第25話 低音楽器の役割
本番まであと一週間となった。
吹奏楽部による、学校近くの老人ホームの慰問演奏。
初心者ながらそれに参加することにした
「でも、だいぶ慣れてきたな……」
合奏が終わって、鍵太郎はつぶやく。
彼の担当は、金管最大の低音楽器である、チューバだ。
よく知られているトランペットなどと比べ、管の長さ・太さのスケールがはるかに大きく、酸素の消費量も桁違いになっている。
吹き始めた当初は毎日ブラックアウトの連続だったものの――先輩の言う通り吹いていれば慣れるもので、今はそこまででもない。
人間、なんでも適応していくんだなあ、と鍵太郎は思った。女性ばかり(一名除く)のこの部活にも慣れてきて、緊張が取れてきたのもあるかもしれない。
慣れてしまえば変に意識しなくて済むのだ。そう思っていると、同じ楽器を吹いている先輩、
「湊くん。今日もおつかれさまでした。がんばりましたね」
「はい、だいぶ苦しくなくなってきました。細かいところはまだ全然ですけど……」
「いいんです。最初のうちは、息をいっぱい吸っていっぱい吐く。それが身についてくればそのうち、細かいところもできるようになりますよ」
「そうなんでしょうか……」
同い年でトランペット経験者の
それでも、悔しいものは悔しいのだ。そう言うと、美里は笑った。
「
「役割、ですか」
野球でいえば、キャッチャーとショートの役割は全然違う。そんな感じかと元野球少年の鍵太郎は思った。
「低音楽器の基本的なお仕事は『みなを支える』ことです。土台を作って、上にいるみんなが自由に動ける場を作る。それが役割です」
「『支える』……」
「そうです。屋台骨というか、大黒柱というか。曲によって異なりますが、その軸を作るため太い音を出す。そのためには大量の息が必要です。なので湊くんは、今はその基本を身体に染みこませてください」
いっぱい吸っていっぱい吐く。冗談のように単純なそれが、全てに繋がっていくらしい。「他のお仕事も、まだまだありますけどねー」と美里は言ってきたが、それは教えてくれなかった。自分に伝授するには、まだ早いようだ。
「わかりました。まずはそれを……がんばります」
「はい。でも今日もがんばってましたよ。ほら」
美里が楽器の下部を指差した。そこには小さなレバーがある。レバーを引くと小さな穴が開いていて、そこから水がだーっと流れ落ちてくる。
水の正体は、呼気に含まれている水分だ。
息を吹き込んで音を出す吹奏楽器は、その性質上、どうしても内部に水が溜まる。楽器の中で息が冷やされ、水になって内部に残ってしまうのだ。
これを放っておくと音にゴボゴボと水音が混じったり、中が錆びたりしてしまう。
なのでこのレバーを使って、水を抜く。そしてこの水が大量に出てきたというのは、つまり楽器に息が大量に入れられているということだ。目に見える、練習した証といえる。
足元の雑巾にだばだばと落ちるそれに、「あーがんばったなー」と思う金管奏者は多い。
美里はそれを伝えたかったらしい。鍵太郎も、言われていた基礎ができていて嬉しかった。
「はい、たくさん出ましたね。今日もがんばりました」
「……。はい」
年上のお姉さんにそう言われ、一瞬、邪な妄想が脳裏をよぎる。
頭の中でそれをぶん殴って追い払い、素直に返事をして、泣きたくなった。俺って結構、むっつりだったんだろうかと、悲しい自問自答をする。
慣れてきたかと思いきや、まだまだそんなことはないと思い知った――湊鍵太郎、高校一年の春である。
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上達する鍵太郎とは逆に、調子を落としている人間がいた。
トランペットの一年生、千渡光莉だ。
彼女は中学で吹奏楽の強豪校に在籍していた。その腕を買われ、今回の本番でもソロを一曲任されている。
しかし光莉はまだ入部していない。トランペットに新入部員がいなかったので、その経歴を知った鍵太郎が引っ張り込んだ
そのソロは時代劇の曲のものだ。よく知らない時代劇のイメージを掴むため携帯で動画を見たりと、練習以外でも勉強熱心な彼女だ。
