第12話 象の遠吠え

「もげろ」


 友人にそう言われた。

 きのうの部活での出来事を話した途端だ。そこまで言われるようなことではないと思ったので、湊鍵太郎みなとけんたろうは普通に抗議することにした。


「なんだよ。楽器初心者だから、先輩に丁寧に教えてもらったんだよ。そんだけだよ」

「その先輩っていうのが、年上の優し厳しいお姉さんっていうのが問題なんだよ!?」


 どん、と教室の机を叩く友人の黒羽祐太くろばねゆうた。なにをそんなに熱くなっているのか、彼はさらに力説してきた。


「唇観察されてほっぺたマッサージされて、楽器の初歩を丁寧に教えてもらった挙げ句、先輩のハンカチを貸してもらってついには楽器から垂れた唾液を拭いてもらったんだろ!? もげろじゃ足りねえよ――滅びろ! 散れ!!」

「祐太、声でかい声でかい!?」


 こうして聞くとまあ、確かにすごい状況ではあったのだろうが。

 クラスのみなから白い目を向けられるのは避けたい。慌てて祐太の口を塞いで、安全を確保する。

 誰にも聞こえていなかったであろうことを確認して、ようやく鍵太郎は祐太を解放した。言い訳をするように、友人に反論する。


「だいたいあれ唾じゃねえし。吐く息の中の水分が水になって出てきただけだし」

「どっちでも同じだ。爆発しろ」

「マッサージじゃなくてつねられたんだよ。楽器を吹くのに顔の筋肉を使うからって。俺、表情筋が固まってるらしくてさ」

「触られたことに変わりはねえだろ!? ちくしょう、憎しみで人が殺せたら――!」

「祐太……」


 なにを言っても彼には届かないらしい。悔しさで震えている友人の肩に触れようとしたが、「リア充の慰めなんかいらない!」と拒否されてしまった。


「というか祐太……羨ましいなら祐太も吹奏楽部に入りなよ……」

「あー……」


 友人が顔を上げる。てっきり、じゃあおれも入る! と即答するかと思ったのだが――

 なぜか祐太は、歯切れが悪かった。

 そして、頭を振って苦笑する。それは、普段の彼の仕草ではないように見えた。

 違和感を覚えて、鍵太郎がどうしたんだと訊こうとすると――祐太は言う。


「悪い、湊」

「え?」

「おれ、吹奏楽部には入らない」

「は?」


 意味がわからないことを言われて、混乱した。

 だって、吹奏楽部に最初に興味を示したのは祐太だったはずだ。

 足を壊したから、もう野球部には入らないと言った自分に、じゃあ吹奏楽部はどうだと勧めてきて――

 ……彼は自分から一度も、吹奏楽部に入りたいとは言ってない。

 そのことに気付いて、鍵太郎の背筋がぞわりと粟立った。

 初めて演奏を聞いたときも、見学に行ったときも。

 祐太は鍵太郎に入部を勧めこそしたものの、自分のことになると結論をぼかし続けていた。


「よかったよ。吹奏楽部が楽しそうなところで。これならもう大丈夫だろ。ちっとはマシになるだろ」


 怪我をして野球を辞めて。

 ずっと暗い顔をしていた鍵太郎を、元気付けようとしてくれていた友人は――困ったように笑いながら、鍵太郎に告げた。


「ごめんな。おれ、やっぱ野球部入るわ」


 友人は最初からそのつもりだったのだと――ここでようやく、鍵太郎は悟った。



###



「……で、それで今日は一段と暗い顔してるってわけか」


 音楽室の一角で。吹奏楽部の三年生、海道由貴かいどうゆきがそう言った。

 放課後になって、部活の時間。鍵太郎が昨日と同じように、由貴に音の出し方を教わろうとしたら、訊かれたのだ。「なにかあったのか」と。

 先輩は鋭かった。


「……あいつとは小中と一緒に野球をやってました。明るくていいヤツで……でも、なんか……」

「裏切られたような気がする、と」

「……はい」


 いくばか迷ったものの、素直にうなずいた。

