第14話 腹式呼吸を練習しましょう

「……先輩」

「なんですか?」

「すごく……大きいです」

「ホルンに比べたら、それはそうです」


 ホルンからチューバへの楽器の変更を宣告されてすぐ。

 湊鍵太郎みなとけんたろうは、チューバの三年生、春日美里かすがみさとの元へやってきていた。

 部長でもある美里に先ほど渡されたのは、チューバのマウスピースだ。楽器に口をつけて吹き込む部分で、取り外しができる。

 きのうまでホルンのマウスピースを見ていた鍵太郎にとって、その大きさの違いは驚くべきものだった。

 美里が説明する。


「ホルンは金管最小のマウスピースになりますので、最大であるチューバと比べてしまうと、そう感じると思います。楽器も大きいので、必然とマウスピースも大きいんですよ」


 鍵太郎は美里の隣に立っている、そのチューバという楽器に目をやった。ベルの部分を土台にして、金属の塊が自立している。

 細長い楕円形に巻かれた金色の管。大きさは一メートル程度。重さは確か、十キロほどだと美里が言っていたか。ほとんど重機だった。

 マウスピースを見る。ホルンのそれは唇の中央部分を隠す程度のものだったが、今持っているコレは、ほとんど唇全体を覆い隠さんばかりのものだ。


「ゆきちゃんに音の出し方は教わってましたよね? ちょっと吹いてみてください」

「はい」


 しかし大きさはともあれ、音の出し方は一緒らしい。ホルンの海道由貴かいどうゆきに教わった通り、鍵太郎はマウスピースを口に当て、息を入れる。

 ビー、という音がした。ここまではできる。よし、と思った鍵太郎だが、美里は首を傾げた。


「なんだか、音が細いですね。なにかしましたか?」


 細いと言われて、鍵太郎はきのう由貴に咥えさせられたストローのことを思い出した。その旨を美里に告げると、彼女は納得したようで何度かうなずく。


「さすがはゆきちゃん、アパーチュアのイメージにストローを使いましたか。なるほどです」

「これだと細いんですか?」


 音を出す原理は同じと言われ、ストローの話も通じる。ではなにが異なるのか。美里は答えてくる。


「ホルンの息の流れが、コンビニで付けてくれる細いストローだとしたら、チューバの息はタピオカ吸うときのストローですね」

「太っ!?」


 違いは太さらしい。言われてみれば確かに、大きさが違うならその辺りも変わってくるだろう。すぼめていた口を少し緩める。

 それで息の太さは変わったようだ。マウスピースから出る音が、ビー、から、ブーに変わった。


「そうですそうです。いいですよ。そのまま口の中をもっと広く取ってください。音が深くなります」


 口の中を広くするとは、どういうことだろう。マウスピースを口に当てたまま戸惑って美里を見ると、通じたようで解説してくれた。


「ええとですね。あくびをするような感じです。喉の奥を広げるような感じで。息はそこまで早くなくていいです。ゆっくりと温かい息を吹き込んでください」


 色々と言われた。いっぺんにはできないので、まず喉の奥を広げるとやらをやってみる。最初はよくできなかったので、吹くのをやめてあくびの真似をする。なるほど確かに、口の中が広がった。

 それでもう一度やってみる。先ほどよりも息の流れが太くなったというか、質量が増した感じだ。そして言われた通り、少し吹く速さを落としてみる。さらに音が穏やかになったが、これは――


