第3幕 聞いてくれてる人がいる

第26話 出せば官軍

 本番の日がやってきた。

 四月末の日曜日。よく晴れたその日に休みのはずの学校へ、湊鍵太郎みなとけんたろうは制服姿で向かっていた。

 どんな格好をしてきたらいいのかと思ったが、その辺りは意外に普通だった。揃いのTシャツとか言われたらどうしようかと思った。

 学校近くにあるという老人ホーム『福寿荘』。そこへ本日、吹奏楽部は慰問演奏に向かう。

 初心者の鍵太郎にとっては初本番だ。どんなことになるのか想像もつかない。

 少し落ち着かない気持ちで電車を下り、駅から学校まで歩いていると――途中の自動販売機で、缶コーヒーを買う先輩に出くわした。

 バスクラリネットの二年生、高久広美たかくひろみだ。

 バスクラリネットはその名の通り、クラリネットの低音楽器版になる。合奏上の配置は、チューバを吹く鍵太郎の目の前だ。

 低音楽器同士ということで、何度か話したこともある。眠そうな目とシニカルな表情が印象的な先輩だった。


「おはようございます、高久先輩」

「おう。おはよう湊っち。今日もかわいいねえ」


 ガコン、と自動販売機の取り出し口に商品が落ちてくる。広美はそれを取り出し、プルタブを開けて缶コーヒーをあおった。

 一口飲んで「ぷはあっ」と息をつき、幸せそうに彼女は言う。


「んー。やっぱ缶コーヒーはいいねえ。カフェインが脳に沁みる! これこれ。これだよ!」

「先輩、相変わらずおっさんみたいなこと言いますねえ」


 広美はおっさん女子高生だった。外見はまあ普通なのに、言ってることが果てしなくおっさんくさい。

 変に女子女子していないので鍵太郎としては話しやすい先輩ではあるのが、他の女子部員からしたらどうなんだろうと、余計な心配をしたくなる。

 彼女はどうにも朝に弱く、毎朝必ずコーヒーを飲むとは聞いていた。ましてや今日は本番なのだ。眠いままではやってられない。気合いを入れようとしているらしい。


「湊っちも気付けにどう? 一杯」

「先輩、その言い方は本当におっさんです」

「よかったら先輩がおごってあげるよー。うふふふ。うふ」

「うわあ。他意はないはずなのに、すげえ下心ありそうに聞こえる」

「おじさんとデートしようかー」

「ためらいなくネタとして使用してきやがった!」


 漫才のような会話をしているうちに、広美は本当に自動販売機に硬貨を入れてしまった。ピ、とランプが点灯したのを見て、「さ、好きなもの選びな」と先輩は言ってくる。

 冗談かと思っていたので、逆に恐縮してしまった。自販機と自分を見比べて困った顔をする鍵太郎に、広美は言う。


「さあ、君の推しメンは誰だい? ブラック? ブレンド? カフェオレ?」

「なんで全部コーヒーなんですか……」

「それとも自分では選べない? 最近の若者は優柔不断で困るなあ」

「一個しか違わないのになんだこの言われよう」


 ボタンを押す。出てきた商品を取り出して、広美に礼を言った。

 ココアを一口飲んで、再び歩き出す。


「先輩、遅刻しますよ」

「未来を選択できる低音吹きは、将来いいプレイヤーになる」

「これしきのことで俺の未来が決まってしまった……」


 まあ褒められた……褒められた? ようなので、いいことではあるのだろうけど。ちょっと大げさだ。

 学校に歩いていきながら、広美に今日のことを訊いてみる。


「今日って、どうなるんですか?」

「ちょっと学校で練習して、打楽器をトラックに積んで、あたしらは歩いて現地に向かう。着いたら楽器をセットして本番。そんな感じ」

「はあ」


 全てが未経験なので、やはり言われてもピンとこない。一年生は先輩の指示に従うしかないだろう。

 肝心なのは本番だ。上手くできるかどうか。音が出るかどうか。大丈夫きっと、落ち着けばなんとかなる。大丈夫、大丈夫だ。

 無意識にココアの缶を握り締めていた。それに気付いて、先輩のようにココアをあおる。口の中に広がる甘みが、閉じていた脳をこじ開ける。隣にいるおっさん女子高生も、きっとそれを求めて缶コーヒーを買っていたに違いない。


「湊っち。そんな気負わなくてもいいよ。あたしもいる。春日先輩もいる。練習どおり普通にやればいいさ」

「普通に……」

「まあ、そう言われてもって感じだよねえ。けどさ、あたしら低音がすこーしは落ちついてないと」


 広美はそこで一口、コーヒーを飲んだ。


「メロディー楽器が暴走したときに、完全にカオスになっちゃうからさあ」



###



 トランペットの千渡光莉せんどひかりは、今にも倒れそうなくらい真っ青な顔をしていた。


「いや……そんなに気負わなくても……」


 鍵太郎は苦笑いしてそう言った。先ほど自分も気負っていると言われたが、こいつほどじゃない。

 むしろ光莉を見て、こっちがしっかりしなければと思ったくらいだ。彼女は自分でも言っていた通り、極度の緊張しいなようだった。

 それに加えて、過去の失敗がトラウマになってソロ恐怖症にかかっている。

 強豪中学出身のプライドが、彼女を追い詰めると同時に奮い立たせてもいる。そのギリギリの均衡を目の当たりにすると、変に言葉をかけるのもためらわれた。

 何か言った途端に砕け散りそうな雰囲気だ。先ほど広美にやってもらったように、温かい飲み物でも買ってやった方がいいだろうか。しかし今日は日曜日だ。自動販売機のある校舎は、どこも閉まっている。

