽器も下ろすことにした。


「おー? 紳士だな湊」

「え。大丈夫ですよ湊くん。わたし下ろしますから」


 そう遠慮する美里を手で制して、聡司から楽器を受け取る。先輩である美里の楽器は、鍵太郎のよりも新しい型だ。なのでこちらの方が少し軽い。

 そちらも地面に下ろすと、「そういえば湊は、初本番だったな」と聡司が言った。


「本番は、練習と違うことが次々起こるもんだ。大丈夫だから遠慮せず吹けよ」


 隣で美里が「ああ、そうですね」とうなずいた。


「場所が変わると、他の楽器の音も変わって聞こえてくるので、音楽室とは違う感じになって怖いかもしれません。けど、わたしと聡司くんを信じてついてきてください」


 そういうものらしい。「わかりました」と鍵太郎は二人にうなずいた。同じ動きをするベース楽器の美里と、ドラムを叩く聡司だ。こちらがどうなっても、この二人にしがみついていけばなんとかなる。

 美里と二人で楽器置き場に向かう。老人ホームに入ってすぐの少し広い部屋を、控え室として使わせてもらえるらしい。エプロンをつけた女性の介護士さんが、大きな楽器を驚いたように見て「こんにちは」と挨拶してくれた。

 楽器を置いて、再びトラックへと向かう。先に楽器を置いた部員たちが、既にそこへ群がっている。

 分解したドラムが運ばれていく。ドラムってあんな風にバラせたんだな……と見送っていると、鍵太郎が呼ばれた。


「ほい、ティンパニの1番」

「一番重い楽器を持たされた……」

「はいはい、男の子は文句言わない。黙って持つ!」


 吹奏楽部の男子部員は鍵太郎と、聡司の二人だけだ。その聡司は荷台の上から、苦笑いしてこちらを見ている。これはこの人も通ってきた道なのだろう。そういえば以前「男っていうだけで、重い楽器を持たされる」と言っていた。

 ティンパニのフレーム部分を持つ。初めて持ったときにヘッド部分を持ちそうになって、打楽器の貝島優かいじまゆうにこっぴどく怒られた。それ以来気をつけている。

 四人がかりでトラックから下ろし、演奏する会場まで持っていく。

 そこは、施設の多目的広場のようだった。音楽室より少し狭い、細長い空間だ。

 入居者が作ったものなのか、壁には折り紙が飾られている。

 まだ、お客さんは来ていない。がらんと空いたスペースに、どんな人たちが来るのだろうか。

 どきん、と心臓が鳴る。

 そうだ。お客さんがいるのだ。その人たちはこの初心者の音を聞いて、なんと思うのだろうか。

 下手だと思うだろうか?

 すごいと思うのだろうか?

 孫ほどの歳の子が楽器を吹くことを、ほほえましく思うのだろうか?

 そして少しは――聴いてよかったと、思ってくれるだろうか?

 不思議な高揚を感じる。緊張ではなくて、もっと心地いい――ドキドキする、ワクワクする、そんな感情だ。

 少しの不安がスパイスになって、胸が締め付けられるようで、でも楽しみな――なにかに似た、そんな気持ち。

 心臓の鼓動が早くなる。それに突き動かされるように足が速くなる。打楽器の搬入は終了したので、あとは自分の楽器の音出しだ。

 部屋の中は、最後の調整をする部員たちの音で溢れていた。どこもかしこもいつもより音のテンションが高い。

 きっとみんな、俺と同じ気持ちなんだ、と鍵太郎は思った。受け入れられるかどうか不安で、でも伝えたくて、精一杯心を込めようと試行錯誤している。

 みんな大好きです――と、前に美里が言っていたのを思い出す。きっとそれはこんな気持ちで――眩しくて嬉しくて、愛おしく回る、音の渦だ。

 先輩はこんな気持ちで楽器を吹いていたのかと、隣で音出しをしている美里を見た。それに気付いた彼女はこちらを向いて、笑う。

 そしていつものように、春の日差しのように温かい微笑でもって、先輩は言った。


「がんばりましょうね、湊くん」

「はい!」


 頑張ろう。初心者とかそういうのは、関係ない。

 この気持ちがあれば、きっと大丈夫。



###



 しばらくして、顧問の本町が部屋にやってきた。本番用のパリッとしたパンツとジャケットを着ている。いよいよ始まると感じた部員たちが、音出しを止めた。

 彼女はいつものように少し乱暴な口調で、部員たちに言う。


「よーしおまえら。会場の準備はできた。これから移動して、そこで本番だ」


 来た。鍵太郎の心臓の鼓動が、もう一段階早くなった。先生は不敵に笑って、全員に指示を出す。


「一番いい音で頼むぞ。じいさんばあさんに喜んでもらえるよう、全力を尽くせ!」

『はい!!』


 気合い十分の部員たちを見て、彼女は満足そうにうなずいた。部員たちが立ち上がり、移動を始める。

 鍵太郎たち低音楽器は配置の都合上、入場は一番最後になる。ぞろぞろと部屋を出て行く部員たちを見守り、最後尾についた。

 先ほどの多目的ホールを遠目に見ると、あの広い空間が嘘のように人がたくさんいる。施設の全員が集まっているようだ。

 車椅子に座っている男性や、隣とおしゃべりする女性たちの姿が見える。


「うわあ……」


 身体に震えが走った。武者震いというやつだ。鍵太郎が呆然とその景色を見ていると、美里がそういえば、とのんびり言う。


「今年はキクさんはいますかねえ」

「キクさん?」


 誰だろう。お客さんの誰かなようだが、ここからだとよく見えない。先輩は鍵太郎に説明してくれた。


「キクさんはここの入居者のおばあちゃんで――どうも、むかーし音楽の先生をされてたようなんですよ。他のみなさんが曲に合わせて手拍子をする中で、キクさんだけは指揮を振っているんです。だから湊くんも、見ればすぐ分かると思いますよ」