きっと本番ではすごい演奏をしてくれるんだろうなとみなが思っている中――合奏で光莉の音が、一瞬だけ狂った。
ふすっ――と音にならない音だけが聞こえる。
しかし次の瞬間にはそれは聞き間違いだったのだという感じで、何事もなく曲は過ぎていった。
あれ? と鍵太郎は思う。一緒に動画を見たりしてから、光莉はさらに磨きをかけてきたはずだ。
いつも完璧で、悔しいけれど追いつけない。
そんな存在だった彼女が、音が出ないなんてそんなこと。
周りは特に気にしてはいないようだった。まあそんなこともあるさ、といった風情で、曲は進んでいく。
そしてそれ以外は特になにもなく、合奏は終わった。
###
「珍しいな。おまえがミスるなんて」
帰り道に、光莉に言ってみた。プライドの高い彼女のことだ。すぐに憎まれ口を叩いてくるかと思いきや――ひと睨みされただけで、なにも言い返してこない。
こいつ、さっきのをそんなに気にしてるのか? と鍵太郎は首を傾げた。
音が出なかったとはいえ、たった一回だ。
それ以外はいつも通りで、相変わらずの精度を誇る。
そんなに気に病むことはないのではないか。そう言おうとすると――
「――たった一回のミスが、致命的になるときもあるのよ」
ぞっとする暗い声音で、光莉が言ってきた。そういえばトランペットのトップ奏者は責任重大だと言っていた彼女だ。それは確かにそうなのだろうが――致命的、とまで断言するのは、少し違和感がある。
「そんなに気負うことないと思うけど……」
「初心者でコンクールに参加したこともないあんたには、まだわかんないのよ」
「そりゃ俺は始めたばっかで、なんにも知らないんだろうけどさ。なんだよその言い方」
「わかんないのよあんたには。あの舞台の一番上に立って、たった一人でスポットライト浴びて、部員全員の期待背負って、千人の観客の前でソロを吹くあの重圧が。わかるわけないのよ、あんたには」
「千渡……?」
なんだか、様子がおかしい。今やっているのは、老人ホームの本番への練習だ。コンクールの練習ではない。
光莉はなにを言っているのだろう。
光莉は――なにと戦っているのだろう。
「あんたはなにも知らない。覚悟しときなさい。じゃないとあんたも、後悔することになる」
「あんた――『も』?」
「……っ!」
しまった、という顔で、光莉が顔を背ける。今の言い方は、まるで――
「後悔、したのか」
「……」
「なんかあったのか。中学のとき」
先輩の美里は言っていた。吹奏楽の強豪校では、吹けていないと頭や腹を殴られることがあると。
厳しい練習に相反する美しさ、落差の激しい理不尽を要求される、異常なプレッシャー。
彼女が昔、それに晒されていたとしたら――
「……失敗、したのよ。中三のとき」
観念したように、光莉は口を開いた。
一度そうなれば、あとははち切れんばかりに思い悩んでいたことが、溢れ出てくる。
光莉の言葉は、止まらなかった。
「コンクールの本番で、周りの誰も吹かない、私しか吹かないどソロの場面で。音が出なかったのよ。それまで失敗したことのないところで。私は負けたのよ。プレッシャーに。
この失敗のせいで――私の代だけは、上の大会に抜けられなかった。私のせいで」
常勝を誇る宮園中学の、恥さらし。
光莉は自分のことを、そう言った。
「……だから、うちの部に入るのをためらってたのか」
なんだかんだと理由をつけて、光莉は入部しようとしなかった。
それは楽器を吹くことそのものが、トラウマをえぐることになりかねなかったからだ。
うつむき気味に歩きながら、光莉は言う。
「あんたが楽しいって言うから、少しだけ……またやってみようって思った。もう一回、がんばってみようって――でも、本番が近くなってきて、また怖くなって。また音が出なかったらどうしよう、間違ったらどうしようって思ったら、今日も……音が出なくなった」
「千渡……」
「本番までがんばってみるけど……だめだったらごめん。それ以上迷惑かけないように、私は、いなくなるから」
だからこその、賛助出演。
本番で間違ったら、こうして暗い夜道をとぼとぼと歩くように――千渡光莉は、部から姿を消す。
その先には、なにがある?
