第15話 それはきっと、とてもとても楽しいこと。

「では、触ります。いいですか?」


 先輩の声に、うなずいて応える。

 呼吸に精一杯で返事ができないから、当たり前だ。鍵太郎の両脇腹に、美里の手が触れてくる。

 先ほどと違って心の準備ができていたため、悲鳴をあげるようなことはしなかった。

 だが位置を探るように美里の手が移動するため、ざわざわとした感触が脇腹や背中を伝っていく。

 優しく撫でられている感覚に、知らず知らずのうちに肩に力が入ってしまう。そして「はい、力を抜いてください」と後ろから美里に声をかけられる。さっきからこれの繰り返しだ。

 自分の中のなにか大切なものが削られていっている気がして、鍵太郎は諦めて色々なものを手放しそうになった。


「むぅ……だめですね。いまいちできている感じではないです……」


 そう言って美里が手を離す。鍵太郎は力尽きて、ぐったりとイスに倒れ込んだ。


「湊くんはこんなにがんばって練習しているというのに……。わたしの教え方がまずいんでしょうか?」


 美里が真剣に悩んでいた。

 いや、教え方はいいんです。

 ただ、実践の仕方が問題なんです。

 鍵太郎はそう思ったが、声にはならなかった。



###



 放課後の音楽室。

 そこでは、吹奏楽部の部長、春日美里かすがみさとによる、新入部員・湊鍵太郎みなとけんたろうへの、腹式呼吸の授業が行われていた。

 金管最大の低音楽器である、チューバ。

 それを吹くためには、まずは腹式呼吸を身につけなければならない――と言われ、鍵太郎はそれを美里に教わっているのだ。

 ちゃんとできれば脇腹の辺りが膨らむということで、確認のために美里が鍵太郎の脇腹を触り続けている。

 これがなかなかの幸せ――ではない。苦行だった。

 腹式呼吸のためには身体の力を抜かなければならないのだが、美里が脇腹を確認で触ってくるため、その感触に鍵太郎が緊張し、身体に力が入り、その度にたしなめられ、やり直してまた触られるという――ただ鍵太郎の理性が削られるだけでなにも得るものがないという、無間地獄に陥っている。

 そしてそれに美里は気がついていない。気付かれるとさらに困るからそれでいいのだが、そうすると状況を打開できなくて困る。八方塞がりとはこのことだった。

 せっかく楽器をうまく吹けるようになろうと思ったのに、敵はそれ以外の方面からやってきた。

 楽器の操作や音楽性の表現などではない。美里のこの天然っぷりが、一番の強敵だった。

 部長を任されるだけあって責任感も強いのか、彼女は真剣な表情で、鍵太郎に腹式呼吸を教えるべく思考を巡らせている。


「どうしましょう。どうすれば一番わかりやすいでしょうか。……あ、そうだ!」


 なにか思いついたらしい。もう、このどうしようもない永久機関から逃れたい。

 鍵太郎が切に願う中――美里は名前のごとき春の陽光の輝きをもって、笑顔で言ってきた。



「では、わたしの脇腹を触ってください!」



 ……。


「……先輩、今、なんて言いました?」

「わたしの脇腹を触ってみてください。僭越ながら先輩として、お手本となる腹式呼吸を実践いたします!」


 先輩は本気だった。

 鍵太郎にもそれは、十分にわかった。

 触られる心配は、とりあえず当面はなくなった。

 なのにどうしてだろう。状況が悪化した気がする。


「では、こちらへどうぞ!」


 招かれて、鍵太郎は嫌な予感を覚えながらも美里の後ろへ移動した。先輩は肩越しに言ってくる。


「吸うタイミングではなく、最初から触ってもらって結構です。どのくらい腹式呼吸で膨らむか、その手で感じてください!」

「ええと……いいんですか?」

「もちろんです! では、いっちゃってください!」


 やる気十分の先輩は、そう言って前を向いた。

 準備は整っているようで、あとは鍵太郎が、美里に触るだけだ。


「……。ええと……」


 戸惑いながら、美里の脇腹に手を伸ばす。どうしよう。先輩で、しかもちゃんとした理由があるとはいえ、女性の脇腹という部分に触れることにさすがに抵抗がある。

 どんな風に触ればいいのか。変な風に触って、美里から嫌われたくないとは強く思う。この人は天然だがいい人だ。やり方はともあれ丁寧に教えてくれるし、真剣に部活をやっているということも伝わってくる。その思いには応えたい。