「……先輩」

「なんですか?」

「息が、もたないです」


 ホルンに比べて息が太くなった分、消費量が段違いに上がっている。

 耳のあたりが熱くなって、少し視界がチカチカした。軽い酸欠の症状だ。

 大きく息を吸って、吐く。何度か繰り返すうちに、酸欠は落ち着いた。顧問の先生が言っていたのを思い出す――チューバは、身体に負担が大きい楽器だと。


「大丈夫ですか?」


 美里が心配そうに覗き込んでくる。鍵太郎はうなずいた。女性の美里が吹いているのだ。自分がつらいなどとは言ってられない。

 先輩に促され、マウスピースをいったん返却する。彼女はそれをタオルの上に置いて、言った。


「息がもたないのは、吹ける分の空気を吸えてないからです。なので、湊くんにはこれから、呼吸法を教えます」

「呼吸法」


 なにやら太極拳とか、古流武術みたいな単語が出てきて、吹奏楽部のイメージがさらに体育会系寄りになった。「そうです」と深くうなずく美里は、どう見ても師匠というにはあまりにもほんわかしすぎなのだが。


「腹式呼吸というものです。単語くらいは聞いたことありますかね? 普段わたしたちがしているのは胸式呼吸と言いまして、肋骨を広げて肺に息を入れるんですが――腹式呼吸は横隔膜を下げて、肺に息を入れます」

「???」


 違いがよくわからない。

 結局、息は肺に入るのに変わりはないのではないか。横隔膜を下げるとか、意識的にできるものなのだろうか。

 鍵太郎の周りに飛ぶクエスチョンマークを見て、美里は「うーん」と悩んだものの、すぐにぱっと笑った。


「では、やってみましょう!」

「はあ」


 実践で身につけさせるようだ。言葉と理論で教えてきた由貴と違って、美里はやらせて教えるタイプらしい。

 楽器の特性上か個々の性格なのかは、よくわからないけれど。そう思ってイスに座る鍵太郎の前に立ち、

美里は指導を始める。


「ではまず、鼻で深く息を吸ってください」

「はい」


 言われた通り、ゆっくりと鼻から息をする。吸いきったところで美里が「ゆっくりと鼻から吐いてください」と言ってきた。何回かそれを繰り返す。

 やっているうちに、だんだん眠くなってきた。催眠術にでもかけられているような気分だ。少し目がトロンとしてくる。


「はいはい、できてきましたね。では、吸った息を入れるイメージを、胸からおへそのあたりに移動させてください」


 言われるがままに位置を変える――と、今まで空気を吸って膨らんでいた部分が、少し下に移動したのがわかった。

 あ、なるほど、とそのまま続ける。だんだんと重心が下がってきて、肺というより脇腹が膨れるような感じになってきた。これが、横隔膜を下げる、腹式呼吸。


「どうですか? なんとなくわかりましたか?」

「あ……はい」


 なんかでも……眠いです。

 素直にそう言うと、美里は「腹式呼吸にはリラックス効果がありますからねえ」とのんびりと言ってきた。その口調もなんだか、眠気を誘う。


「では次の段階です。今度は鼻と口両方で息を吸います。限界まで息を吐ききってください」


 少し苦しくなるくらいまで、息を吐ききる。「では、おなかを意識しながら、限界まで吸ってください」と言われ、思い切り空気を吸い込むと――


「はい、肩を上げない!」

「うぎゃうっ!?」


 いきなり美里に肩を押さえられた。

 いつの間にか彼女は鍵太郎の後ろに立っている。初心者の陥りやすいところに気を遣って、サポートするために移動してくれたのだろうが……いきなり身体を触られるのは、由貴のときと同じで心臓に悪い。


「胸式呼吸になると、呼吸をするときに肩が上がってしまいます。それはダメです。余計な力が身体に入るので、かえって演奏に支障が出ます。肩の力を抜いてください」


 後ろから、耳元で美里が言ってくる。これで力むなというほうが無理な話だ。

 反射的に肩を緊張させて上げてしまい、また美里に押さえられる。


「はい、力を抜いてください。だつりょーく。だつりょーく。はい、いいですよ……ゆっくりでいいですから、力を抜いてください……。……あれ、また力入っちゃいましたね。だめですよ?」