 確かに、彼には彼のやりたいことがあるのだから、それでいいのだろう。

 女子じゃあるまいし、一緒の部活に仲良しこよしで入らなくちゃ嫌だ、なんて風には思わない。

 けれど。


「なんで俺を騙すみたいに……ここに入れようとしたんでしょうか?」


 あれから、祐太とは話していない。悲しいのと気まずいのと、なんだかわからないごちゃごちゃしたものに邪魔されて、話しかけづらくなってしまった。

 野球をやりたいならやりたいで、素直に言ってくれればよかったのに、と思う。

 彼らしくない、こんなまわりくどいやり方で自分をここに入れるなんて、意味がわからない――。


「私の推測を言うとね、新入生クン」


 由貴がこちらを見て、言ってきた。


「たぶんその子は、君のためを思ったんだと思う」

「俺の?」


 わからなかった。彼は自分のやりたいことをやろうとしているのだ。ショックを受けて、そうとしか考えられなかったのだが……違うのだろうか。

 由貴のメガネの奥の瞳が、穏やかに鍵太郎を見つめている。


「そう。新入生クンは、怪我をして野球を辞めたって言ってたよね? つまり、すっきりと引退したわけじゃない。どこかでつらくて……悔しかったんじゃないかな?」


 松葉杖をつきながら、グラウンドを見ていたことがある。

 そのとき自分は――どんな顔をしていたのか。


「それを知ってた新入生クンの友達は、能天気にやりたいことを口に出せなかった。君がもう野球をやりたくないって言ったから。このまま彼が野球部に入ったら、君は表面では祝福できても、心のどこかで悔しい思いをするだろうね。もう自分にはできないことを、友達はあっさりとやっちゃうんだから。

 新入生クンを元気付けたかった彼にとって――それは、避けたい事態だったんじゃないのかな」


 違う。自分はそこまで狭量な人間じゃない。

 友達がやりたいことをやるなら、全力で応援できる。あいつが野球をやりたいって言えば、そうなんだ、がんばれよって――言えるつもりだった。

 なら――心の奥底にある、この黒い気持ちは、なんだろう?


「だから新入生クンの友達は、一計を案じた。野球じゃない他のことを、こいつにやらせよう、って。楽しそうな、君が全力を傾けられるような、つらかったことなんか忘れてしまえるような。そんなものを。

 そこで出てきたのが――この部だったんじゃないかな」

「そう……なんですかね」

「推測だよ。人の気持ちなんてわからない」


 まして、知らない子だもの――そう由貴は言って、自分の楽器を撫でた。彼女の担当するホルンは、金色の管をぐるぐると巻いた、円の形をしている。


「でもね、ここは吹奏楽部だから――当然夏には、野球部の応援に行くよ? それまでには、仲直りしておいてね。

 気持ちよく応援できないなんて。気持ちよく楽器が吹けないなんて――そんなこと、私は許さないから」

「……」


 この先輩は厳しくて――優しい。

 祐太の真意が少しだけわかったような気がして、鍵太郎はうなずいた。


「先輩は……すごいですね」

「後輩が変な顔してたら、気にかけるのは先輩の役目」


 変な顔とはご挨拶だ。むぅ、と口を歪めると、由貴はすっと楽器を構え、思い切り息を吸い込んだ。



 プアァァァーーーーーーーーーーーッッッ!!!



 象が吼えるような音を楽器から出すと、由貴は満足そうにふーっと息を吸って、吐いた。


「ああ、すっきりした。なんかストレス抱えたときは、思いっきり楽器を吹くのが一番だよね――って、どうしたの、新入生クン」

「いや……至近距離でものすごい音を食らったもんで……」


 耳を押さえて震える鍵太郎を、由貴は不思議そうな目で見てきた。慣れてない鍵太郎にとっては鼓膜にクリティカルヒットだったのだが、このくらいは吹奏楽部の常識の範疇らしい。