 とにかく、そう、優しく、優しくだ――そう思って鍵太郎は、そっと美里の脇腹に触れた。



「ふみゃあッ!?」



 猫のような声を出して、美里がびくりと震える。

 こちらも驚いて手を引っ込めた。「ううー……」とうなりながら振り返る美里は、困ったように眉根を寄せ、涙目で言ってくる。


「あの……あまり優しく触られるとくすぐったいので……もっと、がっと、強く触ってください」

「……」


 これは――アカンやつや。

 どんどん状況が悪くなっている。これは、この展開は、先ほど以上によろしくない。

 だが鍵太郎に、降参する権利はない。覚悟を決めて、もう一度挑む。

 なんかもう、本来の目的を見失っているような気もするのだが、とにかくあれだ。突き進むしかない。なるべく変な展開にならないように、ご希望通り、がっと、強めに触る感じでいこう。いや、いかなければならない。

 しかし鍵太郎に、そこまでの度胸はなかった。

 美里に触れる直前でわずかにためらいが生じ、結局あまり強くはできないまま、ぺたり――と脇腹に手を置く。


「ふみゃう」


 再び先輩の口から変な声が漏れる。しかし心の準備ができていたのと、さっきよりは強めに触ったおかげか、彼女はビクッと震えたものの、耐え切っていた。


「……そ、そうです、そのくらい強めに……なのですが」

「……なのですが?」

「位置がちょっと……もう少し、背中側に手を動かしてもらって、いいです、か……?」

「……」


 動かす。それはあれですか、手を脇腹から背中の方へ、移動させるということですか。

 一回離した方がいいですか。それともこのまま触りながら移動させた方がいいんですか。

 でも離すともう一回触らないといけないですよね。もう一回変な声ききた……いや、聞きたくないです。だからこのまま触りながら移動させますよ。よござんすか? よござんすね?

 一瞬のうちにそこまで考えた鍵太郎は、震える手を美里の脇腹から、背中へと動かした。


「ん……むぅ……」


 ――大丈夫。別に俺、なにもやましいことはしていない。

 していないったら、していない。心の中でそう言っているのに、頭の中からぎりぎりぎりと、なにかが締め付けられているような音がする。

 そして美里の身体は、服越しにもわかるくらい温かくて柔らかかった。

 ああ、そうだよね。野郎の身体とは元から作りが違うんだよねそうだよね――と必死に現実逃避しながら、鍵太郎は手を動かす。


「もう少し、上、で……にゃう。ちが、もっと下……。う……あ、そこ、そこです。では、い、いきます……!」


 こんな状況でも、自らの使命を果たす美里は立派というべきか、なんというべきか。

 彼女が呼吸をすると、鍵太郎が触れた部分は驚くほどに膨らんだ。

 あ、ほんとだすごい、と素直にびっくりする。肺というのはこんなに膨らむものなのか、と鍵太郎は人生で初めて知った。


「……と、いうわけです。このくらい息を吸っていけば、この大きな楽器も吹けるようになります」


 美里がイスから立ち上がって、手が離れる。素早くその手を後ろに回し、そ知らぬ顔で先輩の発言にうなずいた。

 そう、これは腹式呼吸を教わっているんです。決していかがわしいことでは、ありません!