 肩に手を添えられながら、催眠術をかけられるように穏やかに呼びかけられる。耳元で囁かれるようなそれに、眠気となにか違うものが、頭の中でクラクラ回る。

 まずい。なんだかわからないが、色々まずい。

 じわじわと嫌な予感が鍵太郎の脳を侵食していく。

 それに負けまいと、必死に昂ぶりそうななにかを鎮めにかかる。肩の力を抜け。変なことは考えるな。呼吸を落ち着かせろ。穏やかな気持ちで、目の前のことだけに集中しろ――。

 その甲斐あってか、鍵太郎の身体から徐々に力が抜けてきた。後ろの美里が嬉しそうなのが、気配だけで伝わってくる。

 お釈迦様はこうして悟りに入ったのだ。鍵太郎は若くして、その境地を垣間見てしまった。


「はい、だいぶ力が抜けてきましたね。ではもう一度、思い切りおなかに息を入れてみてください」


 賢者となった鍵太郎は、鏡のように澄んだ心持ちで指示に従った。肩の力を抜いたまま、息を吐ききって、思い切り――吸う!

 そのときだ。

 肩にあったはずの美里の両手が、今度は鍵太郎の脇腹に、唐突に触れてきた。

 集中して鋭敏になった鍵太郎の感覚は、温かい美里の手のひらに触れられた刺激を、あますことなく伝えてきて――

 鏡のように波一つなかった鍵太郎の理性を、木っ端微塵に打ち砕いた。



「――――ッふ、ぎゃあぁぁぁぁッ!!??!?!?」



「えっ!? どうしたんですか湊くん!?」



 突然叫びだした後輩にびくりと震えて、美里は鍵太郎の脇腹から手を離した。直接の感触から逃れて、なんとか完全崩壊は免れる。

 肺の酸素を出し尽くして悲鳴をあげたため、あえぐように荒い呼吸を繰り返した。


「あ、ごめんなさい、突然触ってびっくりしちゃいましたか?

 ちゃんと腹式呼吸ができれば今触ったあたりが膨らむので、確認のためにと思ってやったんですけど……」


 美里といい由貴といい、簡単に人の身体に触りすぎだ。いくら楽器の上達のためとはいえ、こんな風にベタベタ触られるのは青少年の誤解を招く。

 しかし振り返れば、美里は叱られた子どものようにしゅんとなっていた。

 彼女の春の日差しのような雰囲気が曇っている。それは望まないことだったので、鍵太郎はむぅ、とうなって言いかけた言葉を飲み込んだ。


「……さすがにいきなりだったので、びっくりしました。すみません、変な声出して」


 言われて、美里はうつむいていた顔を上げた。「すみません……」と小さく謝られ、さらに申し訳ない気持ちが増す。慌ててフォローの言葉を紡ぐ。


「そんなに落ち込まないでください。急で驚いただけで……」

「じゃあ今度は、ちゃんと『触ります』って言ってから触りますね」

「驚いただけで……って、え?」


 え? ちょっと言ってることがよくわからなかった。

 今、美里はなんて言った?

 触りますって言ってから触ります?


「では、もう一度チャレンジです。湊くんがちゃんと腹式呼吸をマスターするまで、わたしは付き合いますよ。

 さあ――続きです。やりましょう湊くん!」

「……えーっと」


 両手を構えて言ってくる美里に、なんと言ったらいいのか。

 彼女のやる気はさらに燃え上がり、止めることなどできなさそうだ。「さあ! 早く!」とせかしてくる様からは、本当にこちらのためを思ってやっていることが、ありありとわかって――拒否することなど、できなかった。

 嫌な予感を増大させながらもイスに座り直して、鍵太郎は再チャレンジを始める。大丈夫。大丈夫だ。今度は心の準備ができる時間がある。

 なんとかなるはずだ。そう自分に言い聞かせて、肺の中の空気を吐ききる。


「はい、では触ります。いいですか?」


 美里の言葉に、うなずいて応える。

 思い切り息を吸うのと同時に――美里の手が、鍵太郎の脇腹に触れてきた。

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