「はっはっは、君も楽器でストレス解消できるくらいになりたまえよ」

「その前にまず、音すら出ないんですが俺……」


 口を震わせることはできるようになったものの、マウスピースでやるとまだ音が出ない。

 そこができないと楽器から音が出ない。しゅん、とまた落ち込む鍵太郎に、由貴が言う。


「そうそう。そんなわけで、今日は秘密兵器を持ってきたんだ」


 そう言って、彼女は鞄から細長いなにかを取り出した。

 見れば、コンビニでパックのジュースを買ったときなどに店でつけてくれる、細めのストローだ。それを一本渡される。


「袋から出したら、口に咥えて」

「はあ」


 言われた通り、袋から出して咥える。なにも飲まないのにストローだけ口に咥えるというのは、お行儀が悪いを通り越して、単にシュールな光景だった。


「そのまま五分くらい咥えてて」

「ひゃんれすかそへ」


 なんですかそれ、という後輩の疑問は、ストローに封じられて形にならなかった。

 意味がわからないまま由貴を見返す鍵太郎をおかしげに見て、彼女は自分の練習を始めてしまう。

 居心地の悪いままストローを咥えていると、口やあごのあたりがだるくなってきた。きのう由貴が言っていた、口の周りの筋肉を使うというのはこういうことらしい。

 確かに鍵太郎の顔の筋肉は硬直していて――最近あまり笑ってなかったことが、よくわかった。

 そりゃあ、友人にも心配されるよなと思う。

 普段ノリで生きているようなやつが、柄にもなく計画を練って、悟られないように言動に気を遣って。

 最後には自分で突き放さないといけなくて。

 困ったように笑っていた彼は、あのときなにを思っていたのだろうか?

 五分が過ぎて、由貴がストローを外すように言ってくる。これでなんの効果があるのかと思うが、とりあえず口からストローを離す。


「はい、じゃあマウスピースで音出してみて。今のストローから、細く息を吐くように」

「はあ……」


 こんなんで効果があるのだろうかと半信半疑でマウスピースを口に当てる。言われた通りに吹いてみると――



 プー……



「!?」

「ほらできた」


 音が出た。びっくりした拍子に音が途切れてしまったものの、再度やり直すとまた音が出る。調子に乗って力んだらできなくなったので、もう一回ストローを咥えてやったらまたできた。


「すげえ……すげえストロー」

「ふふふ。新入生クンの音が出ない原因は、やっぱりそこだったか。ホルンのマウスピースは小さいから、息を細く集めないと、音にならないんだよね」


 そのための秘密兵器だったらしい。息の通り道をストローでイメージさせるとは。


「先輩、よくこんなの思いつきましたね」

「いや。わりと有名な矯正法だよこれ」

「そうなんですか?」

「そう。きのう帰ってから調べてみた」


 そうなのか。初心者の中学生高校生が、揃ってストローを咥えている光景は……なんだか、なんの儀式なのかと思うだろうけど。効果は抜群だ。

 鍵太郎は嬉しくなって、またマウスピースを吹いてみた。


「よし、じゃあ楽器つけてみようか」

「ほんとですか!?」

「ほんとほんと。じゃあこれ、私の楽器だけど――落とさないでね」


 最後のセリフだけはやけに鋭く――落としやがったら承知しねえぞ、という雰囲気がビリビリ伝わってくるものの。

 由貴は自分のマウスピースを外して、鍵太郎にホルンを渡してくれる。


「おおお……」


 初めて持つ楽器。ぐるぐる巻きのかたつむり。楽器紹介では『世界で一番難しい金管楽器』と言われていた、ホルン。

 由貴の真似をして、右手をベルの中に入れ、左手を反対方向のレバーに添えて構える。

 先輩はよほど心配なのか、横からさらに楽器を支えにきているが――一人で持ったと言ってもいいだろう。


「吹いてもいいですか?」

「どうぞ」


 お許しが出た。さきほどの由貴の真似をして、思い切り息を吸って、細く早く、ストローのように息を――!



 ベエエエエーーーー。



「……先輩」

「なに?」

「すっげ汚い音が出たんですけど」

「出ただけ進歩だと思うけど」

「そうですけど……」


 さっき由貴が出したみたいな、象の遠吠えとは違う。

 潰れて汚くて、同じ楽器から出したとは思えないような音がした。

 確かにまあ、初めてすぐに先輩みたいには吹けないだろうけど。

 一朝一夕でそんな音が出るわけがないということがわかって、まあ、そうだよね、と鍵太郎は苦笑いをした。


「ストレスを解消できるまで、時間がかかりそうだなあ……」

「はい、ぼやいてる暇があったら練習練習!」


 厳しい先輩は、横から楽器を支えながら叱咤激励してくる。こんな音をどれだけ出した先に、いつ由貴みたいな音が出せるのか、想像もつかないけれど。

 まずは、これで第一歩だ。

 そしてその先で、友人のことをちゃんと応援できているように――そう思って、鍵太郎は楽器に息を吹き込んだ。

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