 自分が心配そうに見られていることに気付いて、光莉は小刻みに震えながら言ってきた。


「だだだだだ、大丈夫よ。さっきの合わせだって、そ、そんなにおかしくなかった、でしょ?」

「うん、まあ、なあ……」


 失敗を怖がらずに好きに吹けと言ってから、なんとなく吹き方は変わっている気もする。

 暗闇を探るように手を動かしながら、ゆっくりと――といった感じで。

 ただいかんせん、時間が足りなかった。掴みきれないまま本番の日を迎えてしまったため、その中途半端な状態がより不安を招いているらしい。


「そそそそそうよ。さっきみたいにれ、れれれ練習どおり吹けばいいのよ。大丈夫。私は冷静。私は燻製。スモークサーモン」

「いぶされてるぞ」


 もはや自分がなにを口走っているのかも分からなくなっているらしい。どうしたものかと思っていると、トロンボーンの浅沼涼子がやってきた。


「どうしたん? 二人とも」

「いや、こいつがすごい緊張しててさ」


 宙を見つめながら、「しゃけ。いくら。ハウマッチ」とぶつぶつとつぶやき続ける光莉は、完全に心が別世界に行ってしまっている。それを見て涼子は、全く引くことなく、むしろ突進していった。

 ためらうことなく光莉に声をかける。


「千渡さん! トロンボーンとトランペットは、本番は好きなようにいっちゃえばいいんだってさ!」


 鍵太郎と同じく初心者で入ってきた涼子だ。先輩にそう言われたらしい。

 底抜けの笑顔でそう言われた光莉は、その笑顔にあてられたようにぽかんとなった。


「永田先輩が言ってた! 『本番はやったもん勝ち』だって! どんなことがあっても、本番でそうなっちゃたらそれでいいんだって!」

「おい、それは」


 広美が先ほど言っていた、「メロディー楽器が暴走したときにカオスになる」あれではないか。低音としてはぜひ止めたいところだが、涼子はもう既に本番モードだった。


「だからさ、もう練習も関係ないよ! 出したいだけ音出して、最高にテンション高く吹こうよ! 練習どおりやるより、その方がお客さんも喜んでくれるよ!」

「あああ。こいつはまた、馬鹿みたいなことを……」


 鍵太郎は頭を抱えた。感性で生きるアホの子、浅沼涼子である。意外といいこと言っているような気もするのだが、本当にそれで大丈夫なのだろうか。さっきまで練習どおりにやると言っていた光莉の言葉を、全否定する内容だ。

 光莉がさらにおかしなことにならないかとハラハラして見れば、彼女はぽかんとした顔のまま、小さくつぶやく。


「やったもん……勝ち?」

「そうそう! 『出せば官軍』だっけ?」

「浅沼それ違う。意味は奇跡的に合ってるけど違う」

「あれ? ま、合ってればいいんじゃね?」

「おかしい……浅沼が馬鹿なのに反論できない」

「やったもん、勝ち……」


 鍵太郎と涼子が言い合っている脇で、不気味なほど静かに、光莉が言った。

 ううん。なんだか嫌な予感がしてきたぞ、と思う。

 光莉のこのパニックっぷりが、変な方に暴走しなければいいのだが。先日、彼女を低音として支えると言ったばかりだが、早くもそれがダメになりそうな気がひしひしとしてきた。


「おーい、そこの一年ども。楽器下ろすから手伝えー」

「あ、はーい」


 打楽器パート三年の滝田聡司たきたさとしに言われて、三人は動き出す。音楽室のある三階からトラックの待機している一階まで、使う楽器を下ろさなければいけない。

 既に他の部員たちは動き出している。かなり重い楽器を女子部員が四人がかりで持ち上げる様は、パワフルという言葉がぴったりだった。本人たちに言えばそのまま楽器で殴られそうではあったが。


「貝島、こっちは頼んだ。オレはトラックの積み込みに回る。よろしくな」

「了解しましたー」


 打楽器パートはテキパキと準備を進めている。そんな先輩たちが頼もしい。後輩に指示を飛ばして、聡司は鍵太郎にも言ってきた。


「で、湊よ。チューバは打楽器と一緒にトラックで運ぶから、そこまで下ろしてこい」

「あ、よかった」


 管楽器はトラックに載らないため、会場まで奏者が持っていくように、と言われていたのだ。楽器だけで十キロ、ケースも含めれば十三キロくらいになりそうなあの楽器を、キャスターつきとはいえ歩いて運ぶのはかなりきつい。

 聡司は哀れむような顔で「チューバとバリトンサックスバリサクだけは無条件でトラック行きだよ、心配すんな……」と言った。


「誰もあんな棺桶みたいなケースを、歩きで運べなんて言わねえよ。ドラクエじゃねえんだから」

「棺桶……」


 人が入れそうなくらいの真っ黒な楽器ケースは、確かにそんな表現が似合いそうだが。しかしこれから本番に向かうというのに、なんとも不吉な表現が続いている。

 カオス。

 やったもん勝ち。

 棺桶。

 女子部員たちは次々と、重い楽器を運び出していく。

 とりあえず自分も、あの棺桶みたいな楽器を運び出そう。そう思って鍵太郎も動き出した。

 ばたばたと、本番の朝は過ぎていく。

 考える暇を与えないほどの強さで、部員たちを演奏の場に引きずり込むように――。

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