第13話 守備位置転向

 失って大切だと気付くものは、たくさんあるけれど――

 湊鍵太郎みなとけんたろうの場合、きのうは友人を一人失ったように思えた。

 けれどそれは自分の思い違いで、失ってなんていなかった。

 そして、それでよかったと安心した次の日には、違うものがなくなっていた。



###



「新入生クンを、チューバに換えるんですか!?」


 音楽準備室の中で、海道由貴かいどうゆきが顧問に食って掛かった。

 彼女は吹奏楽部の三年生、担当はホルン。

 きのうまで、初心者の鍵太郎に楽器の指導をしていた先輩だ。厳しい人でもあるが同時に優しい先輩でもあることは、一緒に練習していて鍵太郎にもわかっていた。

 そしてようやく汚いながらも音が出るようになり、これからだ――というときに。

 楽器を変える、と。

 そう言った吹奏楽部の顧問の本町瑞枝ほんまちみずえは、身を乗り出す由貴を手で制して続けた。


「新入部員の中で、ホルンの希望者がいるんだよ。そいつは経験者だ。初心者の湊にこのままやらせるより、その子に入ってもらった方がホルンパートはいいだろ?」

「確かに経験者が来てくれるのは、ありがたいですけど……」


 あくまで由貴は、鍵太郎を手放すのを拒みたいようだ。これまで教えてきた手間を惜しんでいるとか、自分の仲間を減らしたくないからとか、そういった理由ではなく。

 少しでも自分のことを買ってくれていたからだといいな――と、鍵太郎は傍で見て、思っていた。

 本町教諭は渋面で、由貴を諭している。


「チューバが一本はきついんだよ。バランスが取れねえ」

「春日は去年まで一人で吹いてたじゃないですか!?」

「あれは弦バスがいたからだ。今は本格的に一人だから、バンド全体のバランスを考えると低音をもっと増やさなきゃいけない」

「そうかもしれません、けれど……」


 なおも渋る由貴に、しょうがねえなあ、とため息をついて本町は言う。


「なあ海道。気持ちはわかるが、部活全体のことを考えてくれ。春日は三年だ。卒業したら、誰がチューバを吹くんだ? 都合よく経験者が来るとも限らない。今年のうちに後継者を育てなくちゃいけないんだよ」

「……」

「希望楽器にチューバを書いたのは、湊だけだ。身体に負担の大きい楽器なだけに、男子部員がやってくれるのは非常にありがたい。それはおまえもわかるだろ?」

「……はい」

「極めつけは、きのうの音だな。たぶん湊の口は、ホルン向きじゃない。ユーフォかトロンボーンか、もっと大きい楽器向きの口をしてる」


 自分の口がそんな風に他人に語られるのは、なんだか変な感じだった。本町と由貴がじっとこちらの唇を見つめてくるので、鍵太郎は恥ずかしくなって顔を逸らす。


「チューバは譜面だけなら単純だから、初心者にもとっつきやすい。今のうちに切り替えれば、ホルンにいるより成長は早いだろう。そのほうが湊のためになる、そう思わないか海道?」

「わ、ワーグナーチューバなら……」

「確かにあれはホルン奏者が持ち替えして吹く楽器だけどな。あんなもん高校の吹奏楽部で使われてたまるか」


 相変わらずおまえ変なこと知ってんなあ、と言って本町は伸びをした。由貴の反論などどこ吹く風といった調子だ。教育者としてはどうなのかと思うが、言っていることは正しい。

 本町は身体を起こして机に手を組み、顎をそこに乗せて言ってくる。


「まああれだ。ここは本人の希望を聞いてみようじゃないか。

 どうだ湊。楽器変えないか?」


 そんな悪の秘密結社の首領みたいに言わなくても、と鍵太郎は思った。

 軽い口調で先生は言っているが、眼光はこちらを射抜いている。

 異論は許さない――と言外に伝えてくる顧問の圧力に負けて、鍵太郎は口を開いた。


「わかりました。チューバに移ります」

「新入生クン……」


 由貴ががっくりと肩を落とす。「そうこなくちゃな」と本町はニヤリと笑った。

 本当にこの人は教師なのだろうか。そう思いつつも鍵太郎は由貴に言った。


「先輩。あんまり気にしないでください。この部からいなくなるわけじゃないんです。野球で言う守備位置転向コンバートです。ポジションが変わっても、同じチームにはいるんでから」


 戦術の都合で守備ポジションを入れ替えるのは、野球でもよくある話だ。

 それで伸びた選手も数多くいる。中学まで野球をやっていた鍵太郎は、入れ替えで急にプレーがよくなったチームメイトを何人も見てきた。

 悔しいが、初心者で入部した以上、迷惑はかけたくない。

 きのうはどうしようもない音しか出なかったのが、今度は変わるかもしれない。そう思って鍵太郎はホルンからチューバへの転向を選択した。

 しばらく由貴は鍵太郎を見つめていたが、やがて諦めたようで、小さく息をつく。


「……そうだね。そのほうが君にとってもいい話なのかな……。あーあ。せっかく教え甲斐のありそうな子が来たのになあ」


 心の底から残念そうな由貴を見て、鍵太郎は嬉しくも、申し訳ない気持ちになった。きのうのうちにいい音を出していれば、あのままホルンに居させてもらえたのかもしれないと考えると、自分の無力さに腹が立つ。