「へー……」


 そんな人がいるのか。見つけるなんてそんな余裕は、自分にはないかもしれないが。その人も楽しんでくれるといいな、と思う。

 ホールに入る。音楽室より狭いので、楽器同士がぶつからないよう配慮しなくてはならない。ひしめき合う楽器の前に立ち、指揮をする本町が挨拶を始めた。


「みなさんこんにちは。川連第二高校吹奏楽部です。今日はみなさんと一緒に、音楽を楽しむためにこちらに参りました」


 さすがにこういうところでは、この教師もちゃんとしゃべる。鍵太郎はお客さんの方を見た。

 おじいちゃんおばあちゃんたちの反応は様々だ。ニコニコしながらこちらを見るおばあさんもいれば、聞こえているのかいないのか、口を開けて無表情でいるおじいさんもいる。

 キクさんは一体誰なんだろう。前のほうにいれば見えるかもしれないが――。

 本町は挨拶を終え、バンドの方を向いた。鍵太郎は楽器を持ち上げる。

 先生は左を見て右を見て、一つうなずいた後――ふっと笑って、指揮棒を構えた。

 振り下ろす。

 老人ホームということで、演奏する曲は演歌、童謡、時代劇の曲だ。一曲目は演歌メドレー。これでぎゅっと聴衆の心を掴む作戦だ。

 前奏が始まった。あれ、なんかおかしいぞと鍵太郎は思う。音楽室で合奏したときと、なにかが違う。

 みんなの音は聞こえるのに、それが随分遠くから聞こえる。こんなに近くにいる美里の音も、透明な壁があるようにうまく聞こえない。

 怖い。一人で吹いているような感覚に、頭が真っ白になる。

 さきほどの高揚感から一転、叩き落されたように感じた。これじゃ初めて合奏したときと変わらない。

 最近ようやくついていけるようになったと思っていたのに、全然進歩なんてしてないじゃないか。こんなことなら出なきゃよかった、とまで思ってしまう。

 怖い。音を出すのが怖い。パニックに陥っているうちに、ゆっくりなはずの曲があっという間に過ぎていってしまう。耳に入ってくるのに曲に乗ることができない。

 やばい、どうしようと思ったとき、視界の端に動くものがあった。

 観客の一番前で、両手を振る白髪の、車椅子の女性。

 キクさんだ。

 あ、この人――と思ったとき、キクさんと目が合った。

 彼女はにっこりと笑って――少しだけ、口を動かす。



「がんばって」



 そう言われたような気がして、少しだけ周りの音が聞こえるようになった。

 そうだ。怖がっている場合じゃなかった。今、まさに本番なのだ。

 この瞬間、この人に音を届けないといけない。へたくそでもなんでもいいから頑張ろうって、さっき思ったばかりじゃないか。

 ごめんなさい、ありがとう――そう心の中でつぶやいて、鍵太郎は楽器に息を吹き込んだ。ちゃんと音がして、よし、このままいくぞと覚悟する。

 わたしと聡司くんを信じてついてきてください――そう美里は言っていた。

 そうだ。二人の音を追いかける。曲が変わってテンポが上がって、とてもとても指が追いつかなかったけど――なんとか、食らいついていく。

 周りの音がさらに聞こえるようになってきた。みな鍵太郎と同じで緊張していたのが、曲が進んで解けてきたらしい。

 ひたすら走っていたのに気付いて、周りを見渡すように音が段々と繋がり始めている。

 いつもと同じ感じに戻ってきた。よし、これならいけるぞと自信を取り戻す。メドレーの最後の曲になり、テンポがまたゆっくりになった。

 これなら曲の最初と違って、少しは落ち着いて吹くことができる。それでも見る余裕はないけれど、キクさんはこれを聴いて喜んでくれているだろうか。

 曲の締めの部分に、ひたすら意識を集中する。ここは初合奏でもうまくいった部分だ。思い切り息を吸い込んで、楽譜に書いてある番号の通りに指を動かす。

 大丈夫。きっとうまくいく。

 果たしてここは願い通りに――うまくいった。美里とタイミングを合わせ、最後の部分を派手に吹き切る。

 あんなに練習したのに、一曲目はあっという間に終わってしまった。うまくいった達成感も、すぐに寂しい気持ちに変わる。

 練習したことの半分も出せていない。初本番だからしょうがないのかもしれないが、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 そこでちらりとキクさんを見れば、先ほどと変わらない笑顔のままだ。

 それに少し慰められて、苦笑が漏れる。よし、あと三曲ある。それを精一杯がんばろう。

 本番はまだ、始まったばかりだ。

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