 色々あったが、なんとなく感覚は掴んだ。あとは自分でできるようになればいい。

 今ほど触ったあたりを、自分で触ってみる。確かに脇腹というか、かなり背中側だ。

 鼻から思い切り息を吸い込むと、肺が大きく膨らんだのがわかった。

 おお、なるほど、と納得する。確かにこれは、触らないとわからなかったかもしれない。

 やり方はアレだが、それだけにわかりやすく掴むことができた。


「なんとなく、わかってくれましたかね? これを意識せずにできるよう、練習してみてください。そうすればだいぶ楽になるはずです」

「わかりました」


 これだけ吸えれば、酸欠にもなりにくそうだ。

 さっそく体得してしまおう。鍵太郎はマウスピースを持って、呼吸を意識しながら音を出してみた。

 先ほどとは息の安定感が違う。吹ける時間も長くなった。

 ああ、これだけでこんなに違うんだ、と腹式呼吸の効果に感心する。隣では美里が、「そうそう、その調子ですよ♪」と教え子の成果に喜んでいた。

 少し辛くなってきたので、いったん休憩する。マウスピースを口から離してふぅ、と息を吐くと、美里が満面の笑みで言ってくる。


「すごいです、すごいです! これだけでこんなにできるなんて! さすが男の子は違いますね、チューバに来てくれてほんとよかったです!」

「いや、先輩の教え方がいいからですよ」


 そんなに褒められると、なんだか照れくさい。でも、そのおかげでこの楽器ならちゃんと音が出るかもしれない、という希望は持てた。

 やはりこのコンバートは、自分にとってよかったのだろう。顧問の先生には心の中で感謝しておく。

 よし、じゃあ今のうちにできるだけ身体に覚えさせよう、と鍵太郎が練習を再開すると――それにしても、と美里が言った。



「他人に触られるって、結構くすぐったいものですね。ひょっとして湊くん、さっきわたしが触ったときは、我慢してくれてたんですか?」



 ぶっ。



 思わず吹きだして、マウスピースから変な音が出た。「だとしたら、すみません」と美里が頭を下げてくる。


「あの、いいんですよ? 先輩だからって遠慮しないで、ダメなときはダメって言ってくださいね?」

「いや、さっきのは我慢していたというか……」


 うん、まあ、我慢していたと言っていいんだろうけど。それはたぶん、美里が考えている「我慢していた」と、ちょっと違う。

 そう思って言いよどむと、美里は少し眉根を寄せて、心配するように言ってきた。


「吹奏楽部は上下関係が厳しいというのが一般的ですが――わたしはここを、そういうところにはしたくないんです。だから、言いたいことがあったら、怖がらずに言ってください」

「ええと。ほんとのことを言うと気持ちよ――違います。あーっと、うん、くすぐったかったですかね」


 うっかりと本音がだだ漏れになるところだった。美里は部長でもあるので、その立場もあって気を遣ってくれたのだろう。「ああ、やっぱりですか。ごめんなさい」と先輩はすまなそうに言った。

 彼女は続けて、諭すように鍵太郎に言う。


「吹奏楽は団体競技です。先輩が怖くて意見が言えないなんて、そんな部活は――そんな合奏は、つまらないです」

「先輩?」

「全員の音が、全員の意思が出てきて、はじめて音楽というのは創られるんです。誰か一人が遠慮して、自分の思ったことを言えないなんて、そんなのは一緒に吹いてるとは言えません。

 だから、湊くんは初心者だからって遠慮しないでください。なにか思ったことがあったら、わたしに言ってください。だって、ここは――」

「――楽団バンドは家族、なんでしたっけ」


 鍵太郎が入部の際に、美里はそう言っていた。先に言われた彼女はきょとんとして、でもすぐに「そうです!」と嬉しそうに笑った。

 ああ、だからこの人は部長になったんだな――と、その笑顔を見て、鍵太郎は思う。


「わたしはここで、みんなと一緒に合奏をしたいんです! がんばって練習して、一緒に楽器を吹いて――それはきっと、とてもとても、楽しいことですよ――!」


 それこそ、家族のように。

 心を寄せて、本音を言って、なにかを創れるなら――こんな楽しいことはない。

 そんな考えは甘いかもしれない。単なる理想論に過ぎないのかもしれない。


 それでも――そんな夢を楽しそうに語る美里は、鍵太郎には、輝いて見えた。


 ぽーっと自分を見つめる後輩の視線に気付いたのか、美里は「はっ!」と我に返り、照れくさそうに頭をかく。


「あ、すみません、熱くなっちゃって……。恥ずかしいですね、これじゃわたしが、後輩に自分の意見を押し付けてるみたい――」

「いや――俺もきっと、そのほうが楽しいと思います、先輩」


 気が付いたら、そんな言葉が口をついて出ていた。

 不思議と、美里にはそう言っても大丈夫なような雰囲気を感じたのだ。

 なにかを言えば、受け取って投げ返してくれる――合奏というのは、音楽というのはきっと、そういうものだ。

 美里はそれを、教えてくれた。


「だから、俺、練習しなくちゃ。早く音出せるようになって、先輩と一緒に楽器吹かなくちゃ。

 春日先輩、教えてください――どうやったら、うまくなりますか?」


 鍵太郎の問いに、美里は「では、お教えします!」と言って、嬉しそうにこちらに寄ってきてくれた。



###



 息の吸い方や楽器の持ち方を教わっているときに、美里は鍵太郎に言う。


「なんだか嬉しいなあ。わたしずっと一人でこの楽器吹いてきたので、同じ楽器で後輩ができるって、すごい嬉しいんですよ」

「そうなんですか」

「はい。なんかまるで、弟ができたみたいです」

「弟、ですか――」


 その単語を聞いたとき、一瞬、鍵太郎の胸がキュゥ、と疼いた。

 今のは、なんだ――?

 『その感情』を紐解こうとしたとき、美里が「あ、いけないいけない。今は練習です」と言ったので、鍵太郎はそれきり、それを分析するのを止めた。


第1幕 入部すれば、そこは変人の巣窟〜了

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