光莉を隣で見つめながら、鍵太郎は口を開いた。
「……失敗したら、それで終わりなのか?」
「……」
「うまく吹けなくちゃ迷惑で、楽器吹く資格がないなんて言われたら――初心者の俺は、どうなるんだ?」
「……あんたはいいでしょ。まだ始めたばっかりなんだから」
「そうじゃない」
違う。それが言いたいんじゃない。
誰ならよくて誰なら悪いとか、そんなんじゃなくて、吹ける吹けないの話じゃなくて。
もっと、根本的な。
「迷惑だからとかそういうんじゃなくて――俺はおまえと一緒に吹きたいよ。それじゃ、だめなのか?」
プライドが高くて上から目線で物を言い、ムカつくやつでも――
音楽に真剣に取り組んで努力して、過去からの重圧を必死に跳ね除けようとしている彼女を、一人で暗い道に放り出す気にはならなかった。
「おまえは俺の目標だ。いてもらわなくちゃ困るんだよ。一緒に吹こう。先輩たちも一緒にさ――きっと楽しいぜ」
最近ようやく、合奏についていけるようになった。
美里やドラムの聡司とタイミングが揃ったり、トランペットの先輩のソロに合わせて動いたりするのが、なぜかわからないがすごく楽しい。
光莉もそこに加われば――きっと、もっと楽しいはずだ。
一人でこんな風に歩くより、絶対に、その方がいいはずだ。
「迷惑ってなんなんだよ。おまえも豊浦先輩みたいに好きに吹けばいいじゃんか。あの人が迷惑だとかそういうの気にしてると思うか? あんな楽しそうに吹いてて。おまえもそう言ってたじゃないか」
光莉が初めて部活に来たとき、陽気なチャルメラみたいだと言った奏恵の音。
へたくそだけどなぜか惹きつけられたというそれを、光莉もやってみればいいのだ。
昔のことなんか気にせずに、吹きたいように吹けばいいのだ。
だから、お願いだから、顔を上げてくれ。いつまでも下を向いて、不安そうに歩かないでくれ。
その一心で、言葉だけを送り続ける。
「ようやくわかった。本町先生が言ってた『上手いけどつまらない』って言葉。あれは曲のノリが違うっていう意味じゃない。過去の失敗ばっかり気にして、教科書みたいな音しか出せなくなってたおまえに言いたかったんだ。『もっとやりたいようにやれ』って」
「……!」
ようやく、光莉が顔を上げた。こちらを向いてくれた彼女に言う。自分の役割を。精一杯の息で。
「好きに吹けよ千渡――俺が支えててやるから。それが
光莉の目を見て真っ直ぐに。
拙い言葉は届いただろうか。ややあって、彼女は口を開く。
「……馬鹿みたい」
「千渡……」
だめか。光莉はこちらに背を向け、歩いていってしまった。
なにかぶつぶつ言っているのが、かすかに聞こえてくる。
「初心者のくせに。へたくそのくせに。偉っそーに……」
「……」
その通りなので返す言葉がない。勢いで言ったとはいえ、光莉クラスの吹き手を、初心者の鍵太郎が支えきれるわけがない。
彼女にはそれがよくわかっているはずだ。ずいぶん先に行ってしまった光莉は、こちらを振り返って叫んでくる。
「そんなこと言うんだったら、早く上手くなってみなさい! 全員支えられるくらい、てっぺんにいる
「ばーかって……」
小学生か。顔を真っ赤にした彼女は、思いっきり息を吸い込んでさらに続けてくる。
「やるわよ、やってやるわよ!! へたくそにここまで言われて、おめおめ引き下がる私じゃないわよ! すっごいかっこよく吹いて、あんたなんかゴミクズにしか聞こえないくらいの本番にしてやるんだから!」
「……あれ?」
これは……うまくいったのか?
光莉は完全に逆ギレ状態だが、言っていることはさっきまでの自信なさげなものではない。
判断に迷うところだが、これでいいの……だろうか?
「なにボーっとしてんのよ! なんで夜道で女の子一人にさせるの! 早くこっち来なさい!」
「じ、自分でさっさと行ったくせに」
文句を言いながらも、光莉のところに駆け寄る。叫びすぎたせいか彼女の顔は相変わらず真っ赤で――鍵太郎のことを待っていた。
「できるかどうかんなんてわからない。けど、やってみるわよ。その、好きなように吹くってやつ」
「それじゃ……!」
よかった。話が通じたようだ。そうしたら部活にも正式に入ってくれるかと訊こうとすると、光莉は慌てて言ってくる。
「と、とりあえず、今度の本番までなんだからね!? それがうまくいかなかったら、本当に、本当に、いなくなるんだからね!?」
「大丈夫だろ。おまえならできるよ」
「なんなのその無闇な信頼感!? やめて私ほんとプレッシャーに弱いんだから! し、失敗したらあんた責任取りなさいよね!?」
「なんで俺が……」
「人の気持ちを弄んだ罰よ! ばーか! ばーかばーか!!」
またも顔を真っ赤にして、彼女はズンズンと歩いていってしまう。これだけ好き勝手行動できれば、もう大丈夫だろう。
根拠のない予感だけれども、少なくともさっきのうつむいていた光莉よりは、ずっといい。
少しだけ彼女を支えられたことに安堵して、鍵太郎は光莉の後を追った。
本番の日は、近い。
第2幕 はじめての本番に向けて〜了
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