「すみません、俺がヘタクソなばっかりに……」

「ああ、それはいいの。私の教え方もあるだろうから。けど――違う楽器に行っても、ホルンのことは忘れないでほしいな」


 寂しそうに言う由貴に、心が痛む。

 鍵太郎は自分の鞄から、小さな箱を取り出した。それを由貴に差し出す。


「これ……」


 それはおととい、由貴からもらった菓子と同じものだ。

 チョコレートを、薄いクッキーで挟んだ細長い形。

 彼女が好きと言っていた、楽器と同じ名前の菓子。


「ハンカチを貸してもらったお礼です。今日練習が終わったら、先輩と食べようと思ってたんですけど……こんなことになっちゃいました。すみません。これ、食べてください」

「新入生クン……」


 差し出された赤い箱と鍵太郎を交互に見て――由貴は、くすりと笑った。


「ありがとう、でも、そうだな――一個だけもらうよ。あとは君が食べて」

「え、でも」

「いいよ。あとは君が持ってて」


 言うと、由貴は箱からするりと袋を一つだけ取り出して、鍵太郎の胸に箱を押し付けてきた。戸惑う鍵太郎を尻目に、先輩はいつものように笑って言う。


「チューバに行っても、ちゃんと練習してね。うまくならないと、許さないんだから」

「先輩……」


 彼女なりの送り出し方に、さらに申し訳ない気持ちが増した。

 もっと上手くならなくては。この人に恥じないよう、練習しなくては――そんな思いで、鍵太郎は強くうなずく。


「おーい、先生の目の前で菓子を出すなー」

「先生もひとついかがですか」

「食う食うー」


 あっさりと買収された顧問が、菓子の包みを開けながら鍵太郎に告げる。


「よーし、じゃあ今日から湊はチューバに移れ。春日のとこに行って、また基礎から教えてもらえ」

「はい」


 音楽準備室を出て行こうとすると、由貴が横から声をかけてきた。


「がんばってね、新入生クン」

「先輩……」


 ひとつ、思うところがある。

 鍵太郎は足を止めて、由貴に言った。


「あの、その新入生クンって……そろそろ、やめてもらってもいいですか」

「え?」

「なんかちょっと……恥ずかしいんで」


 先輩とはいえ、あまりに子ども扱いで少々、決まりが悪い。

 由貴は一瞬きょとんとして、おかしそうに微笑んで、言い直した。


「そうだね。じゃあ――湊くん。がんばって」

「はい!」


 元気よく答えた後輩が、準備室から出て行くのをほほえましく見送って――由貴はつぶやく。


「なかなかかわいい子だったんですけどねえ……」

「あいつジゴロの才能あるんじゃねえか」


 もしゃもしゃと菓子を食べながら、教師にあるまじき単語を口にする本町。由貴はそんな顧問に苦笑する。


「素直でいい子なのは、この数日でよくわかりました。経験上言いますけど、そんな子は――伸びますよ。だから私が育てたかったんです」

「すまんな。しかしどうしても部のことを考えると、チューバにせざるを得なかった」

「わかってますよ」


 そこは正論だ。由貴も同じ立場だったら、鍵太郎に楽器の変更を勧めただろう。

 けど――


「素直なだけに……きっと美里には、あてられちゃうんだろうなあ」


 由貴はそうつぶやく。少しだけ悔しそうなその響きは――誰の耳にも、届かなかった。



###



 吹奏楽部の部長、春日美里かすがみさと

 女性にしては長身で、実は鍵太郎よりも背が高い。その身長を生かして、金管最大の低音楽器、チューバを吹く三年生。

 そして鍵太郎がこの部に引きずり込まれる、きっかけとなった人物。


「よろしくお願いします、春日先輩」

「はい、本町先生からお話は聞いてます。こちらこそよろしくお願いします」


 ぺこりとお辞儀される。由貴とはまた違った感じの、丁寧な先輩だった。

 美里は傍らに置いてある、自分の楽器に手を触れる。


「大きくて重い楽器ですが――奥深い、低音の世界にようこそ。一緒に頑張りましょう、湊くん」

「はい!」

「うん。いい返事です」


 それは、ホルンを何倍にも大きくしたような大きな楽器、チューバだ。

 太い管に、一メートルはあるだろう大きさ。重さは確か十キロと言っていた。こんなの吹けるのだろうかと少し不安になる。

 けれど、もっと吹けるようになりたいと、先ほど思ったばかりだ。

 こうなったことで、皮肉なことに部に入った当初より鍵太郎のやる気は刺激されていた。持ち前の負けん気を、さらに強く思い出してきたとも言える。

 何事も、やってみなければ始まらない――ということで。

 鍵太郎は美里に勧められイスに座り、硬くなった頬の筋肉を手でほぐしていた。そんな後輩に、彼女は言う。


「ホルンでもチューバでも、音の出し方は一緒です。唇を振動させて、音を出す――この原理はそのままです」


 美里に言われ、うなずく。ホルンでは汚いながらも音が出るようになった。そこまでは大丈夫だ。


「では、とりあえずマウスピースで音を出してみましょう。はい、これです」


 名前のごとく春の日差しのように暖かい微笑でもって――

 先輩は、ホルンに比べてはるかにゴツいマウスピースを差し出してきた。

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